45.善と悪
過去に傷ついた経験がある人ほど強い、という話をたまに聞く。ジェイミーはこの考えに共感できたことが一度もない。
人は傷つけられれば必ず傷つく。鍛えている軍人だろうが産まれたばかりの赤子だろうが鉄の棒で殴られれば絶対に怪我をする。その怪我が当人を弱らせることはあれど、強くすることなどあるはずがない。
レグルス国軍の軍人たちは、シェリルを傷つければジェイミーが激昂すると踏んでいたようだった。彼らが気絶したシェリルを肩に担いで宿舎の談話室に現れたとき、おそらくアンタレス国軍の仲間たちも、ジェイミーがキレて彼らに掴みかかると思っただろう。だから、激昂することも掴みかかることもしなかったジェイミーに対して、仲間たちは驚いていたし、レグルス国軍の軍人たちはあてが外れたという態度を隠さなかった。
自分でも不思議に思っていることだが、ジェイミーは暴力というものに対してそれほど怒りを感じない。あるのはいつも苦痛だけで、そこに怒りが入り込む余地がない。子供の頃、殴られているときに感じたのは、恐怖と屈辱、そして誰も助けてくれないことに対する失望だった。成長し、一方的な暴力と無縁になった今、かつての自分と同じ目に遭っている者たちを見て、昔と同じような苦痛を感じることがある。そんなとき、暴力を振るっている側の人間に対して、自分でも呆れるくらいに、興味が持てない。だからだろうか。本来、怒るべきだと頭では分かっていた場面で、何も言うことができなかったのは。
何を言ってもジェイミーが反応しないので、レグルス国軍の軍人たちは一旦退散した。数時間後、レグルス国軍の小間使いがアンタレス国軍の宿舎に現れた。そして、ヌブがジェイミーと二人で話したがっている、と告げた。仲間たちには止められたが、ジェイミーは迷わず小間使いが告げた場所に足を向けた。
そこは演習の初日に案内された、今はもう使われていない、監視塔の頂上だった。すでに日が落ち、日常生活がある場所にぽつぽつと明かりが点っている。そんな景色を一望することができる監視塔の頂上で、ジェイミーとヌブは一対一で対峙した。
ヌブは石造りの塀にもたれかかり、パイプをくわえていた。ジェイミーの姿を認めてすぐ、彼は塔の四隅に固定されている松明の一つに、木の枝のような着火具を近づけた。それからパイプの先に火を移したあと、くわえていたパイプをジェイミーの方に差し出した。ジェイミーがそれを受け取らずにいると、ヌブは口の端を片方だけ持ち上げてほほ笑み、再びパイプを口にくわえた。
「酒もタバコも無しか。一体何を楽しみに生きてるんだ?」
「突き落とされたいのか?」
無表情で問いかける。ヌブは笑みを深めたあと、ジェイミーに背を向け、塔の縁に両腕を乗せて王都を見下ろす格好になった。
「君を怒らせるつもりはなかったんだけどね」
ストーカーを退治してやったとゲラゲラ笑いながら宿舎に押しかけて来たときと違って、現在のヌブはやけに殊勝な態度だった。それが本気で後悔しているからなのか、何かの作戦なのか、ジェイミーには判別がつかなかったし、はっきり言ってどうでもよかった。
「どうして俺が怒ってやらなくちゃならないんだ」
ジェイミーがそう言ったとたん、ヌブは呆れたような笑い声をこぼした。振り返り、塔の縁に両ひじを乗せ、ジェイミーの顔を正面から見据えた。
「ジェイミー、いい加減、しらを切り通すのは難しいんじゃないかな。ただの奴隷が反乱軍ともウシル神官団ともスプリング家とも関わりがあって、おまけにアンタレス国軍の人間とも親密だなんて、そんな偶然あるはずないだろう」
ジェイミーはヌブの言葉を冷静に意識に落とし込むことができなかった。先ほどから体中の血管が音がするほどに強く脈打っている。何か、胸の奥に押し込んだ感情が爆発しそうになっていた。
