24.不運なレイチェル
「ちょっと、見た? 兄さんのあの態度!」
リリーは談話室の一角で湯気の立つカップを持ったまま、国家機密でも入手したかのような口調で問いかけた。ニックは三人がけのソファーを占領しながらそっけない態度で会話に応じる。
「学ばないよなぁ、あいつも。この幸せは長くは続かないってのに」
「デレデレしちゃって。感情が全部表に出てるじゃない」
「きっとまたスプリング家にいいように利用されるんだぜ。いつまでこんなこと続ける気なんだか」
「昨日はあんなに怒ってたくせに。信念ってものが無いのよ兄さんには」
「……ねぇリリーちゃん。俺と意思疎通する気あるの?」
言いたいことだけ言ってスッキリしたリリーは、しとやかな所作でカップに口をつけた。ニックは上半身を起こし、周囲を見回す。
「そういえばあの二人、どこ行った?」
「シェリルは家に帰った。兄さんは見送りにいったみたい。多分シェリルが家の中に入る瞬間まで見送るつもりよ」
「あーあ、これだからだめなんだよあいつは。せっかく主導権を握ってたのに。結局相手のペースに呑まれちゃうんだからなぁ」
リリーとニックがここぞとばかりに好き勝手なことを言っていると、眠たげな顔のウィルが部屋に現れた。
「何の話? あれ、ジェイミーは?」
「シェリルを家まで送ってる」
リリーの答えを聞いて、ウィルはやれやれと頭を振った。
「学ばないよな。せっかく主導権を握ってたのに。あんなに分かりやすい態度取ってたらまた利用されるだけだ。いつまでこんなこと続ける気なんだか」
「お前本当は俺たちの話聞いてただろ」
ウィルはニックの軽口につき合う気力もない様子で、リリーの右隣に腰を下ろした。ウィルの目の下に隈を発見したリリーは、慌ててお茶を中断する。
「どうしたの、ウィル。元気ないみたい」
「ちょっと、ヘトヘトで……」
ウィルはなんと驚くことに、レグルス国では高貴な人間として扱われている。さらに驚くことに、レグルス国の王侯貴族たちは争奪戦かという勢いでウィルと親しくなろうと奮闘している。
だからこの国に入国してからというもの、ウィルは毎日のように晩餐会やら音楽会やらに招待されている。別に招待の全てに応じる必要は無いのだが、入国して早々に副団長とスティーブの恨みを買うようなことをしてしまったウィルは今、せめていざというときに利用できるような人脈を築いてこいと圧力をかけられている。
朝から晩までパーティーざんまい。当然、休息のための時間は削られる。だが本来、疲れ知らずなウィルである。数年前に騎士隊長の気まぐれで開催された、腹筋地獄と称した恐怖の訓練をこなした翌日、ウィルが一人だけ平気な顔をしていたという話を、リリーは兄から聞いたことがあった。ウィルがへばっているところを見たことがあるかないかという話題で盛り上がっている騎士たちを見かけたこともある。
それほどまでに体力底無しのウィルが、ヘトヘトだと言うのだ。これは、大自然の法則が乱れていると言っても過言ではない事態だった。
「私も一緒に連れてってくれれば役に立つのに」
リリーが拗ねて見せると、ウィルは珍しく面倒くさそうな顔をした。
「言っただろ。顔を広く知られたら今度こそ本当に誘拐されるかもしれない」
「でも私は婚約者なのに。婚約者は普通、一緒に参加するものよ。夜会にも晩餐会にも」
「あのさ、困らせないでくれよ。ちゃんと話し合ったのにまたこの話を蒸し返すの?」
不穏な空気が漂い始めたので、ニックはわざとらしく咳払いをした。
「あー、邪魔者は退散しようかなぁ。ねぇ、レイチェルちゃん。外の空気吸いに行きたくない?」
気まずい空気から逃れようと、ニックはリリーの左隣に座っているレイチェルに誘いをかけた。物音ひとつ立てず行儀よく座っていたレイチェルは、申し訳なさそうにうつむいている。
「申し訳ありません、殿下。私があの日、勝手に外出したばっかりに」
「ああいや、そういうことを言ってるわけじゃ……」
うろたえるウィルを尻目に、ニックは哀れむような視線をレイチェルに向ける。
「君はこの国に来てから踏んだり蹴ったりだよね。慣れない子守りに、誘拐に。ジェイミーはあんなだし。どんだけついてないの」
慰めているのか傷口をえぐっているのか分からないニックの言葉に、レイチェルはますます表情を暗くする。リリーはレイチェルの肩にそっと手を置いた。
「言ったじゃない。兄さんは好きって言われたらすぐ好きになっちゃうようなどうしようもない人だって。もう少し早く行動に移せばよかったのに」
リリーの言葉がとどめであった。レイチェルは両手で顔を覆ってしまった。
