43.低温やけど
宿舎の談話室にて。侍女がかかげている二着のドレスを交互に眺めて、リリーは難しい顔で唸っていた。
「どうしよう。どっちを着ていけばいいと思う?」
ソファーに腰掛けレオをあやしていたレイチェルは、すぐ隣に立っているリリーを見上げた。そしてすぐさま、関心があるように見える笑顔を頬に浮かべた。
「どっちも似合うわよ」
「だから困ってるの」
「ええ、そうよね……」
あんな風にドレス選びにうつつを抜かしていた頃に戻りたい、とレイチェルは思った。レイチェルだってお嬢様である。将来の役に立つわけでもない子守りスキルを磨く毎日には、もうずいぶんとうんざりしていた。
それもこれも全て、この人が原因なのだと、レイチェルは自分の隣に座っている人物をうらめしく見やる。
「ジェイミー様、あの、さっきから何をなさってるんですか?」
「この靴ひもの結び方が分からなくて」
ジェイミーは左足を机のふちに乗せて、靴ひもと格闘していた。
何のためらいもなく机に足を乗せたり、脱いだ服をそこらへんにほったらかしにしたり、ときには下世話な冗談を言い合ったりするといった軍人たちの行動には、もう慣れた。社交の場では皆、紳士的な人たちなのだ。ここは軍の宿舎。部外者はレイチェルの方なのだから、順応するのはレイチェルの役目だろう。どんな驚きも黙って受け入れるのみである。
しかしジェイミーが格闘している靴ひもが三本あることについては、さすがに口を出さずにはいられなかった。
「靴ひもというのは確か、一足につき一本だったような気がするのですけど」
ジェイミーは三本のひもを編み物みたいに複雑に絡ませながら、苦笑している。
「これ、履くだけで速く走れるからって、昨日カルロにもらったんだ」
レイチェルはカルロという男に会ったことはないが、彼が誰なのかは知っている。軍人たちの日常会話に耳をすませて収集した情報によると、あの人の、育ての親のような人物らしい。人づてに聞いただけでも、うさん臭い人物であることは十分に察せられた。そしてどうやらそのカルロという男に、ジェイミーは遊ばれているようだった。
「どうして左足だけ靴ひもが多いんですか」
「利き足だからって聞いたけど」
「それ、本当だと思います?」
「さぁ。でも、シェリルも履いたほうがいいって言ってから」
天下のシェリル様のお言葉とあらば、従わないわけにはいかないでしょうね。
レイチェルは心の中で嫌味を吐いた。恋に溺れている間は周囲が何を言っても無駄だと分かってはいる。しかし自分の将来をぶち壊した相手に夢中になるなんて、レイチェルには到底理解できない行動だった。
「昨日の夜は楽しかったですか?」
近くのソファーに寝そべっているニックが、そんなこと聞いてどうすんの、と言いたげな顔を向けてくる。レイチェルもそう思うが、気になるものは気になる。最悪だった、と言ってくれないものかと期待して、レオを抱く手に力がこもる。
「楽しかったよ」
ああそうですか、とレイチェルは再び心の中でけっと悪態をついた。レイチェルの心情が伝わったのか、大人しく眠っていたレオがくずりだす。慌ててあやしていると、ジェイミーが「でも」と独り言のように呟いた。
「何か、惜しいことをしてしまったような」
「え?」
「何ていうか、絶好のチャンスを逃してしまったような……」
ジェイミーは昨夜のことを思い出そうとしているのか、靴ひもを結んでいた手を止めて考え込んでいる。そのとき、彼の思考を遮るようにリリーが声を上げた。
「ちょっと兄さん、真剣に考えてよ。ウィルはどっちのドレスを気に入ると思う?」
「そんなの本人に聞けばいいだろ」
「ロマンのかけらもないのね兄さんは!」
リリーは現在、ウィルの婚約者として参加する夜会の、ドレス選びに精を出している。夜会当日、こっそり綺麗に着飾って、彼をあっと驚かせたいらしい。しかしいくら社交界で雪の妖精と讃えられるリリーでも、あのウィリアム王子を見惚れさせるのは至難の業ではないかとレイチェルは思った。生まれたときから彼の近くには、究極の美貌を誇る兄がいたのだ。それゆえに美しさに対する王子の感覚は麻痺しているのだと、レイチェルの父は言っていた。
「リリーちゃん、ウィルの審美眼はイカれてるから、何を着ようが変わらないって。学校通ってた頃なんかあいつ、深海魚の図鑑見てかわいいって」
「いやー! やめて! その話はやめて!」
ニックが最後まで言い終わる前に、リリーは両手で耳をふさいでしまった。妹の乱心に慣れているらしいジェイミーは、カルロにもらった靴を履くことを諦めて、履きなれていると思しき靴に履き替えていた。
「今日は訓練は休みじゃないんですか?」
「そうだよ。だから走りに行ってくる」
