いつもの部屋
どうして時間は遡れないのだろう。
いつでも昔に戻れるような気がするのに。
例えば、家の畑で遊んでいたら蜂に追いかけられて、母さんの脚に縋り付いた五歳の夏。
学校からの帰り道にある空き地で見つけた子猫に晩御飯のおかずを運んで与えていた十歳の春。
一緒に勉強をするために部屋に来たコニーとあまりの寒さに布団に包まって暖め合っているうちにそういうことが始まってしまった十七の冬。
実際、当時のことを思い出している時、思い出の中の俺は当時の俺だ。
頭の中でなら、いつでも昔に戻れる。
思い出に浸りながらまどろむ時間の何と心地良いことか。
しかし、ふと現実に戻れば、時は間違いなく進んでいて、ただ寂しくなる。
「ジャスパー!ジャスパー!」
誰かが俺の名前を呼んでいる。
誰だっけ?
「ジャスパー!」
とにかく返事をしなきゃ。
そうじゃないと、いつまでも呼ばれ続ける。
「んー、んあっ」
喉に何かゴツゴツした蓋があるような感じで、思うように声にならない。
「ジャスパー!ジャスパー!」
そうだ。
これはレイの声だ。
立たないと。
レイの盾にならないと。
「ああ。はいっ」
弾けるように目を開くと命に代えて守りたいと思った人の顔があった。
どうしたのだろう。
笑っているのに、頬を涙が伝っている。
「ジャスパー!良かった」
レイは膝から崩れるように俺のベッドに顔を伏せた。
これは夢なのだろうか。
何が起きて、どうしてレイが泣いているのか。
「頭の中では昔に戻れるのに、どうして現実では昔に戻れないんでしょうね?」
自分でも良く分からないが、思ったことをそのまま口にしていた。
「ジャスパー殿?」
視界にコールマンが入ってきて、「あっ!」と叫ぶように発した。
急に理解した。
俺はドラゴンの攻撃を受けて、意識を失ったんだ。
「ここは?」
「いつもの君の部屋だよ」
涙を拭い、鼻水をすすったレイが無理に笑ったような顔で告げる。
言われてみれば、白いレースの天蓋が懐かしい。
二日しか空けていないのに、すごく久しぶりにここで寝たような気がする。
あ。
ガリュー宰相とマッコリー侍従長もいる。
こんな人たちに見つめられて寝ていたのか。
「すいません。すぐに……」
俺は急に居たたまれなくなって、頭を起こし、ベッドから降りようとした。
しかし、体に力が入らず、眩暈がして「うぅ」と唸るしかできない。
「駄目だよ、寝てないと。怪我もしてるんだし」
怪我?
体を確認しようと顔に手を当てると、頬や額に布の感触と痛みがあった。
「あのぅ」
俺はおずおずと訊ねた。「ドラゴンは?」
二頭のドラゴンが王宮を襲った。
竜騎隊第一方面隊のボグス隊長がオッフェラン帝国の軍勢と呼応するかのように反乱を起こしたのだ。
なのに、俺は王宮の一室で眠っていて、戦っていたコールマンもここにいる。
「さすがに生きたまま捕獲はできなかったけど、二頭とも丁重に葬ったよ」
「二頭とも倒したんですか?すごいですね」
あんな巨大な空飛ぶ獣をどうやって倒したのだろう。
炎凰ならドラゴンすら手玉に取るのだろうか。
「覚えていないのか?」
ガリュー宰相がいつもよりもさらに険しい顔で俺を見る。
「はい?」
「一頭はコールマンだけど、もう一頭はジャスパー、君がやったんだよ」
レイが優しく諭すように教えてくれる。
「え?私が?」
「そうだ。さすがに二頭を同時に相手にするのは俺も難しかった。ジャスパー殿が一頭仕留めてくれなかったら、今頃、王宮はどうなっていたことか」
コールマンが見たことのない柔らかい表情で「助かったよ」と言う。
「いえ、そんな……。え?本当に?」
どうやって?
