スタンリー帝の逆鱗
「陛下がお待ちです。ユリア妃とレンブール将軍が同席されます」
ようやく通された広い場所には中央に煌びやかな軍服を着た、いかにもの六十歳ぐらいの男性が座っていた。
スタンリー帝で間違いないだろう。
斜め後ろの兵士がスタンリー帝の頭上に大きな傘を差している。
向かって左に座っている絵に描いたような美貌の女性がユリア妃なのだろうか。
落ち着いたネイビーのドレスなのに、一輪挿しのように淑やかで華やかだ。
スタンリー帝の妻にしては、若すぎないだろうか。
年齢はスタンリー帝の半分ぐらいのように見える。
そして、スタンリー帝を挟んで反対側に位置している、緩やかなウエーブがかかった長髪が特徴的な男性がレンブール将軍なのだろう。
武闘派の将軍と言うよりは頭脳明晰な文官をイメージさせる怜悧な眼差しが印象的だ。
「お初にお目にかかります」
俺は片膝をついて頭を下げ、丁寧さを心がけて挨拶した。
この場に至って不思議と緊張をあまり感じないのは、執務の間でレイや重臣と同じ空気を吸っている経験からだろうか。
逆にここまで来られたという達成感で高揚さえしている。「私はリーズラーン王国のジャスパー・ベルモンドにございます。本日は御無礼ながら、緊急の使者として我が主君ロイス四世の親書を持参しました」
懐から親書を取り出し、スタンリー帝に向かって両手で差し出す。
「お前……」
スタンリー帝は言いかけて、ウップとしゃっくりのような息を漏らした。「何者だ?」
「?」
名前は今、名乗ったが……。
階級や役職を訊ねられているのだろうか。
「陛下。リーズラーンのジャスパー・ベルモンド殿と名乗られたではありませんか」
隣のユリア妃が苦笑を浮かべ、とりなすように、スタンリー帝に囁きかける。
「おう、そうか。……ヒック。それで?普段は何をしている?」
スタンリー帝は明らかに酒に酔っている。
顔は赤く、目は淀んでいる。
呼気は届かないが、近くに寄れば酒気を感じるだろう。
昼間から……、と思わないではないが、勝手にやってきて謁見を請うたのだから仕方ない。
酒宴中だったのであれば、申し訳ない気もする。
「国王ロイス四世の傍で、身の回りの世話をさせていただいております」
「侍従か」
スタンリー帝は吐き捨てるように言った。
ヒック、ヒックとしゃっくりが止まらない。
「……はい」
事実だから頷くしかない。
が、スタンリー帝の不機嫌さがあまりに露骨で、どうしたものかと困惑する。
「ヒック。こんな若造の侍従が国を代表する使者とは、わしを愚弄しておるのか?」
スタンリー帝は急に立ち上がったかと思うと、頼りない足取りで一歩、二歩と俺に近づいてくる。
ぬっと俺を見下ろし、俺の顔に向かって唾を吐きかけた。「今すぐこいつを殺して、首を送り返してやれ!」
死ぬ?
異国の地で異国の王に会ったばかりで死を命じられた。
突然、奈落に突き落とされたような衝撃で、目の前が真っ暗になり、頬についた酒臭い唾を袖で拭うことさえできない。
控えていた兵士が近づいてくる足音や鎧の軋みにゾクゾクと鳥肌が立つ。
肩に掛けられた手を俺は思わず振り払った。
早く逃げなければ、ここで死ぬ!
しかし、何故か足が動かない。
あまりの恐怖に膝が震えている。
「待て!」
男性の重くて厳かな一声が時を止める。
レンブール将軍が兵士に向かって、動きを制するように掌を見せている。
スタンリー帝は俺の恐怖を知ってか知らずか、明後日の方角を見て千鳥足になっている。
俺は自分の奥歯が震える音を聞きながら、レンブール将軍を見た。
彼の次の一言に俺の生死はかかっている。
そのレンブール将軍の視線は真っ直ぐにユリア妃に向けられていた。
「大変な失礼を。許せ、ジャスパー殿」
ユリア妃が俺の傍に寄ってきて親書を受け取ると、スタンリー帝の腕に抱きつくようしてその動きを止めた。「先ほど、エリゼが申していたではありませんか。ジャスパー殿がファミル皇女の愚挙を止めてくださったのですよ。皇女の命の恩人です。その方には感謝しこそすれ、死罪を命じるなどあってはなりませんよ」
「おお。そうか。そうだったな」
スタンリー帝はユリア妃に促されて、笑顔で椅子に戻る。
どうやら、俺は生き延びたようだ。
周囲の兵士が去って行って、俺は全身から力が抜けて、思わず両手を地面につく。
「ロイス四世陛下はお傍近くに仕える優秀なジャスパー殿を密使として遣わされたのでしょう。きっと深いお考えがあってのことですよ」
ユリア妃はスタンリー帝の太ももの上に親書を置くと、「ねぇ」と色っぽい流し目を俺に向ける。
「いえ、そんな……」
「フフフ。ご謙遜ね」
スタンリー帝は面倒くさそうに親書を開いたが、文字に目の焦点が合わないようで、親書を近づけたり遠ざけたりする。
「んー。任せた」
スタンリー帝はすぐに読むのを諦めて親書をユリア妃に渡し、眠そうに目をトロンとさせる。
「あらあら」
親書を受け取ったユリア妃は元の位置に座り、苦笑を浮かべて親書を開く。「恐れながら、代読致します」
ユリア妃は淀みなく、親書を読み上げた。
持参したジャスパーのことを深く信頼して託したこと。
従って、スタンリー帝も彼のことを信頼してほしいこと。
ファミル皇女の態度は一国の君主に対するものにしては礼を失ししていると言わざるを得ず、非常にがっかりしたこと。
今回の一件で重臣たちはオッフェラン帝国の心中を疑っていること。
皇女の看護と今後の両国の友好のためスタンリー帝直々にリーズラーンへお越しいただきたいこと。
そういうことが簡潔に書かれている。




