18.捨て犬
レグルス国は農業が盛んな国である。特に小麦の生産量は世界一という噂もあるくらいで、レグルス人の食卓には必ず、自慢の小麦を使って作られた丸くて平らなパンが並ぶ。
スプリング家もその風習にならって、パンをよく食べている。今日も大量のパンがテーブルを占領していて、パンの周りには野菜や豆のペーストを瓶に詰めたものがずらりと並んでいる。シェリルは胡麻のペーストをパンの表面に塗りつつ、テーブルを挟んで向かいに座っているカルロに、真剣な顔で話しかけた。
「カルロさん。私がカルロさんに買われてから、もう八年になります」
「ああ、もうそんなになるかねぇ」
カルロは膝の上で暴れている子供の口にパンをくわえさせながら、のんきな口調で言った。シェリルはテーブルの周囲に座っている子供たちにせっせとパンを配りながら、話を続ける。
「私、もう一人前になりました」
「一人で馬にも乗れない人間を一人前とは言わないよ」
シェリルはうっと口ごもったが、負けじと主張を続ける。
「ジェイミーと一緒にいることで、カルロさんに迷惑をかけたりはしません」
「そうだな。スプリング家がアケルナー国と手を切ったのも、アンタレス国にいいように利用されたのも、お前とジェイミー君のせいじゃないもんな」
今度はシェリルの隣に座っているジェイミーが気まずげに視線を泳がせた。部屋の空気はどんどん重くなるが、子供たちはどんどん元気になる。そのとき、はちゃめちゃな空気が流れるリビングにダミアンが現れた。
「かくれんぼなんていう遊びを生み出した奴は地獄に落ちるべきだ!」
両脇に小さな子供を抱えたまま、ダミアンは叫んだ。カルロはダミアンに確保され頬を膨らませている子供たちに目を向けて、それからテーブルの周りを囲んでいる子供たちの人数を数え始めた。どうやら全員捕獲できていたようで、カルロは満足げである。
「子供が減った? 前はもっと、大勢いたような……」
ジェイミーがこっそり耳打ちしてくる。シェリルはジェイミーに"シェリル特製、豆とトマトとはちみつのスペシャルペースト"を塗ったパンを手渡しながら、ううん、と首を振った。
「減るどころか、増えたわ。もうちょっと歳が上の子供たちは別の建物で暮らしてるの。人を雇って、読み書きとかを教えてる」
「へぇ」
騒がしいリビングに、アメリアの声が飛び込んできた。
「カルロさーん、さっきそこで犬を拾いました。とってもかわいいの。この子、飼ってもいいでしょう?」
甘えた声を出しながらリビングに現れたアメリアの隣には、首に縄を巻かれたスティーブが立っていた。
「うわ……何やってるんだお前」
スティーブはジェイミーの問いに答えず、うつろな顔で立ち尽くしている。
アメリアに捕獲されたスティーブを見て、シェリルもジェイミーと同様に固まった。カルロはちらりとスティーブに視線をやり、ひとつため息をついた。
「うちにそんな余裕はない。もといた場所に捨ててきなさい」
「でもカルロさん、この子すごく賢いんですよ。隠れてゲレフの店の様子を窺ってたの。ひょっとして、そこにいるシェリルとジェイミー君のあとを、つけてきたのかしら。途中で二人を見失って困ってたの? 可愛らしいと思いません?」
アメリアがぐいっと縄を引っ張ったので、スティーブは痛みに顔をしかめた。
「勘弁してください……」
「あら、命乞いもできるの? いい子ね!」
アメリアにぐしゃぐしゃと頭を撫で回されているスティーブの顔は、絶望の色に染まっている。
「そらみろ、さっそく迷惑が舞い込んできた。後をつけられていることに気づかないなんて、それでどうして一人前だと言えるんだ?」
「それは……だって……」
