58.心臓
元々力の差は歴然としていた。奴隷たちの最後の抵抗を、レグルス国軍はあっさりと鎮火させた。そして予定通り、アンタレス国軍がレグルス国を去る前日に、二カ国対抗競技大会が開かれた。
ジェイミーは準備運動をしながら、大会の会場である訓練場を見回した。内戦が終わったこともあって、レグルス国軍の兵士たちは盛り上がっている。ことあるごとに勝利を強調していて、明るい声援を送り合っている。観客席に招待された国民も、みな晴れやかな表情だ。
アンタレス国軍は反乱軍の解体に心を痛めているのかというとそういうわけでもない。ジェイミーも含め、彼らの心にあるのは「ようやくこの国の騒動から解放される」という安堵だった。今日を乗り越えれば、祖国に帰ることができる。もう大会の勝ち負けなどどうだっていい。適当に楽しんで利益ある人間関係でも築いて安心安全な祖国に帰るだけだ。
「だからさぁ、俺が代わりに出るって言ってるじゃん」
ジェイミーのすぐそばで、ニックが疲れたような声を出した。実際に彼は疲れている。ついさっき競馬に出場し入賞したばかりだ。おまけにスティーブが怪我をしたので、彼が出場予定だった競技も肩代わりしていて、これに加えて長距離走に出たらさすがに怪我をするだろう。
「これしか出ないんだから、平気だって」
全く強がりではなかったのだが、ニックの隣に立っているウィルもジェイミーに疑わしげな顔を向けてくる。
確かに、ここ何日かはちょっとおかしかったかもしれない。ジェイミーにも一応自覚はあった。しかしシェリルが一命をとりとめたことを知ってからは全てが通常通りに機能していると思う。
それに、シェリルのことに関して負担を抱えているのもやはり、自分よりもニックの方なのではないかとジェイミーは思っていた。
あの日ジェイミーは、一縷の望みをかけて、シェリルを王立病院に連れて行こうとした。それが最善で、それで無理なら何をしても無理だったと思える選択肢だった。
そんなジェイミーをニックは引き止め、シェリルを実験場に連れて行こうと言ったのだ。最初、何を言われているのか分からなかった。せめて彼女の死体を社会の役に立てようと言われているような気がした。しかしニックがそんなことを言うはずがないことも分かっていた。万が一があれば一生恨んでもいい、と、短く簡潔な説得をされてようやく、ジェイミーの体は動いた。
シェリルの命が繋がったという報告を受けるまでの彼の心中を思うとぞっとする。どこにそんな勇気を置いておく場所があるのか、ただ言われるがままに行動しただけのジェイミーには一生分からないだろう。
「棄権すればいいよ。誰もレグルス国軍に勝とうなんて思ってないんだから。他にも出場するやつはいるんだし」
ウィルの言うことが全てだった。ジェイミーが棄権したところで何の影響もない。しかし今棄権したらちょっと自分を許せない。ただでさえ無力感で参っているのだ。それに一応ジェイミーは、アンタレス国軍の出場選手の中では一番、上位を狙えると見込まれていた。
「ジェイミー君! 調子はどうだ?」
押し問答を続けるジェイミーたちのもとに、なぜかカルロがやってきた。カルロはずかずかとジェイミーのそばまで歩いてきて、それからジェイミーの足元を見て、嘆息した。
「俺があげた靴をどうしたんだ。あれを履けばすごくいい感じに走れるのに」
「あー……靴ひもの結び方が分からなくて」
「どうしてもっと早く言わないんだ!」
カルロはすぐに靴を持ってくるように言った。一応宿舎から持ち出しておいた靴を渡すと、カルロは勝手にジェイミーに靴を履かせて靴ひもをするすると結んだ。
「これでいい。いいか、スポーツは結局、メンタルで決まる。イメージトレーニングしよう。目を閉じて、想像するんだ。目の前に、細長い廊下がある。そこを歩いていくと、小さな扉が見えるだろう。その扉の先には小さな子供が」
「あ、それもうやってきたんで大丈夫です……」
「優等生だなぁ!」
カラカラ笑いながら送り出されて、ジェイミーはスタート地点に向かった。
結果は、なんと、入賞した。カルロの言ったとおり、すごくいい感じに走れた。ここ最近ろくにものを食べていなかったのに最後まで足が持った。しかも最後の最後、ジェイミーの前を走っていた選手が急に足をつって失速したのである。それでジェイミーはギリギリ入賞したわけだが、まさか自分を勝たせるためにカルロは彼に何か細工をしていたのではないかと嫌な予感が頭をかすめた。スプリング家に協力する代わりに大会で入賞できるようにする、という約束はまだ有効だっただろうか?
とにもかくにも、全てが終わった。例年通り、アンタレス国軍はレグルス国軍に負け、入賞した両国の選手は慰労会に参加することとなった。
その慰労会には、レグルス国の特産品や名物をアンタレス国軍の人間に売り込もうと意気込む、商人たちが多く参加していた。どうやら今は、大会による疲労で判断力の鈍った金持ちに割高の商品を売りつける商戦期らしい。女王の許可がなければ慰労会には参加できない。つまりこれは彼女の意志である。アンタレス国軍は最後の最後まで女王に利用され倒す運命らしい。
慰労会には、寄付を募る活動家も多く参加していた。ジェイミーの意識を強く引いたのは、人体実験場を営む実業家の募る寄付だった。もしかしたら彼はひと月前に催された交流会にも参加していたのかもしれないが、ジェイミーはあまり意識していなかったので覚えていない。
その人は慰労会に美術品を出品していた。全て実験場に寄付された奴隷たちが作ったものである。実験場の中で活躍している役者たちによる芝居や、音楽家たちによる演奏も披露されていた。研究者たちによる著書も並べられている。彼らも全員、実験場で被験者として扱われる奴隷たちだ。
実業家の求める寄付とはもちろん、奴隷だ。実験場に奴隷を寄付することは国の発展に貢献すること。あなたも医療の発展の一翼を担ってみませんか。慰労会に参加する商人やレグルス国軍の兵士たちに向けられたそれらの言葉は、どことなく無骨で、明確な意思を感じさせた。
実験場の奴隷たちの活躍は、ジェイミーの心を押しつぶした。彼らは確かにこの世に生きていて、自分と何も変わらないのに、この世では決して繋がれないのだということをまざまざと突きつけられた。シェリルも結局同じだった。ジェイミーにとって心臓のようなものだ。触れられないのに、失うこともできない。そういう仕組みなのだと割り切るしかない。
スプリング家の面々は実験場からシェリルを連れ出すつもりは無いという。帰ってくるつもりがあるのなら自分の足で。それがスプリング家のルールだった。ジェイミーは、シェリルは戻ってこないのではないかと考えていた。戻りたいと思える要因が、こちらの世にあると思えない。万が一戻ってくる意思があるとしても、あの怪我ではジェイミーがこの国を出るまでには間に合わない。一度は実験場に忍び込もうかとまで思い詰めたが、何となく、シェリルはそれを望んでいないのではないかと感じた。
それでも、どうしても会いたくてたまらなかった。会ってどうしたいのかも分からない。ただ、離れているのが耐えられない。今は特にそうだ。苦痛を感じてそれが和らぐ気配がない。
もう宿舎に戻って、怪我のせいで大会に参加できず苛立っているスティーブにでも殴られて、気絶しようか。ジェイミーがそう思い立ち会場の出口に足を向けたとき、名前を呼ばれた。振り向くと、そこにはレグルス国軍の兵士であるヌブが立っていた。




