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35.世界平和

 冷たい檻の中で、シェリルは膝を抱えて泣いていた。シェリルの母になってくれた人が、檻の中が明るくなるのと同時に動かなくなって、硬くなってしまったからだ。


 シェリルはその人が大好きだった。だからどこかに連れて行かれそうになっても、何度も何度も、死にものぐるいで檻の中に戻ってきた。


 巨大な生き物に縛り付けられたときはことさら怖かった。あんなに高いところは初めてだったし、あんなに揺れるのも初めてだった。シェリルを生き物の胴体に縛り付けた男が、しなる棒でシェリルの体のすぐそばを叩くのも怖かった。どうしてこんなことをされるのか、それが分からないのが一番怖い。

 ひもが体に食い込んで痛かった。それでも勇気をふり絞って長いこともがいていたらだんだん緩んできて、何とか自由になった。大きな硬いものがゴロゴロ散らばっている地面に叩きつけられた瞬間も、痛くて泣きたくなった。だけど早く起き上がって走り出さないと、またあの怖い生き物に、今度はうんときつく縛りつけられるに決まっていた。


 走って、走って、走って、足の裏が血だらけになるくらい走って、来た道を必死に思い出して、ようやく元いた場所に戻ることができた。いつもご飯をくれる人が、機嫌よくシェリルに鎖のついた首輪をはめて、檻の中に入れてくれた。


 母は泣いていた。こんなに怪我をして、可哀想に。そう言って痛いところを服の切れ端で包んでくれた。シェリルは幸せだった。こんなに優しいお母さんがいるから幸せ。他に何もいらない。


 だから彼女が動かなくなった日、シェリルの幸福は終わりを告げた。胸の中にぽっかり穴が空いてしまった。泣いても泣いても穴は埋まらない。そう気づいて、泣くのを止めて、檻の中でぼんやりしていたら、檻の向こうに真っ黒い服を着た男が現れた。服だけじゃない。髪も目も、真夜中のような黒。


 男はシェリルを見て、ものすごく怖い顔をしてこう言った。


「これは何かの冗談か?」


 いつもご飯をくれる人が、焦ったように何かを説明している。シェリルはその光景をぼんやり見ていた。


 やがて檻が開いた。ご飯をくれるのだろうか。でも今はすごく悲しくて、すごく疲れているから、何も飲み込めそうにない。

 膝をきつく抱えて小さくなっていたら、黒い服の男が身を屈めて檻の中に入ってきた。


「一緒に来るか?」


 その人の闇のような暗い瞳は、シェリルの胸の中に不思議な予感をもたらした。

 何かが変わる。今から何か。何かが。渇望していた何かがこの手の中に、落ちてくる――。




 シェリルはふと我に返った。香辛料の香りが漂う荘厳(そうごん)な空間に、この場にふさわしくない明けっ広げな笑い声が響いたからだ。


「とにかくそういうわけで、ジェイミーと私は十年以上の付き合いがあるんですよ。お互いに言葉を交わさずとも通じ合える仲で」


 大神官を相手に臆することなく世間話を繰り広げているのは、ニックだ。ニックの隣にはスティーブが座っており、その向かいにはウシル神官団の大神官と、彼の補佐役である神官たちが並んでいる。


 シェリルは今、カルロに命じられて、ウシル神を(まつ)る神殿に忍び込んでいる。大きな教団にはたいてい、雑用係が多く存在するので、一日や二日なら大した準備もなく(まぎ)れ込める。おまけに奴隷は売ったり買ったりする消耗品なので、顔を知られていなくても怪しまれることはなかった。


 シェリルはジェイミーの手助けをするためにここにいる。それなのに予定の時刻より前に神殿に現れたのは、ニック、スティーブ、ウィルの三人だった。

 ニックは大神官相手に、自分がいかにジェイミーと親交が深いかについて語って聞かせている。その隣でスティーブは、古い文献の言葉を引用し、時折ユーモアを織り交ぜながら、教区を拡大する有用性について語っている。ウィルはいつの間にか姿を消していた。


