42.一緒にいる意味
ようやく互いの顔を認識できるようになって、暗闇の中で微妙に重くなっていた空気が心なしか軽くなった。 二人はその場に並んで横たわり、川のように瞬き流れてゆく星空を眺めた。シェリルはこっそり、ジェイミーの横顔を窺う。
「なんか……疲れてる?」
ジェイミーはなんとなく、眠そうな顔をしていた。それほど夜遅いわけでもないのだが。
「今日の演習がきつかったから」
「じゃあ、早めに切り上げる?」
「いや、大丈夫。まだいける」
限界を極めようとするのは軍人としての性なのだろうか。ジェイミーもなかなかに複雑な人だなとシェリルは思った。
それから、演習の内容を教えてもらったり、最近またカルロが勝手に子供を連れ帰ってきてアメリアとダミアンに散々叱られたという話をしたり、星空の下で交わす会話としてはロマンチックさに欠ける話を続けること数十分。ジェイミーがふと呟いた。
「ごめん」
前触れない謝罪に、シェリルははてと首をかしげる。
「何が?」
「俺がもっと上手く立ち回ってれば、レグルス国軍に目をつけられることもなかったのに」
ジェイミーの言いたいことを理解したシェリルは、慌てて上半身を起こした。
「そんな、自分のせいだなんて思わないで。私たちがジェイミーを巻き込んだの。こうなったのは私たちの責任よ」
ジェイミーはしばらく黙り込んだあと、体を起こして、真顔でシェリルと向き合った。
「それはちょっと、都合がよすぎるだろ」
声が若干イラついている。再会して何度目になるのか、また機嫌を損ねてしまったらしい。
「どういう意味?」
「責任も取らせてくれないなんてさ。恨み言のひとつも言ってもらえないと、余計に不安になるんだけど」
「……不安なの?」
「不安だよ。こんな、うわべだけの関係は」
ジェイミーはもはや呆れているのか、笑い混じりにそう答えた。和やかだった空気が、たった数回のやりとりでがらりと変わったような気がした。
ジェイミーの不安の原因をあれこれ考えていたら、ひとりでに涙が滲んできた。結論が出たような気がしたからだ。本当は分かっていたのに見ないふりをしてきたことを、目の前に突きつけられたような気分だった。
ジェイミーを選ぶのか、スプリング家を選ぶのか。選択肢は一つしかないのであって、それがスプリング家を捨ててジェイミーを選ぶことではないというのは、もうはっきりしていた。
スプリング家の目的は子供たちを救うこと。その目的を果たすためにこの組織は様々なことに手を染めてきた。長年、危うい仕事を続けるうちに、手段がいつの間にか目的になってしまっていて、カルロはそのことに一番頭を悩ませていた。
組織を支える歯車の全てを、シェリルは完全には把握できていない。恐らくカルロや双子も把握できていないだろう。確かなことは、スプリング家という組織があるという噂だけが各国でひとり歩きしてしまっているということと、そのせいでシェリルたちは、面倒なことに巻き込まれやすいということ。
例えばシェリルがあらゆる手を尽くして組織を抜けて、ジェイミーと生きることを選んだとして、なぜかその情報はどこかから漏れてしまうのだ。そして組織の力を手に入れたい人間や、組織に恨みのある人間が接触をはかってくる。そのときスプリング家に属していなければ、各国に散らばる協力者を頼ることはできない。面倒をかわすことも、請け合うこともできなくなる。スプリング家が成し遂げてきた仕事というのは、どれだけ特異な才能を持っていたとしても、人一人で行えるものでは絶対にないからだ。
カルロもアメリアもダミアンも、組織を離れてしまえば長生きはできない。それはシェリルも例外ではない。けれど、自分はジェイミーに請われればそんなリスクさえ冒してしまうだろうと、シェリルには分かっていた。問題はそれが、ジェイミーのためになるのかどうか。そしてジェイミーは、そんなことを望むのかどうか。彼を不安にさせてしまうような関係を、続ける必要が、あるのかどうか。
「それじゃあ私たちって、一緒にいる意味、ないのかも」
「何でそうなるかなぁ」
「私と一緒にいたら、ジェイミーはどうやったって幸せになれない。それじゃあ、意味ないもの」
自分で言っておきながら、シェリルは自分の言葉にショックを受けた。ジェイミーが何も答えないので、本格的に涙があふれてきた。それでもなんとか唇を噛み締めて平静を装っていると、長い沈黙のあと、ジェイミーがぽつりと呟いた。
「人生が変わる瞬間ってあるだろう」
その言葉が別れ話をするための前置きなのか、そうでないのか、測りかねてシェリルは言葉を返せなかった。ジェイミーは反応を期待していなかったらしく、構わず話を続けた。
