25.奴隷の親子
シェリルを家まで送り、宿舎に戻ってきたジェイミーはもの思いにふけっていた。どんな体勢でも絶妙にフィットする高機能なソファーに深く腰かけ、ため息をつく。
別のソファーに寝そべっているニックが、乗馬靴の商品目録に目を通しながら口を開いた。
「陰気な空気を振りまいてくれてどうもありがとう」
ジェイミーはニックの方にゆっくりと視線を向ける。
「たったの一日でも嫌味を言わずにはいられないのか?」
「定期的に誰かを困らせないと体調を崩す体質なんだ」
「迷惑すぎる」
ニックは分厚い目録をパラパラとめくりながら、全く気持ちのこもっていない口調で問いかけた。
「で、何を聞いて欲しいわけ?」
ジェイミーは少し迷ったあと、シェリルを送った帰り道に考えていたことを、今一度思い返した。
独特の乾いた空気。砂ぼこり。熱風。ジェイミーの五感は、そんな環境にそろそろなじんできていた。だがときおり道端で見かける痩せ細った奴隷たちの姿は、未だに直視できないでいる。シェリルと一緒に歩いているとき、ぼろ切れをまとった奴隷がすぐ近くを通りかかって、ジェイミーはなんとも居たたまれない気持ちになった。
アンタレス国には奴隷がいない。だからジェイミーには奴隷の世界の、細かい機微が分からない。それは奴隷制が存在する国では非常に危険なことだった。奴隷制の是非を巡って、この国では戦争まで起こっている。もはや、やめる、やめないという単純な話では無くなってしまっている。
女王と反乱軍どちらに肩入れするのか、この国に留まっている間、アンタレス国軍が立場を表明することはないだろう。そのことに対してジェイミーは全く異論が無かった。軍人としても、個人的にも、昔からこの分野には深い思い入れがなかった。
しかしシェリルと関係を深めようと思ったら、ジェイミーは彼女が奴隷であることに対して、何かしらの意見を持たなくてはならない。もし面倒なことは抜きにして、これからの三週間ただ恋人ごっこをして過ごしたいと思えばできるだろうし、シェリルは文句を言わないだろう。だがジェイミーが求めているのは、そういう関係ではなかった。
三週間後、彼女をこの国に置いて帰らなければならない。奴隷を鞭打っても、辱めても、殺しても、罪に問われないこの国に。そして彼女は奴隷である。そのことをもう、他人事だとは思えなくなっていた。
「面倒くさいな、お前」
ジェイミーが話を終えて、即座に返ってきた言葉がこれである。ジェイミーは沈黙を貫くことによってニックに内省を促した。非難がましい空気を察してか、ニックはようやく目録から視線を外し上半身を起こした。
「そんな考えても仕方のないことに時間を費やして何になるんだよ。どうせあと三週間しか一緒にいられねぇんだから、適当に楽しめよ。悩んだところで、何を変えられるわけでもあるまいし」
腹立たしいことに、ニックは正しかった。しかしジェイミーが今聞きたいのは正論ではない。
「俺にだって、できることはあるはずだ」
「できることって?」
「シェリルのためになるような、何かだよ」
ジェイミーの主張を聞いたニックは、乾いた笑いをこぼした。
「だっせぇ」
茶褐色のレンガを積み上げた壁沿いを、ジェイミーは一人で黙々と進む。雲ひとつない空はむらのないオレンジ色に染まっている。別にニックの発言に腹が立って宿舎を飛び出してきたわけではない。あの男が失礼なのは今に始まったことではない。
ジェイミーは今、ラクダの世話をするべくレグルス国軍の基地へと向かっている最中である。レグルス国軍の軍人たちは、外国人であるジェイミーたちはさぞかしラクダに興味があるだろうと、どういうわけか考えているようだった。
ラクダに触ってみたいか、とレグルス国軍の人間に最初に尋ねられたのはスティーブだった。スティーブは相手の期待通りに興味があるという態度を見せ、自分は忙しいから無理だけどジェイミーはきっと喜ぶと思うよ、時間を作らせるからぜひ触らせてやって、という言葉をありがたくも吐いてくれたのである。
おかげでジェイミーは今からラクダと触れ合わなくてはならない。約束の時間には余裕で間に合いそうだが、わざと遅れていこうかな、とちらっと考えた。
どんな言い訳をしようか考えながら歩いていたら、とてとてと小さな子供が足もとに駆け寄ってきた。父親と間違えたのかと一瞬思ったが、間違えようがないだろうとすぐに考え直す。
しゃがみ込んで、顔を覗き込む。
「どうした?」
子供はもじもじと両手の指を結んだり離したりして、口を開こうとしない。身なりは綺麗だ。物乞いではない。あと十分で軍の基地に着く距離だ。連れていって事情を説明すれば、この国の法律に則って迷子の手続き的なことをしてくれるだろうか。