 一体何が起こっているのか。他の雑用係と共に壁ぎわで待機しながら、シェリルは顔をしかめた。顔をしかめているのはシェリルだけではない。


「ねぇ、これ、まずいんじゃない?」


 ここ数ヵ月間雑用係として神官団に潜入しているディアナが、ぼそっと懸念をこぼした。

 ニックはまるで高額商品を金持ちに売りつける商人のように、高らかに演説している。


「私が必ずや、ジェイミーを説得して見せましょう。この国の文化は実に素晴らしい。信仰も技術も、国の中だけで発展させていてはいつか丸ごと滅んでしまう。隠さず世界に広めるべきという考えには、あいつも同意するはずです」


 そこはかとないうさん臭さが漂うニックの振る舞いを、大神官が(いと)っている様子はない。この教団にとって最も重要なことは、今目の前にいる者たちが真っ当な人間かどうかではなく、教団の役に立つかどうかなのだ。


「あなた方には及ばないでしょうが、我々もそれなりに世間を知っています。ウシル教の宣教に手を貸す代わりに、それなりの見返りを期待していらっしゃるのではないですか?」


 大神官の直球な問いを受け、スティーブが口を開いた。


「とんでもない。しかし一方的な約束では不足だとおっしゃるなら、我々には教団の善意を受け取る準備があります」


 ニックたちの話を聞いている間一瞬たりとも姿勢を崩さなかった大神官は、天井から細い糸で吊り下げられているかのような美しい姿勢のまま、ゆっくりと頷いた。


「分かりました。どのような善意であれば、受け取って頂けるのでしょうか」

「我々アンタレス国軍は――」

「我々アンタレス国軍は世界平和を実現したいと考えています」


 スティーブの言葉に被せるように告げられたニックの言葉に、スティーブだけでなく、大神官も眉をひそめた。眉をひそめたといっても、彼は眉毛から頭髪からひげに至るまで、全て剃り落としているのだが。


「世界平和?」

「その通り。世界平和です」

「それはまた、謙虚な願いですね」

「聞くところによると、ウシル神官団は慈善活動に力を入れていらっしゃるようですね」

「ええ、脱税にはこれが一番ですからね」


 真顔で返された大神官の冗談に、さすがのニックも数秒間面食らう。


「あー……、それでその、怪我や病気で仕事を失った奴隷や、逃亡奴隷の保護にも一役買っていると(うかが)いました」

「資金は限られているので、可能な範囲でですが」

「たしか年間に、信者からの献金の、二パーセントも費やしているとか」

「よくご存知ですね」


 大神官とニックのやり取りを聞いている、スティーブの様子がおかしい。どうやらニックが事前に打ち合わせたことと違う方向に話を進めているようだ。


 大神官の前でおおっぴらにたしなめることができず、スティーブは困っている。視線で何かを強く訴えているが、ニックは気づいていないふりをしている。


「十パーセントでいかがですか」


 ニックがそう提案すると、大神官は優雅に首をかしげて見せた。


「いかが、というのは、どういう意味ですか」

「年間の献金の、十パーセントを奴隷の保護に充てて下さるなら、私はウシル教の宣教に手を貸すよう、ジェイミーを説得します」


 スティーブがあんぐりと口を開けている。大神官は動じることなく、淡々と言葉を返した。


「割に合いませんね。年間の献金の十パーセントというと、城を建てられるほどの額ですよ」

「年間で一万人近い奴隷たちを救うことができる額でもあります」

「理論上はね。実際はそんなにうまくはいきません」


 大神官の口調は心なしか、冷めている。それでもニックは空気を読まず話を続ける。


「少なくとも今よりは救えるようになるでしょう」

「奴隷を救うことが世界平和につながると? あなたの本当の目的は、反乱軍の勝利では?」

「いいえ、アンタレス国軍はレグルス国軍にも反乱軍にも、肩入れしません」

「軍の立場を守るための、世界平和ですか。あなたのおっしゃる平和というのは、ずいぶんと利己的なんですね」

「大神官ともあろうお方が、慈善と利己を切り離せるなどと、本気で思っているはずがない。人は(ほどこ)されるたびに傷つく。その事実に気づかないのは、施す自分に酔っている人間だけでしょう」


 大神官はなぜか、口元に笑みをたたえた。


「経験則ですか?」

「教区を拡大すれば献金額は跳ね上がります。十パーセントなんて、大した額ではないでしょう」


 大した額でないはずがないが、ニックは強引にそう言い切って、大神官の返答を待った。

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