ねこねこパニック
スプリング家がアンタレス国に移り住んで、数ヵ月。シェリルは忙しくしていた。
スプリング家は今、ウィルの命令にのみ従う組織である。そしてウィルがスプリング家に最初に命じた仕事は、リリーとの結婚に向けた政治活動だった。カルロは最初、それならローリーを暗殺しましょうかと半分本気でウィルに提案した。そして予想通り提案は却下された。スプリング家にとって厄介だったのは、ウィルが血なまぐさい手段を望まないことだ。なぜ厄介なのかというと、スプリング家はこれまで平和主義の主君に仕えたことがなかった。大抵の仕事には血のひとつやふたつ流れるのが普通だった。しかし、ウィルの元で求められるのはコツコツとまるで繊細な布を編むような作業である。もちろんそれが出来ないわけではないのだが、シェリルたちも人間なのであって、地道すぎる暗躍の日々に気力と根気を奪われつつあった。そしてそんなときにカルロが、これまた厄介な現実逃避を始めた。
「猫に変身する薬?」
ジェイミーは言葉の意味を理解していないオウムのように、シェリルの言葉を繰り返した。シェリルは大きく頷くと、これがいかに迷惑な出来事であるかを伝えなければと、隣に座っているジェイミーに体ごと向き合い窮状を訴えた。
「どこまで本気で言ってるのか分からないけど、飲んだら猫に変身できる薬を作って姿をくらませたいって言ってるの」
「カルロは猫に変身なんかしなくても姿をくらませられるだろ」
「ジェイミー、カルロさんの言う事を真面目に受け取っちゃいけないわ。カルロさんはただ仕事をサボる口実が欲しいのよ。訳のわからないことを言って追い詰められてるふりをしてるの。ちなみにカルロさんは薬ができたらジェイミーで実験するって言ってた。だからカルロさんからもらったものは絶対に口に入れちゃだめだからね」
ジェイミーはシェリルの忠告にどう返答したらいいか分からないようである。そもそもそんな薬を作れるわけがないのだから、実験も何も、と表情が語っている。
シェリルはジェイミーの反応を見て目が覚めた。久しぶりにジェイミーとゆっくり話すことが出来ているこの昼下がり。まぁ場所は騎士隊の執務室だし二人きりでもなく、ジェイミーは仕事の合間の休憩時間にシェリルの相手をしてくれているという状況ではあるが、それでも貴重な時間には変わりない。その時間をカルロの話題で終始するなんて自分は一体何を考えていたのだろう。
スプリング家がアンタレス国に移住してからというもの、ジェイミーは例のごとく騎士隊の仕事で忙しく、シェリルも忙しくしていた。おまけにジェイミーはシェリルが数ヶ月前にレグルス国で負傷したことを気にして、時間があったとしてもあまり出かけたりというような体力を使うことはしたがらなかった。
つまり今、この瞬間が二人の愛を育むためのチャンスなのである。このせかせかと働く騎士たちに囲まれた全くロマンチックと言えない空間で、シェリルはジェイミーとの仲をさらなる次元に到達させなければならないのであって、カルロの話などしている場合ではなかったのだ。
シェリルが反省と決意をしている向かいで、ニックが声を上げた。
「ていうかさぁ、お前さっきからなんか、シェリルちゃんに近くないか」
未処理の書類が広がるテーブルを挟んだ向かいから、ニックは若干呆れた視線をジェイミーに向けている。
シェリルははたと隣を見た。そういえばさっきからジェイミーはピッタリとシェリルの身体に寄り添っている。ジェイミーはあまりスキンシップが多い人ではない。ここ最近は特にそうだ。だからこの距離感は確かにジェイミーらしくない。
冬も終わろうかという季節であるがアンタレス国は相変わらず雪に覆われており、室内であっても暖炉の火やストーブだけで寒さから逃れるというのはなかなか難しい。寒いのだろうか、とシェリルはジェイミーを見て思った。しかしジェイミーもなぜか不可解そうな表情である。