そんなこと、俺にできるはずがない。
そう思ったとき、ザウベルト農政長官の顔が不意に脳裏をよぎった。
長官は身を挺してジャガイモ畑を守ろうとした。
そして、ドラゴンの攻撃を受け、倒れ、頭から血が……。
その辺りから記憶にもやがかかる。
「王の声を使ったんだね」
立ち上がって俺を見下ろすレイの顔がどこか悲しそうに見えた。
「王の声?」
「ホーリー、つまり神聖魔法の一種だよ。前に言わなかったかな。声の響きや威圧感で周囲の生き物の力を奪い去る能力が王族にはあるんだ」
「そんなものを使った覚えが……。第一、私は王族では」
「ベルモンド家は王族から派生したんでしょ。ジャスパーにもその能力が受け継がれてるんだよ」
「そう、なんですかねぇ」
全くそんな実感がない。
王族の血が流れているというのも、父の淡い希望でしかないと思っていた。
「とにかく、これはジャスパーに返すね」
レイは俺に赤い宝石のブレスレットを手渡した。
「あ!これは……」
「ユリア妃に返してもらったよ。無事に取り戻せて良かった」
「申し訳ありません。こんな大事なものを奪われてしまって」
俺はベッドの上で可能な限り背中を曲げて頭を下げた。
「仕方ないよ。ジャスパーをオッフェランに派遣したのは余なんだから、余のせいだ」
「そんなことは……」
俺は首を横に振った。「ユリア妃は?」
「ユリア妃は今は牢獄に入ってもらっている。レンブール将軍もね」
「ボグス隊長は?」
俺の問いにレイは視線を窓の方へ向けた。
「亡くなった。最期は自ら……。ドラゴンと一緒に埋葬したよ」
「そうですか……」
「だから、ボグス隊長と共謀してリーズラーンに侵攻するという計画を立てたのは誰か、スタンリー帝は御存じなのか、今回の騒乱の全容解明のために彼女からは色々と訊き出さなきゃいけない」
「スタンリー帝は知らないと思います。スタンリー帝は離宮でユリア妃に殺されたのですから」
「やはり……」
レイは表情をかげらせた。「この王宮に向かって攻め寄せてきたオッフェラン軍の将校達はしきりに『弔い合戦だ』と叫んで士気を挙げていたらしい。誰の弔いなのか、窺い知れなかったけど、自分たちの皇帝がリーズラーンの手によって殺されたと訴えていたんだろうな」
「滅茶苦茶ですよ、それ。直接手を下したのはレンブール将軍だと思います。彼はスタンリー帝をシーツで巻いて油を撒いて、離宮ごと燃やしました。ユリア妃はそれを指揮していた。僕もスタンリー帝の隣で同じ目にあうところでしたけれど、シュバルさんに助けてもらって何とか逃げ延びたんです」
「……許せないな、ユリア妃」
レイの険しい顔を久しぶりに見た。
その表情にユリア妃の末路を知った気がした。「貴重な証言をありがとう、ジャスパー」
「いえ。……ファミル皇女はどうされてますか?」
麻痺の魔法は無事解けて、意識を取り戻しただろうか。
オッフェランとリーズラーンの両国の平和を願って眠りについたのに、目を覚ました時には両国が戦争状態になっていたということだと、ファミル皇女の心痛はいかばかりか。
しかも、実の父親を継母に殺されてしまって。
「彼女はリハビリを頑張ってるよ」
「リハビリ?」
「昏睡状態から意識は取り戻したんだけど、まだ四肢に痺れがあるみたいで、体が思うようには動かないらしい」
やはり麻痺の魔法での工作はファミル皇女の体に大きな代償をもたらしたようだ。
「会いに行っても良いですか?」
「他人の心配をしてる場合じゃないでしょ。まずは自分の体を元通りにしなきゃ」
「ですが……」
「ファミル皇女には、ジャスパーが帰ってきたことを伝えさせてあるんだ。すごく喜んでたみたいだよ。取り合えずそれで満足して、ジャスパーは今しばらく休んでほしい」
レイに「今は休むんだ」と強く言われたら、俺は黙るしかない。
枕に頭を委ね、部屋を出て行くレイ達を見送る。
すると一番後ろを歩いていたマッコリー侍従長が全員が出て行くのを見計らってから一人だけベッドに戻ってきた。
マッコリー侍従長の顔が寝ている俺の顔に近づいて来て、何故かブルっと寒気がする。
「ジャスパー。お前の母親の名は何という?」
「急に何です?」
「早く答えよ。ガリュー宰相が訊ねておられたのだ」
ガリュー宰相が俺の母親の名前を?
「キャシーです。キャシー・マクレガン。ちなみに父親は……」
「マクレガンだと?」
俺はベルモンド家の隆盛を願う父親の名前を覚えてもらいたかったのだが、マッコリー侍従長は「マクレガン、マクレガン……」と何度も呟きながら、ふらっと部屋を出て行ってしまった。




