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57.夢の中

 刺されたと認識してからようやく、痛みを感じた。痛みのせいというよりも、驚きで、体の力が抜けていった。


 突然目の前からジェトが姿を消した。一秒遅れで彼の姿を目で追えば、そこには彼の腕をひねり上げ体を地面に押し倒している、ニックの姿があった。

 声を出そうとしたら、それと引き替えに立っているための力を失った。前に倒れるのはまずいという意識が一応働いて後ろに重心を預けたら、地面に体を打ち付ける前に、背中に腕が回った。


「どうしよう」


 言葉とは裏腹にやけに冷静ではっきりとした声が口からこぼれた。地面に仰向けに倒れたシェリルの背中を支えているジェイミーは、これまたやけにあっけらかんとした、明るい声を返した。


「大丈夫だよ、こんなのすぐに治る、どうってことない」


 シェリルは、ジェイミーがそう言うのならそうなのだろうとすぐに納得して、それからジェトの方に視線を向けた。拘束されなくても、どこにも逃げる場所などないジェトを。


「お願い、離してあげて、軍に引き渡さないで」


 さっきまで普通に声を出せていたのに、急に話すことが辛くなった。痛みを感じているからなのか、体勢のせいなのか、罪悪感のせいなのか分からない。


「ニック」


 ジェイミーに促され、ニックは難色を示す。


「でも……」

「いいから!」


 ジェイミーが叫ぶのを聞いて、ニックはしぶしぶジェトを解放した。よろよろと立ち上がるジェトにジェイミーが声をかける。


「ウシル教の神殿に行け。すぐに奴隷で溢れかえる。全員保護されるわけじゃない。走れ、今すぐ」


 ジェトは何も答えず、駆け出した。


「衛生隊の誰か捕まえてくる」


 そばまで来て状況を認識したアンタレス国軍の兵士が、そう言ってどこかへ走り去っていった。


「王立病院に連れて行こう。この国の技術の方が進んでる」


 ジェイミーの言葉に、ニックはすぐには返事をしなかった。しばらく沈黙を続けたあと、彼はまるで子どもに語りかけるような、気遣わしげな声を出した。


「ジェイミー、王立病院には暴動で怪我した人間が大勢担ぎ込まれてる」

「だから?」

「だから……患者は選別される。分かるだろ」


 ニックの考えは正しかった。この状況をひっくり返す技術がこの国にあったとして、その力の全てをシェリルに注いでもらえるのかというと、ちょっと疑わしい。


 しかしジェイミーとニックのかもし出す空気からして、多分アンタレス国の常識では、ここから逆転を狙うのは不可能なのだろう。


 シェリルは焦った。これはまずいことになった。カルロたちは大丈夫だ。いつものように乗り越える。しかしジェイミーはどうだ。乗り越えられるだろうか。


 もうほとんど体に力が入らない。眠くなってきた。それでもシェリルはまさに最後の力を振り絞るように、ジェイミーの名を呼んだ。ちょっと笑えてしまうくらいに間抜けな声が出たが、ジェイミーの体は強ばったようだった。


「私が、母に貰ったもの、覚えてる? 二年前、話したでしょ、覚えてる?」


 そう言った瞬間、ジェイミーは表情をくしゃりと歪ませた。


「言っただろ、本当に、こんなのすぐに治るんだって」

「全部あげる、ジェイミーに全部あげる。分かる? 私の分を全部あげる」


 まるで寝言を言っているみたいだと言いながら思った。もう半分眠っているようだった。何もかも夢だったのではないかと、自分は今から、夢から覚めるのではないかと、そう思いながらシェリルは目を閉じた。






 その日、シェリルはとても不機嫌だった。カルロに買われてから半年が経ち(双子が“はんとし”と言っていた)、シェリルはなかなかいい気分で毎日を過ごせていた。というのに、カルロがシェリル以外の子どもを家に連れて帰ってきてから、何もかも嫌になってしまった。


 大体、カルロがいけないのだ。双子だってカルロが勝手に子どもを連れて帰ってきて怒っている。何しろその子はシェリルがするように自分で服を着替えることはできないし、シェリルのするように言葉を話すこともできないし、シェリルのするようにカルロの手伝いをすることだってできないのだ。


 何もできない子がカルロの関心を奪うのは不公平だと思う。シェリルもその子のようにまた何もできなくなったフリをしてみたけど、カルロは騙されてくれないし、双子には怒られるし、全く散々な毎日だ。カルロはシェリルにわざと意地悪していると思う。忙しいからと言って遊んでくれないのもシェリルよりも他の子の世話を優先するのも全部、シェリルに意地悪したいからだ。


「ディアナ、ほら、口を開けなさい」


 カルロは今、シェリルに意地悪するために拾ってきた子供に、水を飲ませようと奮闘している。リビングの椅子に座らせ水の入ったコップを持って、一生懸命飲み込ませようとしているが、口の端から全てこぼれている。その子は四六時中どこを見ているのか分からなくて、いつもぼんやりしていて、遊び相手としての資質に欠けている。


