11.ソティス御殿
アンタレス国軍に同行していたレイチェル・スタンシーが、一晩のうちにこつぜんと姿を消した。軍人たちは朝食を終えた頃にようやく、彼女の失踪に気づいた。これは大変だと軍人たちが捜索に乗り出そうと動き出したとき、渦中の人であるレイチェルはけろっとした顔で宿舎に戻ってきた。
軍人たちが詳しく話を聞いたところによると、レイチェルは昨夜、反乱軍の乱暴な者たちに誘拐され、それから反乱軍の親切な人にあっという間に解放してもらったらしい。
喜ぶべきは、レイチェルが無傷であり、元気であり、無事に宿舎に戻ってきたことだ。そして悲しむべきは、軍人たちが事態に気づく前に全てが起こり、全てが解決していたことであろう。
屈強な軍人たちは、一晩の間監禁されていたレイチェルよりも落ち込んだ。自分たちは何なのだろう。何のために日々訓練に勤しんでいるのだろう。こんな時に役に立たなくて、一体いつ役に立つのか?
彼らの中に渦巻く無力感は、レイチェルが明かした新たな事実によって木っ端微塵に吹き飛んだ。レイチェルは言った。反乱軍の親切な人が教えてくれたのだが、反乱軍が本当に誘拐したかったのは、どうやらリリーだったようなのだと。反乱軍はリリーを誘拐し、ウィルを脅そうとしていたらしいのだと。よくよく警戒するように、と忠告されたらしい。
この話を知ったウィルは怒った。それはもう怒った。普段は部屋のすみの方で大人しくしているのに、このときだけは部屋の真ん中で怒っていた。そして反乱軍にもの申してくるといって宿舎を飛び出そうとした。
これに焦ったのはアンタレス国軍の副団長である。演習が行われる間、アンタレス国軍全体を取り仕切る立場である副団長は、今反乱軍の機嫌を損ねるのはまずいとウィルを説得しようとした。
現在反乱軍は、女王の失脚を目論んでいる。彼らの努力が実を結べば、やがては反乱軍のソティスがレグルス国を治めることになるだろう。女王が勝つのか反乱軍が勝つのか、それはまだ誰にも分からない。どちらが勝つにしても、アンタレス国はレグルス国という強国と、いつまでも良い関係を保っていきたいと考えている。だから今はどちらの味方にもなれないし、どちらの敵にもなれないのだ。
という副団長の説得に、ウィルは耳を貸さなかった。そして副団長にとっては都合の悪いことに、ウィルは王弟であった。普段は誰もがその事実を忘れているが、その気になれば副団長に逆らっても何とかなるくらい偉かった。
困ってしまった副団長は、彼にとっては遥か雲の下でちょこまか働くだけの存在である、ジェイミーとニックに泣きついた。ジェイミーとニックも身分からいってウィルには逆らえないのだが、そこは友情で乗り越えてみせろと副団長は懇願する。結果、二人はウィルを説得できなかった。泣き寝入りなんて正気か、と逆にウィルに説教される始末。
確かにレイチェルは危険な目に遭ったわけだし、このまま何もしないというのも情けない話である。三人はソティスに抗議するべく、反乱軍が占拠している古城に赴くことを決めた。副団長は真っ青になっていたが、致し方ない。正義には犠牲がつきものなのだ。
「ウィリアム殿下。わざわざそちらから会いに来て下さるとは、これほど嬉しいことはない」
ソティスは古城に乗り込んできたウィルのことを輝くような笑顔で迎えた。ウィルと対面するのは二度目だということに、全く気づいていない様子だ。恐らく彼はジェイミーとニックの顔も覚えてはいないだろう。
ウィルはソティスに対して、はきはきと文句を言った。ジェイミーとニックはウィルの背後に控えながら、お前はそんなに毅然と振る舞える奴だったのかと驚いていた。そして感動もしていた。これまで政治に関することは兄であるローリーに任せっきりにしてきたウィルが、奮闘している。
ウィルの成長を間近で感じて、ジェイミーとニックも奮起した。なるべくウィルが偉く見えるように、「殿下、肩に糸くずが」とか「殿下、あまり喋ると声がかれて、民への演説に支障がでます」とか言って隙あらばウィルのことをちやほやした。やり過ぎてウィルがキレそうになったので、途中から大人しく直立不動を貫いたが。
どうやらウィルが怒っているようだと察したソティスは、それでもうろたえることなく穏やかな笑みを絶やさなかった。
「同志たちがアンタレス国の姫君に蛮行を働いたとは、度し難い。心よりお詫び申し上げる」
お詫び申し上げながら、ソティスは酒を飲んでいた。きらびやかな椅子にふんぞり返り、真っ昼間から豪勢なことである。ソティスを取り巻いている女たちのうちの一人が、彼が持っているグラスに粛々と酒を注いでいる。
ジェイミーは密かに取り巻きたちの胸元に目をやったが、残念ながらさそりの心臓は見当たらなかった。
「たとえソティス殿の本意ではなかったのだとしても、今回の件を無かったことにするわけにはいきません。あなたはどうも反乱軍を制御できていないようだが、それは非常に危険なことだと認識していらっしゃるのですか」
ウィルはソティスの取り巻きの一人が差し出したグラスを無視して、低い声で警告した。ソティスは優雅な笑みの中に、分かりやすく不機嫌を滲ませた。
「私はあえて、同志たちを野放しにしているのです。彼らはもう十分に管理されている。彼らの蛮行はいわば、奴隷の自由を奪い血のにじむような努力さえ踏みにじる、女王の責任だとは言えないだろうか?」
ソティスの言葉にウィルは押し黙る。しかしすぐに気を取り直し険のある顔つきに戻った。
「そんなに女王を討ち取りたいのならさっさと城に乗り込めばいいだろう。このまま何をしでかすか分からない兵を野放しにして、アンタレス国の人間を危険にさらすと言うのなら、私は女王の側に立つこともいとわない」
ウィルの言葉に冷や汗を流したのはジェイミーとニックだけであった。ソティスは怯むどころか、なぜか嬉しそうな顔で前のめりになっている。
「身ひとつでのし上がったこの私に駆け引きを仕掛けるとはいい度胸だ。そちらこそ、女王と手を組みたいのならそうすればいい。ウィリアム殿下、私は決してあなたを止めたりはしないよ」
この瞬間、何かがとり憑いたのかというほどに勢いづいていたウィルが、急に失速した。どうやら己に駆け引きの才能と、国を左右するような決断を下す度胸がないことを思い出してしまったらしい。
「私にとって、この場であなたの首を切り落とすことなど造作もないことだと申し上げておきましょう」
ウィルは面倒な駆け引きを諦めて、物理的にソティスを脅すことにしたようだ。しかしソティスに脅迫は通用しなかった。
「私を殺すことなど、尖った木の枝でもあれば子供にだってできることだ。しかし誰も私を傷つけようとはしない。その理由をよく考えてみるといい。平和な国の王子様は、人を脅すことに慣れていないと見えるが、どうかな?」
ものの数分の会話で、ソティスはウィルの性質を見抜いていた。
黙りこむウィルを勝ち誇った表情で眺めたあと、ソティスはグラスの中身を一気に飲み干した。




