大権の所在(三十と一夜の短篇第68回)
“-archy”はギリシア語の「支配・統治」に由来し、「(…)政治、政体」の意の名詞を作る、名詞の語尾。例えば単一を意味する接頭語の“mono-”と組み合わせれば“monarchy”は君主制の単語となる。少数を意味する“oligo-”となら寡頭政治の“oligarchy”。無・否定の接頭語、“a-” または“an-”となら“anarchy”で無政府(状態)、無秩序、混乱を表す。
聖武太上天皇はいつものように心の内を顔に出さないようにした。天平勝宝七歳(七五五年)十月に病の床に就き、やっと体調が戻ってきて気分よく過している所に藤原仲麻呂が何やら奏上したい事柄があると参上してきた。是非ともお耳に入れなければならぬことでございますと、得意気だった。
「太上天皇におかせられましてはご機嫌麗しう……」
決まり切った文言の後に、仲麻呂は離れた場所に頭を下げて控えている男を指した。
「これなるは左大臣橘諸兄殿に仕える佐味宮守と申す者です。左大臣殿は太上天皇に対して不敬な言辞を口にしたと報せてきたのです」
佐味宮守は面を伏せたままだ。太上天皇と直に話せる身分の相手ではないと、代わりに従二位で大納言で紫微令で、聖武にとって従弟、妻光明皇太后にとって甥の仲麻呂がよどみなく説明する。
「そなたはこのように私に申したのだったな? 相違ないか?」
仲麻呂の確認に、佐味宮守これ以上はないというくらい床に額を擦り付け、肯定する。
「はい、まさしくその通りでございます。我があるじは宴の席でそう申しておりました」
「いかがでございましょう。左大臣殿の言葉は太上天皇に礼を欠き、叛意を抱いていると取れます。宴の席に共にあった者たちも左大臣殿を咎めなかったのですから、同罪です」
仲麻呂は胸を張る。聖武は率直な感想を伝えたらこの自尊心高い男はどんな顔をするだろう、と試してみたい誘惑を抱いた。しかし、聖武は穏やかさを保ち、応じた。
「宴の席で、酔いが回っていたのであろう?」
仲麻呂は一瞬眉を寄せたが、すぐに表情を戻した。
「酔いの上の不埒でお済ましになられるのですか?」
「左大臣は長年朕と苦難を共にしてまいった。責務の重さを酔いで吐き出したい気持ちもあるだろう。席にいた者たちも、役職も年齢も上の左大臣の言葉に逆らわず聞き流していたに違いない。戯言を一つ一つ咎め立てしていては、天下の大事を取り逃す。大納言、今回の左大臣の言は咎めぬ。そのように心得よ」
朕のいない所で不敬を少しも口にせぬと仲麻呂が言えるのかと、聖武は胸の中で付け加えた。妻の光明皇太后の信任を得て、娘の孝謙女帝の朝廷で仲麻呂は実権を握っている。妻の事務機関、皇太后宮を拡大した紫微中台を設立して長官となり、職員を自派の有力者で固めた。不安定な娘の権力基盤を母の光明皇太后が支える変則的な体制とはいえ、太政官を有名無実化した。名目上にしても、上に立つ左大臣の橘諸兄が邪魔で仕方ないのは判っている。臣下たちが派閥に分かれて争っていて世の安寧を図れようか。子どもの陣地取りの遊びと一緒にされては堪らない。また藤原氏の勢力のみを認めて、他氏を排斥した所で、今度は藤原氏の中で争いが起きるに決まっている。仲麻呂の同父母の兄で右大臣の豊成は温和な性格で敵が少ない。その兄が目障りと、仲麻呂が大人しいだけで能がないと貶めているのを聖武が知らないと思っているのだろうか。
聖武の揺るがぬ態度に、仲麻呂は渋々肯いた。
「太上天皇の仰せのままに。
このことは帝と皇太后様にも奏上いたします」
「好きにするがよい」
仲麻呂は佐味宮守を促し、退出した。
妻と娘が仲麻呂になんと返答するか、聖武には予想ができた。
翌日、娘が父の前に現れた。
「お父様、いえ、おおきみかど。大納言からの奏上を聞きました。左大臣を咎めないとご判断されたそうですね?」
「如何にも。帝にはご不満がおありか?」
「ございません。ただ大納言の話だけでは落ち着きませぬ。もっと詳しく知りたいのです」
不惑を二つほど前にした娘はまだ惑うことが多いのだろう。少女のように霞の向こうを見詰めるような、清らかなかなしさを発している。
「橘の伯父は悪事など企む人ではない」
「知っている」
「嫡子の奈良麻呂もまた学識あり、行い正しい」
「知っている」
「ですから、真意を知りたいのです!」
「誰のかね?」
