12.逃走
「元気出せよ」
「よくやったよお前」
うなだれて歩くウィルの肩を、ジェイミーとニックは両隣から叩いてやる。
ソティスの部屋からぺっと吐き出されたジェイミーたちは、尻尾を巻いて、宿舎に戻るべく古城の大広間を進んでいた。大広間には奴隷たちがひしめいている。興味津々に視線を寄越されて、三人は獅子に追いたてられるハイエナにでもなった気分だった。
ちなみにジェイミーはとりたてて、人よりも聴力が優れているなどということはない。同時に話している人間の言葉をそれぞれ正確に聞き分けるなんていう特技も、持ち合わせていない。しかしこのときどういうわけか、騒がしい野次馬の中の、たった一人が発した声だけがはっきり耳に飛び込んできた。
「おーい、シェリル、こっちこいよ!」
一瞬、時間が止まったように思えた。ジェイミーは息を呑みながら声がした方へと視線を向けた。野次馬の中に、大きく手を振る男が見える。男は離れた場所にいる誰かに向けて手を振っているようだった。ジェイミーはほとんど無意識に、その男の視線をたどっていた。
ちなみにジェイミーはとりたてて、人よりも視力が優れているなどということはない。しかし、男が手を振る先。その先に立っている人物のことは、遠目にもはっきりと認識できた。そこにいたのは、ジェイミーが焦がれ続けていた、その人だった。
こちらをまっすぐ見つめる瞳に気づくと同時に、ジェイミーの足先は自然と彼女の方を向いていた。ぱちりと目が合った瞬間、彼女はジェイミーに背を向けて一目散に逃げ出した。
「え」
なぜ。
ジェイミーは逃げる背中を追うべくすぐさま駆け出した。
「あ、おい、ジェイミー!」
ニックの呼びかけを無視して、野次馬をかき分けて進む。どうにか人混みを抜けボロボロのカーテンをくぐり抜けると、扉の向こうに消えるスカートの裾が見えた。
名前が同じだけの、別人かもしれないというわずかな疑いは、逃げる背中を追い続けるうちに薄まっていった。手すりを飛び越え、棚をいくつも引き倒し、ベランダから飛び降りたりしながら逃げ回るような人間が、果たして彼女の他にいるだろうか。もうあれは間違いなくシェリルであると、ジェイミーは確信する。確信すると同時に、そこまでして逃げるか、と苛立ちがこみ上げてくる。
ひと通り城の中を走り回った末にとうとう追いついたつもりになって、今にも崩れ落ちそうな扉を勢いよく開いた。扉の向こうにいたのは、ぎょっとした顔のニックとウィルであった。二人は奇術でも目の当たりにしたかのように、ジェイミーのことを頭のてっぺんから足の先までまじまじと見つめた。
ジェイミーは肩で息をしながら辺りを見回す。いつの間にか大広間に戻ってきていた。誰か見かけなかったかと尋ねても、二人は首を横に振るだけ。どうやらものの見事に撒かれてしまったようだ。
ジェイミーはふと自分の体を見下ろした。中庭に飛び降りたり机の下をくぐり抜けたりしたせいで、埃やら砂やらにまみれてしまっている。顔を上げて、ニックとウィルの顔を順番に見て、ゆっくりと口を開く。
「俺は何をやってるんだ」
「俺たちが知るわけないだろう」
至極まっとうなニックの返答に、確かに、と頷く。さきほどまでジェイミーに気をつかわれていたはずのウィルが、気遣わしげに声をかけてくる。
「大丈夫か?」
「いや、大丈夫じゃない。もう駄目だ」
突然に、限界がきた。少しくらい会えないことなど何でもないと思い込んでいたが、ここにきて感情が一気に押し寄せてきた。どうにかこうにか不満を飲み込んでしまおうと努力するが、どうにもならない。ジェイミーはその場にしゃがみこみ、為すすべもなくうなだれた。
「それでね、ウィルったら何度も言ってくるのよ。危ないから絶対に一人で出歩かないようにって何度も――。ちょっと兄さん、聞いてる?」
レグルス国が用意したやたらと豪華な夕食を満喫し、レグルス国が用意したやたらと豪華な寝室に身を落ち着けた、夜のこと。
