15.愛はホコリとともに〜feat.ジェト〜
レグルス国の太陽はアンタレス国のそれとは比べ物にならないほどすさまじい。現地の人間でも堪えるほどなので、真夏でも比較的涼しいアンタレス国で生まれ育った人間が、そのすさまじさをどう感じるかというのは言わずもがなだ。
現在、季節は夏。一年で最も暑いこの時期に、太陽の下で訓練などできるわけがない。だからアンタレス国軍はこの地にとどまる間、昼間は基本的に室内で過ごし、夕方から真夜中にかけて活動する。
今日も雲ひとつない空に欠け始めの月がぷかりと浮かんだ。火を灯した松明が訓練場を囲んでいる。地面に影ができるほど明るく、気温は低い。熱気が充満している昼間とは違って、人に優しい環境が整っていた。
だだっ広い訓練場には、ゆっくりとした速度で走る男たちの姿がある。軽く体を動かした男たちは息を整えたあと、二人一組で槍術の訓練を始めた。さて誰と組もうかと辺りを見回していたジェイミーの目の前に、突然スティーブが現れた。
「ジェイミー。俺と組もう」
「うわ、スティーブ、お前どこ行ってたんだ」
レグルス国にとどまる間、騎士隊の訓練を指揮するのはスティーブの役目である。しかし時間になっても本人が現れないので、騎士隊一同は訓練をはじめる前、少々もたついた。やることは毎日ほとんど変わらないので、それほど困ることは無かったが。
スティーブは反省する様子もなく、訓練用の槍をジェイミーに投げてきた。
「明日、狩りにいこう。俺とお前の、二人で」
言いながら、スティーブは綺麗な軌道を描き槍を振った。ジェイミーはそれを受け止めつつ、困惑する。
「狩り? 砂漠で何を狩るんだよ」
スティーブはジェイミーが持っている槍の先を地面に押しつけながら、うーん、と難しげな顔で唸る。
「動物にたとえるとしたら、リスかな。間抜けな」
「リス?」
動物を動物にたとえるとは、斬新な。
ジェイミーが後ろ向きな態度を見せたので、スティーブは安心させるためなのか、明るい笑みを浮かべて言った。
「心配するな。もう致命傷は与えておいた」
「悪魔か」
弱っているリスを想像して、ジェイミーはちょっと悲しくなった。
「じゃあ明日の朝、空けとけよ」
スティーブはジェイミーの返事も聞かず、本格的に槍を扱いはじめた。ジェイミーは釈然としなかったものの、とりあえず目の前の訓練をこなすことに集中した。
◇◇◇
シェリルは今、悲しみにうちひしがれている。
全ては自分が撒いた種であるが、なんだか裏切られたような気分になっていた。「男なんて……」と投げやりになったあと、「もう二度と誰かを好きになったりしない」と決心するということを繰り返し、最終的に「自分はもう一生誰にも愛されないのだ」と悲嘆に暮れた。
失恋の悲しみに浸ることは意外に忙しい作業で、シェリルは一晩中、スティーブと話をした薄暗い部屋で膝を抱えて過ごした。ひとしきり泣いて泣いて泣き濡れて、薄汚れた部屋に光が差してきたとき、シェリルの失恋は一段上の段階に進んだ。悲しみに暮れる作業が、より高尚な精神活動へと移行したのである。
ジェイミーは今、幸せなのだ。子を授かって美しい恋人が側にいて、そしていずれは可愛い孫が生まれてさらに可愛いひ孫が生まれてさらに可愛い玄孫が生まれてエンドレス。なんて素晴らしい人生。ジェイミーの幸せは、シェリルの幸せ。そう。人を愛するのに理由はいらない。世界は愛に満ちている。愛に乾杯。愛に万歳。
シェリルは詩の才能が全く無いが、今なら何かとてつもない超大作ができるような気がしてきた。何か書くものはないかと周囲を見回す。この素晴らしく高尚な心の機微を記録に残さなくては。
部屋のすみに転がっていた紙切れに一心不乱に気持ちをぶつけていると、ボロボロのカーテンの向こうからジェトが現れた。
「あ、いた! シェリル、いいもの見せて……」