「十年以上も言えなかったことを、今さら言えと言われても無理です!」
「ここまで後押ししても告白できないんじゃ、どうしようもないよ」
控えめであるが容赦のない言葉を告げるウィル。リリーとニックもまた、容赦なく頷く。
リリー、ウィル、ニックの三人はつい最近まで、ジェイミーは弟の世話を生きがいにして一生を終えるのではないかと危惧していた。シェリルが国を去り、なんの連絡もないまま一年が過ぎようかという頃。もしかしたら、ずっとこのままかもしれない、という予感が三人の中で現実味を帯びていったのだ。
当の本人は自分の状況をそれほど深刻には受け止めていないようだった。だがそれは、自分の感情を認識するのが下手だからであって、何も感じていないからではないということを、三人はよく分かっていた。
どう前向きに考えても、いつ会えるのか、また会えるのかどうかも分からないような相手に期待し続けるのは無謀すぎる。おまけにジェイミーはシェリルのことに関しては周囲の声に耳を貸さない。何か手を打たねば、と三人が考えていた矢先、レイチェルがちょうどいいタイミングで現れたのである。
レイチェルはあまり積極的な性格ではない。つつしみ深さは貴族令嬢の美徳であるから、その性格を変えなければならない理由など一つもない。しかしジェイミーが相手となると話は別である。ジェイミーとの恋愛において、受け身であることはマイナスにしか作用しない。
今まで内気なせいで、何度となくチャンスを逃してきたレイチェル。ジェイミーが恋人と別れたという噂を聞くたびに、長い時間をかけて勇気を奮い起こすものの、その間に他の令嬢に先を越されてしまうのが毎度のパターンだった。
ところが現在、ジェイミーは強気な令嬢たちが攻めるに攻めきれない状況に身を置いている。爵位を継ぐ資格を失ってからというもの、公の場にほとんど顔を出さなくなったからだ。
今がレイチェルにとっての好機だった。レイチェル史上最大の勇気を奮い起こして、彼女はリリーに話を持ちかけた。どうにかしてジェイミーと親しくなる場を設けて欲しいと。
これはアンタレス国軍がレグルス国に向かう一ヵ月ほど前の出来事である。ジェイミーの将来を心配していたリリーは「まかせろ」と胸を叩いた。そしてリリーなりに緻密で壮大な計画を練った。
リリーは、レグルス国に滞在する間弟の子守りをしてもらうという口実をひねりだし、レイチェルとジェイミーを接近させることに成功した。
旅の道中にレイチェルがジェイミーに想いを告げる。たとえジェイミーがレイチェルの気持ちを受け入れなかったとしても、そのせいでレイチェルだけ砂漠のど真ん中に置き去りにすることはできない。仕方なく行動を共にするうちに、ほだされやすいジェイミーはレイチェルのことが気になりはじめ、二人はレグルス国で親交を深め、帰国後めでたく両想い、という計画だった。我ながら完璧な運びだとリリーは思っていた。がしかし、この計画には誤算があった。
赤子の世話は想像以上に大変だったのだ。そしてレイチェルは今まで赤子の世話どころか自分の世話もろくにしたことが無かったのだ。
旅には乳母も同行している。彼女に子守りを任せてしまう方が、レイチェルが世話をするより、誰にとっても何倍もいい結果になることは目に見えている。しかしレイチェルは下手なりにレオの世話に没頭していた。いざ本人を前にすると告白する勇気がみるみるなくなってしまい、仕事に逃げてしまったのである。
このレイチェルの行動を、リリーたちはあまり強く責められなかった。一体誰が、レグルス国にシェリルがいることを予測できたというのだろう。レイチェルにとっては不運だったとしか言いようがない。そして彼女の不運はこれだけにとどまらなかった。
「スティーブ様にやんわり釘を刺されました。あの人に……シェリルさんに助けられたことを、どうしてもっと早く言わなかったのかって」
「ああ、君を逃がしたのってやっぱり、シェリルちゃんだったの……」
レイチェルは、ジェイミーとシェリルの再会を後押しした真の立て役者である。
レイチェルは一応、古城でシェリルと遭遇したことを黙っていることで、二人の再会を妨害しようと試みていた。しかし運命は無情であった。いや、スティーブは無情であった。彼はレイチェルを助けたのはシェリルで、レイチェルがあえてその事実を黙っているといつの間にか見抜いていた。
「ジェイミー様、幸せそうでしたね」
ポツリとレイチェルが呟く。リリーたちは気まずげに顔を見合わせ、おのおの何かをごまかすように、視線をさ迷わせた。