王家にまつわる神を信仰する、教団の夜会にウィルが招かれているせいで、リリーは暇をもて余していた。異国の教徒に婚約者を奪われてしまったリリーは、仕方なくジェイミーを相手におしゃべりに興じていた。
妹の惚気話に適当に相づちを打っていたジェイミーは、空中をふよふよ漂っている意識を急いで引っ張り戻した。
「え、何? 聞いてなかった」
「全く、緊張感が足りないんだから。もし反乱軍がこの部屋に押し入ってきたとして、私とレイチェル様とレオを、ちゃんと守れるの?」
ジェイミーの向かいで頬を膨らませているリリーの隣では、レイチェルが控えめに苦笑いを浮かべている。
現在この部屋には、ジェイミーの他に五人の騎士がいる。彼らは別に、リリーとレイチェルの護衛をしている訳ではない。夕食のあとの自由な時間を、ボードゲームをして遊ぶことに費やしているのだ。なぜそれをジェイミーの部屋でするのかは、謎である。
無駄に腕を鍛えている人間が自分の他に五人もいれば、誰が押し入ってこようとまぁ、大丈夫だろう。そう気楽に考えながら、ジェイミーは腕の中で眠っているレオをぼんやりと見下ろした。向かいからジェイミーの腕の中を覗き込んでいるレイチェルは、沈んだ表情である。
「私の勝手な行動のせいで、申し訳ありませんでした。国軍の皆様にもいろいろとご迷惑を……」
「いや、すぐに気づかなかった俺たちが悪いんだよ。まぁ一人で外を歩くのはさすがに、もう止めて欲しいけど」
ジェイミーはなるべく軽い調子で言葉を返した。しかしその気遣いはあまり効果を発揮せず、レイチェルはさらに沈んだ声を出した。
「私、あの日はすごく、ふがいなくて。夜泣きも満足に止めることもできずに、申し訳ないと思っています。だから気持ちを引き締めようと、少しだけ夜風に当たるつもりがあんなことに」
みるみる瞳に涙を溜めていくレイチェルを見て、ジェイミーはぎょっとした。
「本当に気にしなくていいから。無事で良かったよ。本当に」
うろたえるジェイミーの前で、リリーは呆れた顔をしている。
「レイチェル様はこんなに真剣に悩んでるっていうのに、兄さんは一日中ぼんやりしてばかりよね。ウィルが言ってたけど、シェリルにそっくりな人を反乱軍の集会所で見かけたんですって?」
リリーの言葉にジェイミーは顔をしかめる。
「そっくりな人? あいつそんな風に言ったの?」
「しょうがないじゃない。ウィルもニックも兄さんが言うような人は見てないんだから」
「ああ、そうか。いいよいいよ、どうせ何もかも俺の思い込みなんだろ」
「やめてよ子供みたいに」
ジェイミーとリリーのやり取りを、レイチェルは気まずそうな顔で聞いている。
そのとき、ボードゲームで遊んでいる騎士の一人が突然会話に乱入してきた。
「我らがスティーブ様にお願いしてみれば? 何万人といる反乱軍の兵の中から、愛しのシェリルを見つけ出してきてくれってな」
からかい混じりの提案に、ジェイミーは文句を言う気にもなれずため息を返した。
スティーブは副団長から、反乱軍との関係を修復しろと命じられている。要するにソティスを牽制しようとして失敗した、ジェイミーたちの尻ぬぐいをするように言われているのだ。
スティーブは今、無言で怒っている。もちろん、諸悪の根元たる三人に対してである。彼は明日、あの尊大で、不遜で、自信に満ちあふれたソティスに謝罪しに行かなければならない。プライドの高いスティーブが、謝罪をするのだ。そんな彼にどうして、「謝罪するついでにシェリルを探してきてくれない?」などと頼めようか。ジェイミーはそこまで命知らずではない。
もう一度自分の足で探しに行くことも考えたが、これ以上勝手な行動は許されないだろう。それにジェイミーは少し、怒っていた。向こうは会いに来ようと思えば来られるのに、なぜわざわざこちらから探しに行かなければならないのか。それはちょっと、違うんじゃないか。
ジェイミーはこれから数週間、スティーブのご機嫌とりに徹するつもりである。そうすれば乱された心にも平穏が戻ってくるような気がしていた。