朝から元気なジェトは、真剣な顔で超大作を完成させようとしているシェリルを見て、眉をひそめた。
「何やってんの?」
「詩を書いてるの。傑作よ」
シェリルはできたてほやほやの傑作を朗読する。
「愛、それは誇り。埃の香り。吸い込みすぎたら、くしゃみが出る。ああ、砂ぼこり」
部屋の環境に多分に影響されているシェリルの詩を聞いて、ジェトはゆっくりと首をかしげた。
「お前に才能が無いことだけは分かった」
「何でよ。誇りと埃を掛けてるのよ。粋でしょ」
「いや、無理だ。限界だけが伝わってくる」
シェリルの将来の夢候補から、詩人は除外されることになった。シェリルは失恋の悲しみをぶつけた紙をぐしゃっと握りつぶし、ジェトと向き合った。
「それで、私に何の用?」
「ああ、そうそう。これ貰ったんだ」
ジェトが嬉しそうに差し出してきたのは、細かな彫刻が施されている短剣であった。剣の柄にはアンタレス国の、王家の紋章が刻まれてれている。なぜジェトがアンタレス国の短剣を持っているのか、シェリルは瞬時に悟った。
これは恐らく、アンタレス国のご令嬢、レイチェルが護身用に持っていたという代物だ。レイチェルを誘拐した奴らが彼女から奪ったのだろう。
短剣を持っていることがレイチェルを誘拐した証拠になってしまうと、彼らは今さら気付いたのだ。だからジェトに罪を着せようとした。そこら辺に捨てておけばいいだけなのに、微妙にひと捻りした策を講じるのはなぜなのか。
「よかったわね。高く売れるんじゃない?」
高価な品を思いがけず手にした幸運なジェトは、シェリルの言葉を聞いて信じられないという顔をした。
「売るだって? バカ言うなよ」
「短剣の使い方なんて知らないでしょ。それを売って、もっと他に役立つものを買えばいいじゃない」
「知らないなら覚えればいいだけだろ。お前ナイフ投げとか、上手いじゃん。教えてよ」
キラキラした瞳で見つめられて、シェリルは困ってしまった。刃物を扱う技術なんて、ジェトの人生には不要だろう。そうであって欲しい。
しかしシェリルはジェトの期待に応えたかった。彼の向上心を無駄にしてはいけないと、使命のようなものを感じた。
「いいわ。教えてあげる」
シェリルは人に教えるという機会にあまり恵まれていない。なぜならアメリアとダミアンが何でもできてしまうからだ。人に何かを教えることも、二人はシェリルよりも上手いのである。だからジェトにものを教えるというのは、ちょっといい気分だった。
シェリルはジェトから短剣を受けとって、鞘から引き抜いた。少し離れたところにあるカーテンの、穴が開いている部分に短剣をくぐらせてみせると言うと、ジェトは大げさなくらいに驚いてくれた。彼の反応によってさらに気分がよくなったシェリルは、狙いを定めて、短剣を大きく振り上げた。
シェリルは自分の腕に自信があった。十中八九狙った場所に投げられる確信があった。もし狙いが外れるとしたら、それは的の方がじっとしていなかったからで、シェリルの腕が悪かったからではない。
狙いは外れた。シェリルの腕は悪くなかった。短剣を投げた瞬間、的にしていたカーテンが突然開いたのだ。短剣は、カーテンの向こうから現れた人物の顔の真横をすり抜けて、下降線をたどり床に弾かれ、すぐ近くに転がっていた古びたクッションに突き刺さった。
カーテンの向こうから現れた人物はゆっくりと後ろを振り返り、自分の顔を貫きかけた短剣をじっと見つめた。それからまた視線を戻し、シェリルの顔を見た。
「久しぶり」
シェリルは短剣を放り投げた格好から少しも体勢を変えないまま、口だけを動かした。
「ジェイミー……」
シェリルの隣に立っているジェトが感嘆の声を上げる。
「すげーなシェリル、今のもう一回やってよ!」
シェリルの背中に、たらりと冷や汗がつたった。