すぐに言い訳が思い浮かばず、シェリルは必死に言葉を探す。居心地の悪い沈黙が続いたあと、ジェイミーがためらいがちに声を上げた。
「あの、もしかしてまだ、シェリルとの仲を認めてもらえていないんでしょうか」
何の説明もせず連れてきてしまったため、ジェイミーはこの場の状況を全く理解できていないようだ。
カルロは毒気のない笑顔をジェイミーに向ける。
「ジェイミー君。俺はね、君のことは結構気に入ってるよ。問題は、君がいるとシェリルが使いものにならなくなるってことなんだ。例えば」
カルロは途中で言葉を切ってアメリアに視線を送った。アメリアはひとつ頷き、スティーブの首に繋がっている縄をカルロに差し出した。カルロは縄を受け取ったとたん、思いきりそれを引っ張った。スティーブは呻き声を上げながらカルロの足元にひざまずく。
「君がわざとこの男を手引きしたわけじゃないってことくらいは、推し量って理解しよう。浮かれて気づけなかったシェリルが悪いんだ。でもシェリルと一緒にいたいなら、こういうことを防いでもらわないと困る。たとえ相手が気心知れた友人でも、敬愛すべき国王でも、上手く騙してくれないと。君にはそんなこと、できないだろう?」
スティーブの首がカルロの手に委ねられているからか、それともカルロの考えが正しいからか、ジェイミーは表情を強ばらせたまま言葉を返さない。
気まずさも一入という空間で、カルロの膝に乗っている子供が、ひざまずいているスティーブに食べかけのパンを差し出した。
「わんちゃん、えしゃだよ」
スティーブは頬をひくつかせている。カルロは餌付けを試みている子供に再びパンをくわえさせたあと、縄を引っ張ってスティーブの視線を無理やり自分の方に向けた。
「で、お前、誰?」
「スティーブです。アンタレス国軍の」
「スティーブか。聞いたことあるような、ないような……」
過去の出来事に通じる厚い扉をどうにかこうにか開こうとしているカルロに向け、ダミアンが助け舟を出す。
「俺たちが使ってる暗号を解読しようとしてた奴ですよ。ほら、シェリルの手紙の」
「あー、そういえばいたね、そんなのが」
カルロは爽やかに笑いながら、いつの間にかナイフを手にしていた。シェリルはぎょっとして立ち上がる。
「カ、カルロさん。スティーブは確かに憎らしい奴ですが殺すほどの手間をかける必要はありません」
言いながら机に飛び乗りナイフを取り上げようとしたシェリルは、ダミアンに腕を掴まれそのまま机の下に引きずり落とされた。
「行儀が悪いぞ。こいつらが真似するだろう」
ダミアンが言い終わる前に、テーブルを囲んでいる子供たちが次々と机の上によじ登りはじめる。アメリアとダミアンは同時に頭を押さえる。
「やってくれたな、シェリル。こら、机に足を乗せちゃだめだ。ほら、ジェイミー君も手伝って」
ダミアンに促され、ジェイミーは机の上でダンスパーティーを始めようとしている子供たちをせっせと拾い上げる。
双子とジェイミーがちびっこと格闘している一方で、シェリルはカルロと格闘していた。ナイフを取り上げようとするシェリルを軽くあしらいながら、カルロは言った。
「ところでシェリル。お前どうしてそんなに埃まみれなんだ」
シェリルは自分を見下ろした。確かに、今までどうして気付かなかったのかというくらい埃にまみれている。
「多分、一晩中古城にいたせいです」
「みっともないな。今すぐ着替えてきなさい」
「でも」
「スプリング家モットー! 服装の乱れは?」
「……心の乱れ」
「行ってこい」
反論は許さぬとばかりに命じられて、シェリルは渋々自室がある二階へと向かう。
ジェイミーとスティーブが「どうかこの場に置き去りにしてくれるな」とシェリルの背中に念を送っていることには、残念ながら気づかなかった。