皇帝の夫
執務の間に漂う緊張感はこれまでとは違っていた。
いつもなら俺は傍観者の立場でその張りつめた空気を肌に感じていたが、今日は当事者として重い空気を吸い、そして吐き出している。
御簾の向こうで心細そうに床に片膝をつけてその時を待っているファミル皇女。
そして、ライガンとエリゼ。
彼らの心境はどういうものだろう。
親善の使者として、あるいは、未来の配偶者としてここを訪れたかつての立場は今はどこにもない。
罪人として罰の宣告を受けるような気持ちだろうか。
彼女もこの騒乱の被害者だ。
継母であるユリア妃に帝国を乗っ取られ、実父を殺害された。
俺としては何とか寛大な処置を与えてあげてほしいと願うばかりだが、国軍を動かして戦禍を引き起こした責任は誰かが取らなければならず、そしてその資格を持つ人間はごく限られている。
ガリュー宰相が封書を手に脇から歩いて来て、御簾の前に現れた。
レイの言葉を代読する役割を負って、オッフェランの帝室の人間にその処置を言い渡すのだ。
玉座に向かって一礼し、ファミル皇女達の前に立場の違いを鮮明にするかのように尊大に立った。
「リーズラーン王国宰相ガリュー、オッフェラン帝国ファミル皇女殿下に申し上げる。大きくは四点。この四点は全てリーズラーン国王ロイス四世陛下の御意志そのものと心得ていただきたい。そしてこの御意志を受け容れるかどうかは貴国次第ではあるが、一点でも了承されない場合はロイス四世陛下の御意志に不同意という意思表示と見なし、貴国を、今、地下牢にいるユリア妃すなわち戦争犯罪人ユリア・ツェルニーと同一視して対応する。よろしいか?」
つまりはこちらの案を全て受け容れなければ敵性国家として認め、いつでも戦端を切ることができるよう準備をするということだ。
事実上、臣従の関係をオッフェラン帝国に求めたことになる。
しかし、直ちに一方的にオッフェランに侵攻し滅亡させると宣言しなかったということは、オッフェラン帝国存続の道を残したとも言える。
「はい」
ファミル皇女は消え入りそうな声で顔を伏せたまま返事した。
ガリュー宰相は恭しく封書から紙片を取り出し、両手に持った。
「では、まず一つ目」
ガリュー宰相の大きな声が鼓膜だけでなく全身にビリビリと響く。「オッフェラン帝国皇帝にリーズラーン王国の特別爵位を授与する」
つまりオッフェラン帝国皇帝はリーズラーン王国国王の家来になるということだ。
レイに呼ばれれば、何をおいてもこの王宮に駆けつけなければならなくなる。
「ありがたき幸せ」
ファミル皇女は立てた片膝に額を擦りつけるほどに頭を下げた。
もともと同盟国というのは体裁で、リーズラーンの支援がなければ国として成り立っていなかった。
一週間前、ファミル皇女は、それでも祖国が亡くなるのは胸が張り裂ける思いだと涙を流した。
今、頭を下げて礼を言ったのは、本心なのだろう。
彼女の肩の強張りが少し解けた気がした。
「二つ目に、オッフェラン帝国の現皇太子は廃嫡する。リーズラーン王国のしかるべき寺院にて出家し、その生涯をかけて今回の戦禍により命を落とした者の慰霊に努めるべし」
皇太子はまだ母恋しい六歳。
皇太子という意味も分かっていなければ、出家ということも理解できないだろう。
しかもオッフェランではなくリーズラーン王国での暮らし。
酷な処置である。
しかし、命は残る。
最悪の事態は免れたと俺は思った。
古くから、国同士の争いにより負けた方の君主一族は幼い子も含めて根絶やしにされることが多い。
将来の反乱分子を前もって摘んでおくという危機回避的措置だ。
冷酷なガリュー宰相なら、六歳男児の命も一顧だにしないのではないかと恐れていた。
リーズラーンの国内に留め置き、監視を怠らなければ大丈夫ということか。
「……はい。承知しました」
さすがにファミル皇女の返事にも間ができてしまった。
彼女はこれを皇太子本人に伝え、出家させなければならない。
辛い役目だが、これも皇太子自身が生きるためだと諦めるしかない。
「三点目として、オッフェラン帝国の新たな皇帝にファミル皇女殿下が即位することとする」
「はい」
幼い皇太子が廃嫡された今、他に適任者はいない。
ファミル皇女も覚悟していたようだ。
「そして、ファミル新皇帝の配偶者としてリーズラーン王国の王室からしかるべき方を選定する。こちらは現在検討中であるため、本日の発表はない。しかしながら、今後、貴国とは連携を密に取る必要があるため、まず我が国から皇帝の補佐役としてここにいるマッコリー侍従長を派遣する。何事もマッコリーと相談するように」
ガリュー宰相に指名されたマッコリー侍従長が「よろしくお願いします」と一礼する。
オッフェランに監視役を送り込むというわけだ。オッフェランの人間には窮屈極まりないだろうが、従属するということはこういうことなのか。
ファミル皇女は表情を変えず、マッコリー侍従長に礼を返した。
「以上である。何か言っておきたいことはあるか?」
ガリューの声が一際重く響く。意見があるか訊ねる格好ではあるが、言外に意見は許さないと言っているようなものだ。
「何もございま……」
「恐れながら、一つよろしいでしょうか?」
ファミル皇女が返事をするのを遮るようにライガンが声を張り上げた。
「ん?何か問題でも?」
ガリュー宰相は少しムッとしたような声を出した。
オッフェラン側が不服を言えるような立場だと思っているのか、と言いたいような雰囲気だ。
「ファミル新皇帝の配偶者に関しましては、是非ジャスパー様を選定していただきたいと存じます」
「え?」
俺は驚きのあまり思わず声を出していた。
執務の間で影武者の俺が発言をすることはありえない。
レイはもちろん、御簾のこちら側にいる侍従たちからも一斉にギロッと視線を浴びせられる。
ガリューが俺をたしなめるようにゴホンと咳払いをする。
「その件に関しては現在検討中だ。それ以上でも以下でもない」
「でしたら、是非ともそこにジャスパー様も候補の一人としてお加えいただき、ご検討賜りたい」
ガリュー宰相に対して、こんなに強引に要求を述べる人を初めて見た。
ファミル皇女が顔を赤らめて「ライガン。もう良い!」と小声で叱責する。
レイだけが面白がって、ニタニタ笑顔を俺に向けてくる。
そして、口の動きでこう言った。
「ジャスパーがいなくなるのは寂しいな」
オッフェラン帝国皇帝の配偶者に俺が?
まさか。