「なんか、さっきからシェリルにくっついてないと落ち着かなくて」
「何を不可抗力みたいに言ってんだよ。触りたいだけだろ」
「触りたいか触りたくないかで言ったらそりゃ触りたいけど今問題なのはそこじゃないだろ」
「逆ギレ!」
ジェイミーの様子も気になるが、シェリルはニックの様子も気になっていた。
「ねぇニック、それ、大事な書類なんじゃないの?」
ニックはさっきから机の上に広がっている書類をビリビリと破いていた。最初は情報漏洩を防ぐためにそうしているのかと思った。だがシェリルはニックが破いている書類を、ついさっきまでスティーブが作成していたのを見ていた。
「あー、何か、さっきからこの書類を台無しにしたくて仕方ないんだよなぁ」
「俺もお前の人生を台無しにしてやりたい、今すぐ」
いつの間にか、スティーブがニックの背後に立っていた。ニックは「うわ」と声を上げて背後を振り返った。そしてスティーブの手元を指さした。
「お前何でゴムボール持ってんの? それで何でそれを俺に差し出してくるの?」
「何故かさっきからこのボールを誰かに投げてもらいたくて仕方なくて」
「多分だけど、そのボールを俺が投げた瞬間お前は人としての尊厳を失うぞ」
シェリルはさすがにこの状況のおかしさに気づいた。しかもさっきからずっと気になっていることがあるのだ。
「ウィル、なんでさっきから部屋の隅に座ってるの?」
ウィルは先ほどから何故か部屋の角に膝を抱えて座っている。ウィル自身も困惑した表情を浮かべ、首をひねっている。
「なんでだろう、さっきから狭い場所にいたくて仕方ないんだ」
ここまで来るとシェリルもこの状況を誰が招いたかを嫌でも推測できた。誰も彼もまるで猫のような振る舞いをしているが、まさかシェリルをおちょくるために全員で示し合わせた訳ではないだろう。何しろ猫の薬の話は先ほどジェイミーに告げたばかりである。
カルロをこの場に引きずってこなければ、とシェリルが立ち上がろうとしたとき、ジェイミーが突然シェリルの肩を押さえた。
「おいおい、公衆の面前で何をしようとしてるんだ何を」
ニックの慌てた声を無視して、ジェイミーはシェリルの首元をすんすんと嗅ぎ始めた。
「いい匂いがする」
ここ数ヶ月の間指一本触れてこなかったジェイミーのこの行動に、シェリルは意表を突かれ動けなくなってしまった。硬直するシェリルにニックが声をかける。
「嫌なら蹴飛ばせ。やせ我慢の反動だ。じき毛づくろいされるぞ」
「でも……うわっ」
嫌ではないけど、と迷っている間にあっさり押し倒されてしまった。あーあ、と言いながらニックが立ち上がる。助けてもらえると思ったのだが、ニックは突然慌てたように叫んだ。
「おいウィル! お前、その図体で引き出しの中に入るのは無理だぞ!」
言いながら駆け出したニック。何やら大変なことが起きているようだがこちらも大変だ。ジェイミーは今シェリルの髪の毛にすんすんと鼻を埋めている。ニックの言う通りじき毛づくろいを始めるのではないか。
シェリルはまるで景色の一部であるかのようにこちらに関心を寄せないスティーブに助けを求めた。
「ちょっと、早く助けてよ!」
「やだよ。今俺が近づいたら怒りそうだし」
「ジェイミーに限っていきなり怒ったりしない!」
「ジェイミーに限って職場で女を押し倒したりもしない。そいつ今正気じゃないよ」
絶対正気じゃないけれども。
ニックの言う通り蹴り飛ばすしか無いのかと思ったが、正直言ってこんなふうに甘えられるのは嬉しい。許されるならナデナデしてあげたい。だけど一刻も早くジェイミーを元に戻してあげるのが、恋人として自分がやるべきことなのではないだろうか。いやしかし……。