 良くない薬の実験台にされていたから、いろいろな感覚が上手く働かなくなっているのだと、カルロは言っていた。双子はこの子はもう手遅れだと言ったのに、カルロは聞く耳を持たない。シェリルに意地悪したいからだ。


「自分で水も飲めないなんて、赤ちゃんみたい。変なの」


 女の子の隣に座って、わざとひどいことを言って怒られようとしても、カルロは視線をよこそうともしない。


「ほら、こうするんだ。やってみなさい」


 カルロは自分で水を飲んで見せて、再び女の子に水を飲ませようとする。その子は口からだけでなく、目からも水をぽたぽたこぼした。シェリルはそれを見てちょっと罪悪感にかられた。赤ちゃんみたいとシェリルが言ったせいで、この子は泣くのだろうか。


 カルロは水を飲ませようとすることを一旦やめて、女の子の涙を拭いた。それ、机を拭いた布巾だけど顔も拭いていいんだろうか。


「ディアナ、よく聞きなさい」


 そう語りかけられたのは隣に座っている女の子の方なのに、シェリルは自分が話しかけられているような気がして、知らず背筋をのばした。


「お前がこの先、どんな幸福もつかめなくても、一つの夢も叶えられなくても、誰にも愛されなくても、全部俺が許してやる」


 焦点の合わない目を見つめて、カルロは語りかける。


「だからもういいんだ。もう何の心配もいらない」


 シェリルはそれを聞きながら、ふと、お母さんに会いたいなぁと思った。泣きそうになったけれど、今泣いたら関心を集めるために泣いたと思われるだろうから、ぐっとこらえる。


 突然、カルロがシェリルの方を見た。


「シェリル、お前はもう帰りなさい」


 シェリルはその言葉に驚いて、涙が引っ込んだ。


「帰る?」

「そうだ」

「どこに?」


 そこでシェリルは気づいた。ここは夢の中だ。


 ひどい気分で目が覚めた。頭痛がする。起き上がれない。身動きがとれないのに、見知らぬ顔に上から覗き込まれている。


「ひどい顔」


 天使にしては口が悪い。シェリルが無言で天井を見つめ続けていると、彼女はつまらなそうな顔をして、ベッドの柵に顎を乗せた。よく見ると彼女も、隣に並べられたベッドの上にいる。シェリルは鉛のように重い腕を持ち上げた。紐がひっついている。それはガラス瓶のようなものに繋がっている。


「私たち、血を分けた姉妹になったのよ」


 隣のベッドからシェリルを見下ろしている女は、楽しそうな口調でそう言った。


「姉妹……?」

「そうよ。あなたには私の血が流れてるんだから」


 何を言われているのか分からない。詳しく尋ねるのも面倒くさい。もう一度眠ろうかと考えていたら、今度は反対側から、男が顔を覗かせた。


「お、起きてる。調子は?」


 良いように見えるか、と悪態をつきたかったが、シェリルはそれよりも、状況を把握することにエネルギーを割くことにした。


「ここは?」

「実験場だ。心配しないで。良いところだよ」


 男はベッドの柵に両腕を乗せて言った。彼はシェリルのことを姉妹だと言った彼女とは違い、立っている。そして彼女と同様、左腕に烙印がある。


「実験場? 奴隷の人体実験場?」

「そう。安心して、切り刻まれたりしないわ」


 クスクス笑いながら女が言うと、男もつられるように笑った。


「俺は君の担当医。ほんとのこと言うと、ちょっと切り刻んだ。ちゃんと縫い合わせたけどね」

「起きたばっかりなんだから怖がらせないで。そうそう、これ、ポケットに入ってた」


 そう言って目の前にぶら下げられたのは、ダイヤモンドの首飾りだった。


「見て、この綺麗な石! 芝居や小説ではこういうのが命を守ってくれるのよね。銃弾を防いだりとかして」

「ダイヤは意外と脆いんだよ」


 自分を挟んで会話をする二人の間にぶら下がったダイヤモンドの首飾りを見て、シェリルはこみ上げるものを抑えることができなくなった。女のほうがぎょっと目を見開く。


「やだ、盗んだりしないわ。ほら、返すから。泣かないで」


 手に首飾りを握らされても泣き止まないシェリルを、二人は困った顔で見下ろす。


「ねぇ、今夜この子と一緒に芝居を観に行ってもいい? ベッドのままなら行ってもいいでしょ?」

「うーん、まぁ、いいよ」

「彼ら二カ国対抗競技大会の慰労会で公演するんですって。すごいよね」

「競技大会は開催されるの? こんな状況なのに」

「反乱軍に勝利したお祝いも兼ねるって。私は慰労会に絵画を出品する」


 二人の会話を聞きながら、シェリルは両手で首飾りの感触を確かめた。今度目が覚めたときはもっと気分が良くなっているだろう。そう思いながら、再び目を閉じた。

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