道行く人に誘拐と間違われたらどうしよう、と真剣に悩んでいたジェイミーは、子供の左腕を見て息を詰めた。見慣れない模様が、焼き付いている。奴隷だ。逃げてきたのか。とすれば、迷子の手続きなんて生易しい話ではすまない。逃亡奴隷が手ひどく罰せられることはジェイミーでも知っている。
硬直するジェイミーの服の袖を、子供が控えめに引っ張る。
「ママをたすけて」
「ママ?」
そのとき、甲高い叫び声が耳に飛び込んできた。
「やめて下さい!」
声のした方に顔を向ける。広い通りを渡った先に、路地を塞ぐように人だかりができている。子供は人だかりの方へまっしぐらに駆けていった。ジェイミーは慌てて子供のあとを追った。人だかりを縫って路地を覗くと、頭を抱えうずくまる奴隷の姿があった。
彼女を囲んでいる人々は太陽神がどうの、と口々に文句を言っている。ジェイミーは野次馬の一人に声をかけ、状況を大まかに説明してもらった。
この地区には、太陽神を祀る小さな神殿がある。そして今路地にうずくまっている奴隷はついさっき、神殿の塔門に黒いインクが入った瓶を投げつけたのだという。それをたまたま目撃した太陽神の信者たちが、この路地まで逃げ込んだ彼女を追いかけてきて、糾弾しているらしい。
「建物の周りをうろちょろして、怪しいと思ったんだよ」
「神の怒りを買ってしまった。あんなことをして、うちの子に災厄がふりかかったらどうしてくれるの」
「人違いです、あれは私のしたことではありません」
「嘘をつくな! この目で見たんだ!」
怒りが頂点に達したらしい信者が、うずくまっている奴隷に手を上げようとした。
「あー、あの、ちょっと」
ジェイミーは間に割って入ろうとして、手を上げようとしている信者の足につまずいた。信者たちと、うずくまっている奴隷の間にずべっと倒れ込む。
「……」
なんだこいつはという顔で、その場にいる者たちは地面に伏したジェイミーを見下ろしている。
ジェイミーは無駄のない動きで素早く立ち上がった。大丈夫、計算通りだ。乱闘は防いだ。それが目的だった。全然恥ずかしくない。
「あの、その、実は、道に迷ってしまって。ここは一体、どこでしょうか?」
さり気なく双方の間に陣取りながら、苦しい愛想笑いを浮かべる。我ながら下手な芝居だった。目の前に立ちはだかる人々は不審げな顔でジェイミーを見ている。ジェイミーの容姿が自分たちと違うので、戸惑っているようだ。アンタレス国の使節かもしれない、と誰かが囁いた。その声をきっかけに、人だかりはわらわらとバラけていった。
「あの、大丈夫ですか?」
ジェイミーがホッと息をついていると、背後から恐る恐るといった様子で声をかけられた。地面に打った膝が微妙に痛いが、ジェイミーは意地でもそんな素振りは見せまいと軽やかに笑顔でうしろを振り返った。名誉を挽回するべく、家まで送りましょうと提案する。彼女は小さく笑ったあと、では、お願いしますと頷いた。
その人は、ペレトと名乗った。道すがらいろいろ話をしていて、ジェイミーは道ばたで駆け寄ってきた子供が、彼女と彼女の所有者との間にできた子供だということを知った。ゲレフという名の子供は、母の影に隠れながらジェイミーの様子をこっそりうかがっている。
ふと、ある疑問が頭をよぎる。ひょっとして、奴隷とそうでない者の間に生まれた子供というのは、奴隷になるものなのだろうか。
ペレトは察しがよかった。ジェイミーがひどく遠まわしな言葉でほのめかした疑問を、正しく汲み取って説明してくれた。
この国の法律では、子供は母親の身分を引き継ぐと定められている。だから奴隷が産む子供は例外なく奴隷になり、母親の所有者の、財産となる。ペレトが奴隷である限り、彼女の子供は奴隷になるのだ。
ジェイミーはその法律ができた理由を、なんとなく察することができてしまった。
この法律は、奴隷所有者の財産を守るのだ。間違っても、奴隷が産んだ子を所有者が養うことにはならないように。奴隷に不貞をはたらけばはたらくほど、奴隷が子供を産めば産むほど、奴隷が増え、奴隷所有者の財産になるという制度によって。
「ここが私たちの家です」
すっかり感傷的になってしまったジェイミーは、自分たちが高級住宅地のような区域に足を踏み入れていることに全く気付いていなかった。
ペレトが指し示す建物は、大層立派だった。幾重にも柵を張り巡らせているのは、反乱軍の攻撃を防ぐためか。
ジェイミーは思った。柵を張り巡らせる前に、これ見よがしに門の上部に掲げている、王家の紋章を取り払うべきではないか、と。これでは反乱軍に向かってさぁ攻撃してくれと言っているようなものだ。
門に刻まれた名前には覚えがあった。アンタレス国軍がこの国に入国した日、軍の施設を案内してくれたレグルス国軍の案内役である、ヌブの家名が、門にでかでかと刻まれていた。