頭のなかで天使と悪魔を戦わせていると、突然のしかかっていた重みが消えて視界が明るくなった。見上げると、カルロがジェイミーの首根っこを掴んで立っていた。
「効果絶大だな。まさかこんなに効くとは俺も予想外だ」
「カルロさん!」
シェリルは文句を言う前に服の中に隠し持っていたナイフでカルロに切りかかった。カルロはジェイミーを掴んでいない方の手でシェリルの腕を掴み攻撃を防ぐと、うーん、と悩ましげに唸った。
「しかし、猫耳と尻尾くらいは生えると思ったんだが、流石にそれは無理か」
「ジェイミーを離してあげてください! かわいそうです!」
「今離したらお前に飛びかかるぞ。見ろこの見せかけの反省顔を」
カルロがぐいと腕を持ち上げて見せてきたジェイミーは確かに、親に怒られる子供のような目でカルロを見ている。耳と尻尾があったら絶対にへにゃんとしている。一応見られたらまずいことをやった自覚はあるようだ。
「落ち込んでるじゃないですか。カルロさんのせいですよ。何てことしてくれたんですか」
「人によって効果に差があるようだ。ジェイミー君は完全に言葉を忘れたな」
何てことだ。シェリルはカルロの手を何とか逃れ、ジェイミーの顔を両手で挟んで真正面から問いかけた。
「ジェイミー、何か言ってみて、なんでもいいから、ほら」
ジェイミーは困り顔のまま、ゆっくりと瞬きをしたあと口を開いた。
「……にゃあ」
ショックで固まっているシェリルのすぐそばで、相変わらずゴムボールを手のひらに乗せているスティーブがカルロに声をかけた。
「どうやって仕込んだんですか」
「軍の食堂で食事に混ぜた。君たち本当に危機感がないな。これが毒だったらどうするつもりだったんだ」
「ある意味毒でしょう。食堂ってことは他の隊も今頃めちゃくちゃだろうし」
スティーブの言う通り、今騎士隊の執務室はひどい有様である。棚の上にのぼりできるだけ高いところを陣取ろうとする者、ストーブに近づきすぎて焦げている者、多かれ少なかれ誰もが影響を受けている。今どこかの国に攻め入られたら確実に終わる。
シェリルはジェイミーの頭を撫でながら、せめて自分はジェイミーのお世話だけは全うしようと決意していた。
「大丈夫よジェイミー。私が毎日ブラッシングして、おもちゃで遊んであげるからね」
「にゃあ……」
ジェイミーはどことなく不満そうだが、これからちょっとずつ距離を縮めて、いつかはシェリルがベッドに入るのと同じタイミングでジェイミーもベッドに寄って来てくれるくらいには心を許してもらって、それから時々胸のあたりを吸わせてもらって……。
シェリルが新たな人生計画を立てていると、カルロが壁の時計を見ながら言った。
「毎日ブラッシングできるほど効果は続かないぞ。あと数十分もすれば元に戻る」
「後遺症は残らないんですか? ジェイミーの語尾が『にゃあ』になったり、ジェイミーののどがゴロゴロ鳴るようになったり、ジェイミーが丸くなって寝るようになったり」
「残念ながら残るのは人としての屈辱だけだ」
「そんなぁ」
今のうちに中身だけ猫と化したジェイミーを堪能しようと、シェリルはジェイミーの頭を抱きしめてよしよしと撫でてやった。ジェイミーはさすがにのどは鳴らさなかったが、シェリルにすりすりと顔を寄せて甘えてきた。数十分後、ジェイミーは頭を抱え人としての屈辱に耐え忍ぶことになるのだが、シェリルはもう一回ぐらいジェイミーに猫になる薬を飲んでもらいたいな、と密かに思ったりするのであった。
後日談
ジェイミーは「シェリルが猫の薬を飲んだところも見てみたい」と考えていたが、ニックの「ネズミや虫を大量に捕まえてお前に見せに来そう」という言葉で断念しましたとさ。




