41.星空デート
手さげランプを片手に、シェリルはのろのろと帰路につく。
今夜は新月だ。あたり一面を漆黒の闇が支配している。満月の日は昼間と見まがうほど明るいこの国は、その反動か、新月の夜は手元に明かりがなければ自分の手さえ認識することが難しい。唯一認識できるのは、空いっぱいに広がる星の海。それは何度見ても、何時間見ても飽きない光景で、シェリルは初めてその光景を目にしたとき、空の一部を切り取ってジェイミーの元に送れたらいいのにと思った。今、彼と一緒にこの空を見られるはずなのに、シェリルの心は釘を打ち込まれたみたいな痛みを感じていた。
家に帰ってすぐに、どういうわけか、ジェイミーと遭遇した。ジェイミーは浴室のある方向から現れた。そしてなぜか、カルロの服を着ていた。
シェリルはかなり驚いたが、ジェイミーもシェリルと遭遇したのが予想外だったようだ。鉢合わせた瞬間、わかりやすく固まっていた。
「ジェイミー君、サイズはどうだった? ズボンの裾が余っても気にする必要はないからね。俺は特別足が長いタイプ……おや、シェリル。おかえり」
見栄にまみれた言葉とともにカルロが別の部屋から現れた。カルロはあっけに取られているシェリルにかまうことなく、ジェイミーのそばまで歩み寄り、彼の姿をしげしげと眺めた。
「なんだろうな。安い生地のはずなのに、いい生地に見えるのはどうしてだろう」
シェリルは、仲良く服を共有しているジェイミーとカルロを交互に見て愕然とした。
「あなたたち、私に隠れて、一体何を……」
ジェイミーが事情を説明しようとするが、カルロの声がそれを遮る。
「そうだ、シェリル。ジェイミー君が四ヵ国語話せるって知ってたか」
「どうしてカルロさんが私よりジェイミーのことを知ってるんですか」
「大したもんだよなぁ。俺もアンタレス国に生まれてたら外国語もペラペラだったかなー」
カルロはシェリルの言葉を無視して、近くの椅子に腰掛けありもしない妄想に浸り始めた。
ジェイミーの生まれ育った国であるアンタレス国は、語学が堪能な国だ。理由はいくつかある。寒い地域にある国なので、各国の行商人が体制を整えるために滞在することが多いから、というのもあるし、交易路として国を発展させるため、関税を低くしているから様々な国の人間が集まりやすい、というのも理由の一つ。そして一番の理由は、人口が少ないために国内の市場規模が小さく、国の利益を外国の市場に頼っているため、外国語を習得するメリットが他の国に比べて多いからだと言われている。
とはいえシェリルは、ジェイミーがまさか四つの言語を操れるとは思っていなかった。ものすごく意外だとも思わないが。問題は、なぜそれをシェリルよりも先にカルロが知っているのかということだ。なぜシェリルがジェイミーとの関係やジェトやイブのことで悩んでいる隙に、二人の仲が急接近しているのだろう。
「私を差し置いて、ジェイミーと仲良くならないで下さい」
「安心しなさい。横取りなんてしません」
「じゃあ私のいない隙に二人でこそこそ何やってるんですか」
「それはジェイミー君に聞くといい」
カルロは悪びれる様子もなく立ち上がり、シェリルとジェイミーの背中を押して建物の出口まで押しやった。
「最近アメリアとダミアンがはしごを作ったんだよ。これがまた素晴らしい出来でね、あの子たちは何をやらせても上手くやるんだから。育て方が良かったのかな」
最後の一言以外は、シェリルはカルロの言葉に同意できた。二人が作ったはしごは職人技といって差し支えない出来だった。屋上で野菜を育てたいとカルロが言い出したため二人が作ったものだったのだが、その話を今カルロが持ち出したことで、シェリルは話の流れを察した。
「カルロさん。ジェイミーと話をするのにわざわざ屋上に上ったりしません。私の部屋で十分です」
「こんなに景色のいい夜に部屋にこもるのはおすすめしないなぁ。いい機会だから、思い出づくりでもしなさい」
問答無用で部屋から閉め出される。扉の前で、シェリルとジェイミーは並んで立ち尽くす。ジェイミーの顔を見上げると、なんとも言えない視線を返された。
結局、シェリルとジェイミーはスプリング家の建物の屋上で思い出作りに勤しむことになった。屋上にあがってすぐ、シェリルはジェイミーとカルロの間で何が起こっているのか詳しく問いただした。