「今のはシェリルに対して言ったんじゃない。お前に対して言ったんだ」
「僕に?」
「無抵抗な人間をたった数人で殴りつけるのは、さぞかし恐ろしくて大変だっただろう。権力の誇示も、楽じゃない」
ヌブは興味深げに、片眉を上げた。それから、どことなく苛立っていると思える口調で、言葉を返した。
「僕らが、暴力を楽しんでいると、そう言いたいのか」
「もしも奴隷制が屈辱を生まない制度なら、こんな制度とっくに滅んでる。今回のことも同じだろう。もしシェリルが殴っても傷つかないとしたら、殴ろうとも思わなかったはずだ。本当は彼女の正体も戦争も、関係ない。これはお前らの問題だ。それなのに、どうして俺が怒ってやらなくちゃならないんだ」
「やっぱり、僕は君のことを見くびってたな。従順に振る舞って見せながら、そんな本音を隠していたとはね」
「俺もあんたがここまで臆病な奴だとは思ってなかったよ」
ヌブは不快感が最高潮に達しているような、うんざりした空気を全身から醸し出している。ジェイミーはジェイミーで、こいつを塔の上から突き落とすべきだろうかと本気で検討しはじめていた。逆に突き落とされるかもしれないが、知ったことか。
しばしの沈黙のあと、ヌブは煙を吐き出し、やけに真剣な顔で語り始めた。
「善人でいるのも、タダじゃない。人を殴らないでいられることと、人として崇高であることとは違う。君たちの国が危機に陥ったとき、命をかけて戦ったのはレグルス国軍だったことを、忘れたとは言わせない。君たちの手が誰も傷つけないのは、代わりに手を汚す人間がいるからだ。今ここで僕を侮辱することの意味を、よく考えてみろよ」
「アンタレス国に不満があるなら、今精算すればいい。まだ殴り足りないだろ。ほら、今がチャンスだ」
ジェイミーは言いながら、ヌブに詰め寄り、彼がくわえているパイプをひっつかみ塔の上から投げ捨てた。ヌブはジェイミーを睨みつけてきたが、手を出してくる気配はない。数秒間二人でにらみ合う。
「やっぱり、臆病者だな」
ジェイミーは吐き捨て、ヌブに背を向けた。螺旋階段を降りようと足を踏み出したとき、ヌブが声を上げた。
「あの女、スプリング家の一味だろう」
ジェイミーは思わず動きを止めた。その反応が答えになってしまうことに数秒後に気づく。動揺しているジェイミーに構わず、ヌブは言葉を続けた。
「奴らがソティスの何を探ってるか、教えてやろうか?」
ゆっくりと振り返ったジェイミーの顔を見て、ヌブは勝ち誇ったかのような表情を浮かべた。
監視塔を後にして、ジェイミーは宿舎へと向かう。ランプの明かりを頼りに道を進んでいたジェイミーは、突如目の前に飛び出してきた影に思わず声を上げた。
「わぁーーー!」
「きゃーーー!」
相手も驚き、どさっとその場に倒れた。すかさずランプの明かりを向けてみれば、地面に座り込んでいるシェリルの姿があった。
慌てて助け起こすと、シェリルはジェイミーが持っているランプを奪い取りジェイミーの顔を間近で照らしてきた。
「ジェイミー、大丈夫? あいつにこてんぱんにぶちのめされなかった?」
「言い方……」
シェリルはジェイミーの顔やら腕やらを触って怪我の有無を確認している。ジェイミーは彼女の手を掴みそれをやめさせ、ランプも奪い返した。
なぜここにいるのかと尋ねれば、あと数分戻ってくるのが遅ければ監視塔に乗り込むつもりだったと返ってきた。ジェイミーは疲労感や徒労感に襲われて、ずるずるとその場に崩れ落ちた。
「大丈夫?」
身をかがめ泣きそうな声で尋ねてくるシェリルを、ジェイミーはどうにかこうにか抱きしめた。
「もう二人で逃亡したい」
ジェイミーの言葉に、シェリルはわかりやすく体を強ばらせる。
「今すぐ? どこに行きたい?」
「冗談だよ」
笑いながら言うと、シェリルは安心したように肩の力を抜いた。