孝謙は父に問われて沈黙した。気を取り直して孝謙は告げた。
「わたくし、宴に同席していたという越前守を呼び出して問いただします。越前守は奈良麻呂と親しいはず」
喚問を命じる為、孝謙は父の居室から去った。
聖武は妻に向き直った。本心を覗かせず、穏やかに振る舞うのは自分よりも妻が上手だろう。妻はゆったりと述べた。
「何を焦っているのかと、大納言に言って聞かせました。左大臣の異父兄は既に齢七十を超えている。嫡子の奈良麻呂は三十五、大納言が知名に達していることに比べれば実績の乏しい若造に過ぎぬ、そなたの力量ならどうにでもなろうと」
誰の信頼あって朝廷で重きをなしていられるか理解できるのなら、仲麻呂は叔母に従うだろう。
「おおきさきは帝の気の済むようして差し上げるか? 帝は若造が気に掛かるように見受けるが」
「本当に叛意を含むのなら、越前守でも誰でも、帝がお呼びしようと明らかにしますまい」
「おおきさきから見たら、朕も帝も甘いのだろう?」
「いいえ、わたくしも事を荒立てるよりも教え諭して平らかにする方がよろしいと存じます。帝が行き過ぎるならば、お諫めします」
幼い時から共に歩んできた夫婦は視線を交わし、微笑を送った。
孝謙女帝は越前守佐伯美濃麻呂を呼び出し、過日の宴について問うた。帝からの勅である。越前守は畏まって答えた。
「左大臣の宴の席で、臣は帝や太上天皇に対して礼を欠くような言を耳にしておりません」
「まことか」
「臣は決して偽りなど奏しません。不敬な話題など一切出ませんでした。
私が思うに、もしかしたら陸奥守が何か知っているかも知れません」
「それでは陸奥守にも尋ねてみなくてはなるまい」
孝謙が波立つ心を抑え切れぬ。光明皇太后は娘を宥めた。
「越前守が正直にお答えしたのに、帝から更に問い詰められれば、ほかに同席した者にお尋ねあれと申し上げてしまうでしょう」
口調は優し気ながら、母の目付きの鋭さに孝謙は陸奥守への喚問を取り止めた。
朝廷での遣り取りをつぶさに知った橘奈良麻呂は一人考えた。
「女帝はいまだに太上天皇と皇太后の傘の下。父や母から言われれば己が意見をひっこめざるを得ない。太上天皇は太上天皇で皇太后に頭が上がらぬ。
大納言仲麻呂は紫微中台なんて令外官を作り上げて、その長官様、紫微令だ。皇太后からの信任があると、左右の大臣をないがしろにしている。
一体この国の為政者は誰だ? おまけに独り身の女帝に後嗣はおらず、誰が次の皇位を踏むのかと思案が尽きぬ。
まつりごと、甚だ無道多し」
無論、奈良麻呂のこの呟きを聞く者はいない。
左大臣橘諸兄は、佐味宮守の密告と聖武太上天皇の温情を知り、辞任を申し出た。翌年、天平勝宝八歳二月、申し出が認められ、諸兄は隠居した。
橘奈良麻呂が謀叛を企んでいると捕らえられたのは天平勝宝九歳(七五七年)七月のことで、既に聖武も諸兄もこの世にいなかった。
『続日本紀』に橘奈良麻呂の叛乱の計画の仔細が載せられている。
「……七月二日の闇頭を以て兵を発して内相(藤原仲麻呂)の宅を囲みて殺し刧して即ち大殿を囲み、皇太子(この年の四月に立太子した大炊王)を退けん。次に皇太后宮を傾けて鈴璽を取らん。即ち右大臣(藤原豊成)を召して将に号令せしめん。然る後に帝を廃して四王の中を簡びて立て君と為せんと……」
当代は孝謙女帝であるのに、計画の中で孝謙の廃位が後になっている。
謀叛を未然に防ごうと、直前まで孝謙が教え諭す詔をし、光明皇太后までが情に訴える詔を繰り返し出している。皇太后の命令は本来「令旨」である。「詔」や「勅」を出せるのは帝か上皇に限られる。おまけ大権の象徴たる「鈴璽」――地方への伝令へ渡す駅鈴と勅書に押す玉璽――までもが皇太后の在所に置かれているのだ。
政治の大権が誰にあったのか、橘奈良麻呂をはじめ、誰もが知るところであったのだろう。仲麻呂は奈良麻呂とその同調者たちを捕らえて、息の根を止めるのに一切躊躇しなかった。
だが特例を作って権力が複雑化した有様に不安を抱き、邪な手段で得た地位で世を縦にする権力者を憎み、正そうと極端な行動を取ろうとする者を無くすことはできまい。それは古代でも現代でも同様だ。
参考文献
『国史大系 續日本紀 前篇』 吉川弘文館
『藤原仲麻呂』木本好信 ミネルヴァ書房
『孝謙・称徳天皇』 勝浦令子 ミネルヴァ書房
『橘諸兄』 中村順昭 吉川弘文館