浮音、怪物と対峙す
「――まさか、帰って来たら弟が死んでるとは思わんかったろうなあ」
明石の許しを得て、有作と土蔵へ入った浮音はたすき掛けの上、持参した聴診器を耳にはめ、そっとダイヤルを回している。件の金庫は、家庭用の冷蔵庫ほどの大きさの、この頃あまり見かけない黒塗りの外観で、土蔵の中というほとんど吹きさらしに近い場所に置かれていたせいであちこちに赤錆が浮き、銘板もほとんど字がかすれて読めなくなっている。
「牛村警部の話じゃ、偶然の解錠によろこんで、二度目の解錠テストをしようとしたところで番号を間違えたのが原因の事故死……って風に見てるらしいけど、なんかおかしいよねえ」
「こないなお化け金庫、開いたんならそのまま、二度と牙が出んように開けっ放しにしときそうなもんやけどなあ」
「それに、いつも片手を車いすのスイッチにかけてた和丸さんが、発見時は両の手を前に出したままだった、っていうのもおかしいよ。用心深い人だったって、お手伝いさんも言ってたし……」
「二度目の解錠で気が緩んで、魔がしたんかいなぁ――さて、ちょいと一服しよか」
聴診器を懐へひっこめると、浮音は有作ともども、土蔵から離れて中庭へと出た。
「――あかんなあ、ほかの音が気にかかって、全然集中できひんわ」
「えっ、なにか聞こえてた?」
ピースをふかす浮音の言葉に、有作は首をかしげる。
「いやあ、別にきみのせいやないんや。でも、普段全然気にもならんもんがこうも気になるとは思わんかったわ――」
「な、なんだい。僕がなにかしたっていうのかい」
戸惑う有作に、浮音は申し訳なさそうな顔でこう告げる。
「――実はなあ、作業を始めてからずっと、きみの腕時計の針の音がずーっと気になってたんや。悪いけど、外しといてくれへんかなあ」
言われて有作は、あ、そうか、と素直に納得し、時計の革バンドへ手をかけた。静かな土蔵の中で、ずっと浮音の背後にしゃがみ腰でいるうちに、耳元に近いあたりに腕が寄っていたのだろう――そう思った有作は時計をポケットへ納めようとしたが、そこであることに気づき、カモさん、と叫ぶ。
「カモさん、それってほんとに、僕の腕時計の音だったの? 今気づいたんだけど……」
有作が見せた腕時計を見て、浮音はくわえていた煙草を落としそうになった。見れば、有作の時計の針は、正午を過ぎたあたりのまま、ぴくりとも動かずに止まっているではないか。
「高校の時から使ってるんだ。きっと電池が切れたんだよ……」
「じゃあ、あの音はなんやったんや? まさか、こいつの音じゃあるまいに……」
帯に留めた鎖を引き、愛用の銀の懐中時計を出すと、浮音はリューズを押してをふたを開けた。シンプルな白地の文字盤の上では長針と短針が午後三時を示し、独立した秒針がカチカチと音を立てて回っている。浮音は時計をひっくり返し、駆動部のほうへ耳を押し当てて様子を探っていたが、
「違う、この音やない。テンプの音がまるでちがう――」
と、そのまま帯へ銀時計をひっこめてしまった。
「じゃ、いったいなんの音だっていうんだい。まさか、金庫の中に時計があるわけでもなし……」
有作の言葉に浮音も、それもそうやなあ……と笑って見せたが、やにわに立ち上がると、懐へ戻した聴診器を耳にはめ、そっと金庫の扉へとあてた。しばらく、浮音は聴診器の先をあちこちへまわしていたが、ある箇所で手を止めるとニヤリと笑い、やっぱりなあ、とつぶやいた。
「――こいつ、時計仕掛けの金庫なんや。中でカチカチ、テンプが動いとる。もしかすると、暗証番号そのものも、そいつによって左右されるものなのかもしれへん」
「でも、この金庫って戦前のものなんでしょ? ゼンマイを巻くような穴もないし、電源コードもないじゃないか。どうやって時計を動かすんだい」
有作の問いに、浮音は聴診器を外しながら、マントルピースに古めかしい置き時計があったやろ? と言って、
「あれはスイスのジャガー・ルクルトっちゅう会社がこさえた、アトモスって時計でなあ。特殊なガスが寒暖差で変化するのを利用して動く、いわば『永久時計』なんや。この仕組みが確立したのは、日本じゃ昭和ひとケタの頃なんやけどな。もしかしたら先々代は、日本版のアトモスを作らせるためか、作ろうとしている彼らに、出資をしたのかもしれへんねえ」
言うが早く、浮音は袂から手帳を出して鉛筆を走らせていたが、二、三枚ほど書きつぶしたところで、これかもしれへんなあ、と言いながら、金庫の正面をにらんだ。
「――四ケタの数字を三段階……。一か八か、入れてみるとするかな」
手を伸ばすと、浮音はダイヤルへ手をかけ、微塵の迷いもなしに指を動かした。一つ目、二つ目の四ケタの数字を金庫は難なく受け入れ、扉から針が飛び出るような気配は見当たらない。
「やっぱりなあ。最初のふたつは年数と日付や。しかもは表示は西暦とか年号やのうて、この銘板にあるのと同じ、皇歴でないとあかん。今年は皇歴やと、紀元二六八〇年になるんよ」
皇歴というのは、最初の天皇・神武天皇の代から数える年号表記のことで、昭和一五年には国家プロジェクトとして「紀元二六〇〇年式典」というイベントも開かれているが、今ではすっかり使われなくなっている。浮音が指さす銘板は時代を反映し、二五九六――西暦では一九三六年、年号では昭和一一年になる――と、製造年らしき数字が刻んである。
「こないに手の込んだ品や、そりゃあ、量産なんて出来やせんわな。さて、あとは時刻を入れるだけやけど……」
どうにか二つの関門を潜り抜けた浮音は、残す一つを前に、やや顔をこわばらせている。
「カレンダーの類は無事やったが、肝心の時計そのものが狂っていないとは限らへん。これでもし僕が死んだりしたら、骨だけは拾うてくれよな、佐原くん」
用心のため、電話で時報を聞きながら、浮音は覚悟を決めつつ時間を入れてゆく。やがて、四ケタ刻み、二十四時間表記の一五三三という数字の、最後の一つが入ると、把手を掴んでいた浮音の左手がすっと動いた。
「――開いたでぇ」
得意げな微笑みを顔に浮かべ、浮音はそっと把手をまわす。豊次郎叔父をして化け物と呼ばれた金庫が、鴨川浮音という源頼光の手によって見事退治された瞬間であった。
「はーん、定期的にここで調整をしてやる必要があるわけかあ」
厚さが普通の金庫の倍以上ある扉の裏側に、小さな文字盤の時計と、二六八〇、〇七二九という数字が出ているカレンダーの姿を確認すると、浮音はほっと胸をなでおろす。読みが外れていたら、今頃串刺しである。
「さて、あとは明石さんを呼んで、中身を確認するばかり……。ン?」
喜びに満ちてはしゃいでいた浮音がいきなり黙ったので、有作はどしたの、と身を乗り出す。
「佐原くん、喜ぶにはまだ早いかもしれん。この化け物、誰かがすでに手なづけとるらしい……」
意味深長な浮音の言葉に、有作はただただ、首をひねるばかりだった。




