惨劇のあった家
京都市の東北東、比叡山の裾野をはるかに拝む左京区一帯は静かな田園地帯でもあり――美術系の専門学校や大学が軒を連ねる学生街――そして、古くからのお屋敷街という趣が強い閑静な住宅地――と、多種多様な色味を持った場所として広く知られている。
そんな静かな左京区にひとかたならぬ騒ぎが持ち上がったのは七月下旬、あちこちの大学で期末試験が済んで、開放感に満ち満ちた学生がそこら中にあふれ出す時期のことであった。
「あっ、あれじゃないかな?」
「――どうやらそうらしいなあ。どら、曲がるかな……」
シトロエンの助手席で、自動車用の市内地図をひっくり返していた佐原有作が声を上げる。今出川通りから北大路を経由して、叡山電車の茶山―一乗寺間の踏切を越えたところのT字路の隅に、ペンキの香りも真新しい、赤地に白抜きで「明石家」と書き込まれた矢印型の看板を見出すと、鴨川浮音はハンドルを右に切り、線路沿いに続く道をしばらく進んでから、同じように現れる矢印を追いかけ、伊織町のやや奥まったところ、ちょうど疎水沿いの桜並木が続くあたりへとたどり着き、エンジンを切った。浮音が車を止めたのは、高低差の激しい左京区らしく、先刻渡り切った踏切の方角がずいぶんと低く見える、小高い丘の上の住宅地の路肩である。
「どうも、ここらしいね」
シトロエンのボディに身を預け、腕を組んだまま有作は屋敷をじっと眺めている。
「――これが噂の明石邸やな。まあ、ずいぶんと趣のある家やこと……」
唐破風をじっと見つめ、羽織の袂から銀のシガレットケースを出すと、浮音はマッチを擦り、ピースの煙を深々と吸い込んだ。元は赤々とした色味だったであろう煉瓦造りの外壁はツタというツタがひどくからみついて、どうにかその間から窓が覗いているという始末だった。
「旧伯爵家、明石宮こと明石家……。精密機械メーカー・アカシの創業者一家だったなんて、知らなかったなあ」
表門へ続く道を、運転用のブーツから履き替えた桐下駄を鳴らしながら歩く浮音に、有作が手帳をめくりながら呟く。
「戦時中の軍需産業への協力から、公職追放は待ったなしと言われたが、ときのGHQに取り入ってあそこまで大きゅうなった……。明石家は当時の関西財閥じゃあ、かなり強かな部類やったわけや」
よもやま話に花を咲かせつつ、御影石の門柱の前まで来た二人は、「明石」と書かれた表札の隣でいかめしい顔をさらしていた懇意の警察官・牛村警部に呼び止められた。
「やあ、鴨川の……」
「おやあ、警部さん、わざわざ本部からご出向ですかいな」
ゴリラが二枚目になったような顔立ちの牛村警部に、浮音は咥え煙草の煙をぱっと巻き上げながら話しかける。
「話題の『ご本尊』に挑もうとする迷惑な連中が後を絶たないんで、明石宮の当主が上を通じて呼びつけたのさ。こんな顔でも、たまにゃあ役に立つんだぜ?」
「ハハハ、そりゃまたご苦労さんですわ。――あ、僕らはいちおう、ご主人から直々に呼ばれてるもんで……これが証拠」
といって、浮音が懐から和紙にくるんだ西洋封筒を出し、牛村警部へ差し出すと、警部はそこへしたためられた当主の名前、中身の便箋へ目を通してから、なら問題ないだろう、と、封筒を突き返した。
「でも、気をつけろよ。ウチの関係者も二、三人、驚いてひっくり返ってやがるからな。――尾てい骨骨折で済んだのが奇跡だよ」
「――せいぜい、尻の割れ目が増えんように頑張りますわ。ほいじゃあ……」
牛村警部をあしらうと、浮音は玄関先に出ていたお手伝いに名刺を出し、冷房の効いた広い応接間へと通された。主人の現れるのを待ちながら、浮音は下駄で絨毯を踏みしだき、マントルピースの上に掲げられた、明石家の歴代当主の肖像画をじっと見つめていた。が、先々代の顔の富士額へ目をやりかけたところで、当主の来訪を告げるノックの音と、マントルピースの置時計の時報によって、浮音の観察は打ち切られてしまった。
「鴨川さんと、佐原さんですね。当主の明石豊丸です」
やや白みがかった頭髪をゆらしながら、麻の背広に開襟シャツといういでたちの当主・明石豊丸氏の登場に、浮音はいつも通り、悠然とした調子で、鴨川です、と返したきりだった。
「――お噂はかねがね伺っております。さ、どうぞお楽になすってください」
そこでようやく、有作ともども、折り目正しく編まれたベルベットのソファの上に腰を下ろすと、浮音は明石にすすめられ、明石家の特注品である、トルコ葉とヴァージニア葉をブレンドした紙巻煙草をふかし、出されたアイスコーヒーをなめつつ、本題を切り出した。
「――尾てい骨折ったお巡りさん方、どないなったんでしょうなあ」
象牙のパイプに紙巻を差し、紫煙をくゆらせていた明石が浮音の言葉に動きを止め、じろりと顔をにらむ。
「何がおっしゃりたいのですかな、鴨川さん」
「……屈強な京都府警の警察官諸氏をして、その威力を前におののく金庫とはどないなもんか、ますます見てみたいなあ、と思うただけですわ。他意はありませんがなァ」
明石家の家紋が入ったフィルターをくわえながら、浮音が明石へ人を食ったような口ぶりで返す。が、明石は怒るでもなく、温和な態度で、
「――どうやら、弟の敵討ちに適任なのは、あなたで間違いないらしい。お呼びしたのは正解でしたな」
「……まだ日が浅いとは思いますが、ひとつ、お話し願えますか?」
浮音の申し出に、多少警戒心の薄らいだ明石は、少し前にこの家に降りかかったある「惨劇」について語りだした。




