5.砂漠の王国
「申し訳ありません、私、子守りが下手で……」
レイチェル・スタンシーは泣き叫ぶ赤ん坊を抱えながら、本人も泣きそうな顔で呟いた。談話室にいたのでは周囲に迷惑がかかると思ったのか、廊下のすみに隠れてしょんぼりしている。
「いいんだよ。こうなったら誰があやしたって泣き止まないんだから」
ジェイミーはレイチェルの腕から赤ん坊を取り上げながら、なるべく楽観的に聞こえるような言葉を選んだ。
そもそもレイチェルは由緒正しき男爵家のご令嬢である。子守りが下手で当然で、そのことに関してジェイミーは少しも不満はなかった。
「だけど、ジェイミー様が抱くと泣き止みます」
恨みがましいような声で言われて、ジェイミーは頬をひきつらせる。
「それは、俺がレオを構いすぎてるからかな。おもちゃか何かだと思ってるんだよ」
ジェイミーが抱き上げたとたんぴたりと泣き止んだレオは現在、軍服のボタンにかぶりついている。まさかそこから母乳が出るとは思ってないよな、と少し心配になったジェイミーだったが、それより心配なのは目の前にいるレイチェルが機嫌を損ね、泣き出してしまわないかということだった。
これまでの人生で泣いている女性を上手く慰められたことが、果たしてあっただろうか。ジェイミーは過去に思いを馳せる。
慰めたつもりだったのに、余計に泣かれてしまったことはある。口を利いてもらえなくなったこともある。花瓶で殴られそうになったこともある。ざっと思い返しただけでも、このありさま。だからジェイミーは、泣くな、泣くな、と全力で念を送った。念が通じたのかレイチェルは泣くのをなんとか耐え、少し赤くなった目でジェイミーを見上げた。
「交流会の準備の、最中だったんですよね。お戻りください。その子のお世話は私にお任せください」
涙声でそんなことを言われて、はいそうですかと頷く度胸などジェイミーにはなかった。
「いや、交流会の前にひとつ仕事が入ったから、ついでに連れてくよ」
何のついでか分からないが、とにかくやんわりと申し出を断る。レイチェルはジェイミーのことを湿っぽい顔で見つめる。
「そうですか?」
「そうそう。レイチェルもずっと馬車に乗ってたから疲れてるだろ。今すぐ休んだ方がいい」
不満顔のレイチェルをジェイミーは半ば強引に談話室に押し込む。それからホッと、肩の力を抜いた。
「アンタレス国に急使を送りたい? 無理だよ、そんなの」
「そりゃまぁ、そうですよね」
容赦のない案内役の返答を聞いて、ジェイミーはむなしく言葉を返した。
レグルス国軍に所属するその男は、ヌブと名乗った。恰幅がよく、嵐が来ても突風が吹いてもびくともしなさそうな、全体的にどっしりとした男である。
レグルス人のほとんどは、髪と瞳が濃い茶色だ。そして誰もが彫刻のようなはっきりすっぱりした顔をしている。ジェイミーは彼ら一人一人を完璧に見分ける自信があまりない。しかし今目の前にいるヌブのことは、容易く見分けることができるような気がした。
「で、それは僕を説得するための作戦?」
ヌブはジェイミーが抱いているレオを指差して、警戒心たっぷりに尋ねてきた。
「ああ、いや、抱いてないと泣き止まなくて」
すやすやと寝息をたてるレオは確かに、天使のように愛らしいが、だがしかし、ジェイミーはこの愛らしさを利用しようと企むほどの策略家ではなかった。ついでに言うと押しの強さも夢も希望もなかった。だから祖国と連絡を取りたいという望みをヌブに一蹴されてすぐ、特に食い下がることもなくその結果を受け入れた。
「それじゃあ、さっそく施設を案内するよ。そうそう、宿舎の居心地はどう? もし広さが足りないなら余ってる建物を開放するけど」
「まさか。不満なんてありません、宿舎に関しては」
ジェイミーは呆れた気持ちを隠しつつ答える。
アンタレス国軍にあてがわれた宿舎は、それはもう立派なものだった。舞踏会でも催せそうな談話室。晩餐会でも開くのかというくらいの食堂。アンタレス国軍の兵士は、遠征とはすなわち野営をすることと心得ているが、レグルス国軍がアンタレス国軍に提供したのは、兵士一人につき一部屋の広々とした個室であった。これではもはや遠征というより、豪勢な行楽である。