休みだから走るという発想がレイチェルには分からないのだが、彼は当たり前のように、自分の体にむち打つべく立ち上がった。他にも自主練のためと言って談話室を立ち去る軍人たちは大勢いたので、彼にだけ腹を立てるなんておかしいことはレイチェルにも分かっていた。でも今日はレオの子守を口実に一緒にいてもらえると思っていたので、がっかりする気持ちを止めることはできなかった。
「酷いやつだなお前は。毎日お前の弟を世話してくれてるレイチェルちゃんにも休みが必要だとは思わないのか?」
レイチェルの心情を機敏に察したらしいニックが、ソファーの背もたれ越しにジェイミーに苦言を呈した。部屋を出ようとしていたジェイミーは心底驚いた顔をして、レイチェルの方を振り返った。
「あ、ごめん。それじゃあ、今日は俺が」
「いえ、結構です」
「でも」
「結構です」
レイチェルの不機嫌な態度に、ジェイミーは困って立ち尽くしている。ニックが二人を交互に見て、再びジェイミーにヤジを飛ばした。
「結構だって言ってんだろ、しつこい奴だな。とっとと走ってこいよ」
「何なんだよさっきから」
ジェイミーはニックに文句を言ったあと、部屋を出ていった。
部屋にいる面々は遠巻きにレイチェルの様子を窺っている。ほとんど話したこともない者までレイチェルの気持ちを知っているというのに、なぜ本人にだけ伝わらないのか。レイチェルには一生分かりそうもない。
仏頂面で座っているレイチェルの隣に、ニックがいそいそと移動する。そしてなぜか両手を広げてきた。
「俺の胸は君の涙を受け止めるためにあるんだよ」
「結構です」
「まあそう言わず」
ニックはへらへら笑いながらレイチェルからレオを取り上げた。
レイチェルは、この演習の旅に参加するまでニックと話したことはほとんどなかった。彼はもともと社交界では異端者のような扱いを受けているので、機会がなければ会話をしようなどとは絶対に思わなかっただろう。おまけに最近彼は、良くない方の、噂の的になっていた。
リリーが言うには、騎士隊の次期副隊長の候補に、ニックの名前が上がったことが全ての発端だという。もし彼が副隊長に選ばれれば、爵位を持たない初めての、階級を上げた騎士となる。そしてそんな前例を作りたくない貴族は驚くほどに大勢いる。
度を越した貴族たちの妨害工作は、ニックの名誉を多分に傷つけた。もしレイチェルがリリーと友人ではなく、全てを外から見ているだけの第三者だったとしたら、なぜ国軍は今すぐ彼を除隊させないのかと本気で疑問に思っていただろう。演習の旅に参加する前には、階級の違いには寛容な両親でさえ、ニック・ボールズには気をつけるようにとレイチェルに忠告をしてきたくらいだ。
しかし予想に反して、彼はとても親切な人だった。散々な貴族社会からの扱いに腐っているわけでもなく、自分自身を上手くコントロールしているように見える。一番付き合いが短いのに、演習の旅に参加している人々の中で一緒にいて一番気が楽だと思える。それは本当に気が合うからではなく、彼が気を合わせたいと思っているからだろう。彼が軍に重宝されていることには、それ相応の理由があったのだ。
ニックがレオをあやしているのを横目に、レイチェルは一つため息をつく。どんな状況にあっても揺らがない、価値観や軸のようなものを持っている彼の隣にいると、自分の愚かさがより際立つような気がする。レイチェルは、自分でもよく分かっている。自分がジェイミーに気持ちを告げることは多分、この先一生ないだろうと。
なぜならレイチェルの恋は、全てを投げ捨ててとか命をかけてとか、それほどまでに情熱的なものではないからだ。みじめな思いをすることと引き換えにしてまで、彼の関心が欲しいと思えない。困難を乗り越えて一緒になろうとしているあの二人に、勝る気持ちがあるのかと問われれば、自信を持って無いと答えるだろう。でも密かにずっと憧れている人が、本来なら得られるはずの幸せを掴めないでいるのを見ていると、なんだかもったいないような気がして、もう少し頑張ってみようかという気になったりする。
将来の夫を煩わせないための知識。将来の夫を不快にさせないための無知。上流階級の一員として後ろ指をさされないための教養。成人したら当たり前に備えておくべき社会規範。報われなかった初恋に、いくつかの遊びのような恋愛。レイチェルにはそれだけのものがあるけれど、それだけのものしかない。特別に語るべきことや、面白味のある素養がない。
この虚しさを、きっとジェイミーなら理解してくれると勝手に思っていた。反発するほどのこだわりもないからと社会の枠にはまっているだけの自分と、彼を、こっそり重ねてみたりして。似ているから上手くいくに違いないという期待が、いつしか恋心に変化したのかもしれない。
でも彼は、彼自身とまるっきり違う人に惹かれている。そのことに対して感傷に浸ってみたいと思ったが、やはり、そこまでの思い入れもないのだ。そんな、気骨も信念もない自分自身に、レイチェルは一番腹が立っていた。