「俺はさ、自分の人生、もう手の施しようがないと思ってたんだ。血の繋がりをごまかすなんて、どうせ皆やってることだって思えるときもあったけど、取り返しのつかないことをしてるんじゃないかって怖くなるときもあって。どうでもいいことは誰にでも話せるのに、本当に悩んでることは、誰にも話せなくて。子供の頃からずっと、そんなことの繰り返しで」
ジェイミーの打ち明け話を聞いて、シェリルは自分のことでいっぱいいっぱいになっていた心にほんの少し、余裕ができた。噛み締めていた唇を、ゆっくりと開く。
「そうだったの」
「でも、シェリルと出会って変わったよ。シェリルと一緒にいると、肩が軽くなった」
「私? どうして?」
「だってシェリルなら、俺の抱えてる問題なんて、どうにでもできるって言うだろう」
苦笑混じりに告げられた言葉に、シェリルは拍子抜けした。
「言ってくれれば、どうにでもしたのに」
「違うんだ。そうじゃなくて」
ジェイミーはうつむいたまま、言葉を探しているようだった。やがて、彼はシェリルの頬に触れて、そこに流れていた涙を指先でぬぐった。
「ずっと、できるはずのことも、できないと思い込んでたんだ。でもシェリルと一緒にいると、できないはずのことも、できると思える」
ジェイミーが、懸命に言葉をつむいでいるのが分かった。シェリルが頷いて見せると、彼は安心したような顔をした。
「幸せになりたいから一緒にいたいんじゃなくて、幸せになりたいと思えるから、一緒にいたいんだ。シェリルにも同じように思って欲しい。泣くほど別れるのが嫌だと思うなら、諦めないで欲しい。俺はもう、自分の人生を諦めないから」
力強い言葉が、胸につかえていたもののひとつをどこかへ押しやってしまった。シェリルは自分の頬に添えられたジェイミーの手に、自分の手を重ねた。
「私、反乱軍が勝てばいいのにって思ってるの」
誰にも言えなかった本音を、無意識にこぼした。ジェイミーは驚くでもなく、頷いた。
「うん」
「でも、カルロさんの役にも立ちたい」
「うん」
「だけど、ジェイミーとも一緒にいたいの。こんなの、わがままでしょ」
「だったら何?」
一秒の間も置かずジェイミーは言った。シェリルは返答に困って、一旦口を閉じた。その一瞬の隙に、ジェイミーが唇を重ねてきた。
「もっとわがまま言ってもらえるように、頑張るよ」
鼻先が触れ合うほどの至近距離で、ジェイミーは囁いた。それ以上人のわがままを聞けるようになってどうするんだ、とシェリルは思った。なぜ思うだけにとどめたかというと、再び口を塞がれたからである。
わざわざ屋上に上がっておきながら、二人はお互いしか見ていなかった。カルロが育てた野菜に囲まれて、カルロの服を着たジェイミーとキスをするのはなかなかに複雑だったが、ここで我に返るのは果てしなく場違いなことだとは理解していたので、シェリルは頑張った。しかし散々口づけを交わしたあと、結局ジェイミーの方が先に、冷静になってしまった。ジェイミーはおもむろにシェリルと距離をとって、何やら複雑そうな表情で言った。
「カルロは案外、過保護なのかな」
「そんなことはないと思うけど……」
それはどうしても今しなければならない話なのか、とシェリルは思った。が、ジェイミーは真剣に悩んでいるらしかった。
「なんか、すごく、やりにくい」
何を、と聞くほどシェリルも初心ではないが、そのまま突っ走れるほどの手練れでもない。考えた末、助け船を出すつもりで、声をかけた。
「今日は訓練が大変だったのよね?」
尋ねると、ジェイミーは困ったような顔をした。しばらく無言で見つめ合ったあと、彼はひとつため息をついて、シェリルの額にキスを落とした。
「そうだった」
笑い混じりにそう言って、ジェイミーはその場に寝そべってしまった。シェリルは密かにほっと息をついた。それから、ジェイミーに顔を見られないように膝を抱え込んで、トマトの苗と向き合いながら、考えた。
つい先程まで何かに悩んでいたような気がするが、何に悩んでいたのかよく思い出せない。ここに来てから二人で、どんな話をしていたっけ、と懸命に記憶をたどる。
やがて、シェリルははっと口元を押さえた。まさかさっき、自分は遠回しに誘われていたのではないだろうか。いや、考えすぎか。いや、しかし。
どれくらいの時間ためらっていたのか、シェリルはどうにかこうにか覚悟を決めて、ジェイミーに再び声をかけた。
「ねぇ、もっと、別の場所に行きたい」
一度言葉にしたら、迷いが消えた。シェリルは今度は、はっきりとした口調で告げた。
「どこでもいいから。今から二人で……」
いいかけて口を閉じ、瞬きする。ジェイミーはすやすやと、静かに寝息をたてていた。