大げさすぎるもてなしは、強者としてのプライドなのだろうか。それともこれがレグルス国の普通なのか。
とんでもない国に足を踏み入れてしまったと、ジェイミーは今さらながらに戦慄を覚えた。今案内されている施設だって、高度な文明を思わせるものばかり。ボタンを押すだけで紙に文字を記せる機械がたくさん並んでいる部屋を見せられたときには、一周まわって、あれもこれも張りぼてなのではないかと疑ったくらいだった。
圧倒されるがゆえにぼんやりと話を聞いていたジェイミーの姿は、ヌブにあらぬ疑念を抱かせたらしい。ヌブはアンタレス国軍が普段使用している訓練場の、三倍はあろうかというくらいの広さの訓練場を案内しながら、釘をさすように言った。
「これは親切で言うんだけど、祖国と連絡を取る方法をいろいろ考えてるなら、時間の無駄だよ。君たちがどんな手を使ったって、陛下はそれを阻止するだろうから」
「俺たちは反乱軍と戦うための駒として数えられてるんですか? だから今逃げられると、困るってこと?」
「それもある。だけど一番困るのは、レグルス国がごたついてることをローリー国王に知られることだ。レグルス国に貸しをつくる絶好の機会を、絶対に逃さないだろう、あの方は」
「あー……」
そんな心配はいらない、うちの国王は純粋な親切心で、レグルス国の力になりたがるはずだ、などと、ためらわずに答えることができないのが辛いところである。
「こっそり国を抜け出すなんてことも、やめときなよ。十中八九、命を落とす」
ヌブの言葉に、なぜ、と疑問を投げかける必要などなかった。
レグルス国は広大な砂漠に囲まれた国だ。それはまさに、天然の要塞と表現するにふさわしい障壁だった。アンタレス国軍は入念な準備の末に、この国に入国した。どんなに屈強な人間であっても、備えのない状態で砂漠を越えることは不可能だ。
「実は、家族もこの国に連れてきてるんです。まさか国の中がこんな状態になってるなんて、思わなくて」
ジェイミーはため息混じりにぼやいた。せめて軍人でない者たちだけでも危険な区域から遠ざけることはできないだろうか。そう尋ねると、ヌブは申し訳なさそうな顔を向けてきた。
「女王陛下のお側にいるのが、一番安全だよ。陛下は神の末裔であらせられる。神は必ず、我々を守って下さる」
「なるほど……」
そもそもアンタレス国とレグルス国は国教が違うのだが、そのへんはもう、議論の余地もないのだろう。
神の末裔、カルディアーナ。彼女を信仰と結びつけることで、王族は民衆を味方につけている。だからこそ広大なこの土地は、分裂したりすることなく一つの国として成り立っているのだ。
「ところで君の家族って、あのウィリアム殿下の婚約者だよね。ハデス伯爵の娘の、リリー・ウィレットだろう?」
「よくご存知ですね」
「じゃあ君はやっぱり、ウィレット家のジェイミーなのか。確か長男だったと思うんだけど、最近結婚したの?」
「結婚?」
ジェイミーはとっさに足を止めた。ヌブは立ち止まることなく話を続ける。
「だって、アンタレス国軍の名簿に君の名前が無いだろう。結婚したから名前が変わったんじゃないの?」
「ああ、それは――」
言いかけて、ジェイミーはふと違和感を覚えた。ヌブがやたらと先を急ごうとしているように見えたからだ。
今ジェイミーは訓練場を囲む柵に沿って、もと来た道を引き返している。訓練場の向こうには何もないから引き返しているのだろうが、しかし、気になるものがジェイミーの視界に入っていた。
進路と逆方向に、大きな幕のようなもので覆われた、塀らしきものがあった。塀の向こうには背の高いヤシの木がずらりと並んでいる。その景色は、さらにその向こうにあるものを隠そうとしているかのように見えた。
「向こうには何があるんですか?」
塀に囲まれたヤシの林を指して尋ねる。ヌブはあからさまに嫌そうな顔をして、ようやく足を止めた。
「気付かれる前に引き返そうと思ってたのにな」
「向こうにも軍の施設があるんでしょう。どうして隠すんです?」
「軍には関係あるんだけどね、あれは独立した機関だよ。簡単に言うと、人体実験場かな」
予想だにしなかった回答に、ジェイミーは言葉を失った。