ジェイミーがカルロの服を着ていることについては、スプリング家の子供たちが突然の訪問者にテンションが上がって、ジェイミーの周りにまとわりつき、一人が彼の服に飲みかけの牛乳をぶちまけてしまったからであるという。そしてスプリング家の基地を訪れた理由は、スプリング家に対して謝らなければならない問題が発生したからであるという。
シェリルはジェイミーの話を聞き終えたあと、信じられない思いで尋ねた。
「どうしてレグルス国軍を騙すようなことをしたの?」
レグルス国軍がジェイミーを利用しようとしたことは、腹立たしい限りだ。だが、それよりもなによりも、いくらスティーブの指示とはいえジェイミーがその策を逆手にとったことが、シェリルには信じられなかった。
アンタレス国軍には演習期間中に自分たちの身を守るだけの力はあるだろう。わざわざ自国の利益にもならない内乱に首を突っ込む必要はない。ジェイミーなら傍観するだろうと、シェリルは勝手に思い込んでいた。
ジェイミーはシェリルの質問には全て、正直に答えてくれた。
「スティーブはあんまり感情的にはならないように見えるけど、結構野心家なんだ。今の状況はあいつにとっては、陛下に自分の能力を売り込むチャンスなんだよ」
「レグルス国軍を操ってみせることが?」
「いや、スプリング家の妨害をすることが」
予想外の返答に、シェリルは面食らった。
「どういうこと?」
「陛下がスプリング家を欲しがってることは知ってるだろう。だからスティーブは陛下の望みを叶えようとしてる。スプリング家とレグルス国軍が手を組んだらもう手出しできない。だからレグルス国軍に、スプリング家の信用を落とすような情報を流そうとして……」
さすがにシェリルには話しづらいのか、声が徐々に小さくなっていく。しかしシェリルは特に腹を立ててはいなかった。ただただ、驚いていた。
「ジェイミーはスプリング家の妨害が目的だってことを知ってて、スティーブの指示に従ったの?」
数秒間、沈黙が流れた。しばらくしてジェイミーは、小さな声で呟いた。
「上手くいけばこの先もずっと、一緒にいられると思ったから」
今度はシェリルが黙り込む番だった。
シェリルはどうやら、ジェイミーのことを誤解していたようだ。彼が物事に流されやすいのは、こだわりや不満がないからではなくて、それらのことを表現するのが下手だからなのかもしれない。回りくどい策を練る前に、一緒にいたいとシェリルに直接訴えることが、彼にはできないのだ。
正面からそう言いさえすればいいだけなのに。そうしたら自分は頷いてしまうのに、とシェリルは思った。どうしてここまでジェイミーが特別なのか、シェリルは自分でもよく分からなかった。なぜだか、彼の望みはすべて叶えなければならない気がしている。もしそれができてジェイミーが笑ってくれたら、シェリルはジェイミーよりももっと幸せになる。
「ところでシェリル」
「なに?」
「俺は今どこに向かって話してるんだろう」
シェリルはジェイミーがいるとおぼしき方向に顔を向ける。そこには真っ暗闇があるのみである。
今夜は月明かりのない新月の夜。屋上に登って空を見上げたら、言葉にできないほどの絶景が広がっているはずだった。しかし、屋上に上がる前から星空は見えていた。確かに美しい光景だが、はっきり言って、ここにたどり着く前に目が慣れた。
せっかくの新月。せっかくの二人きり。感動を呼び起こすために手は尽くそうと、シェリルは試しにランプの火を消してみた。火を消した瞬間、互いの顔を確認できないほどの真っ暗闇が訪れた。そして満点の星空は、小さなランプの火をひとつ消したくらいでは、大して代わり映えしなかった。
冷静に考えればこうなることは予測できたはずだが、人間は時として正常な判断力を失ってしまうものである。そして自分がどこに向かって話をしているかも分からなくなってしまうのだろう。
再びランプに火をつけるには、お泊りセットが入っていると言ってカルロに押し付けられたカバンの中にあるはずのマッチを手探りで探すか、部屋に戻って火をもらうかしかない。部屋に戻ろうにも、はしごがどこにあるのかも、屋上の端がどこにあるのかも見えない。というわけでシェリルは、ジェイミーと会話をしつつカバンの中を必死で探っていたのだった。
ようやくランプに火を灯したとき、ジェイミーはシェリルのすぐ隣に置いてあるトマトの苗と真剣な顔で向き合っていた。




