第十二話 閻獄峡ノ急『黒墨の帳に』(後編・その17)
「粂さんは、仮にどれほど信仰が薄かったとしても、それでもぼんやりと、地獄や極楽や輪廻や来世くらいは頭にあっておかしくはない世代です。まして、この村で生まれ育った人でもありません。粂さんの出自は、何らかの仏教徒であると考えられます。仏閣もなく、仏壇すらもないあのお部屋で、それでも地蔵菩薩と大日如来の信仰が見えました」
「……そうなの?」
綺羅さんが、初めて驚いたような顔を見せた。今の私の言葉が意外だったのだろう。
「お婆さんのお部屋は、綺麗に片付けてありました。そして証拠になるような物はともかく、生前の物を隠すようなことはしていないと思います。なら……あの『幢幡』の見立ては綺羅さんには解らなかったんでしょうね」
胎蔵曼荼羅地蔵院の主尊――つまりお地蔵様、その象徴の一つが幢幡。おそらくそれに気付けたのは、宝堂姉妹くらいだったろう。私だけではわからなかった。
「見立て……って。ゴメンなさい、そもそもドウバンって物が何か、私にはわからないわ」
「わからなくて当然です。私だって、あなたの家の『メズーザー』の見立て、サッパリわかりませんでした。信仰と切り離して形骸化した物は、意味をも消失します」
「……え?」
もし、地蔵菩薩の信仰があるのなら――親より先に亡くなった子が、鬼の下で彷徨う賽の河原があると考える人ならば……お婆さんの自死の「動機」は――十分に理解もできる。
即身成仏を標榜する真言宗派に、近代では輪廻の思想は避けられがちだけど、大正期までは当然のように六道輪廻が教義の根底にあった。ましてや、粂さんが菩提寺を持たないガラパゴス的な環境にあったことは容易にうかがえる。
そして孫か曾孫であろうとも、綺羅さんは粂さんにとって、あまりにも「娘」に生き写しだ。
――楓さんが一児の母でありながら、綺羅さんに酷似……それこそ、十代前半と見まがう未熟児であった事もまた、粂さんが楓さんをいつまでも子供として扱っていた可能性を窺える。
「そしてあなたが自殺幇助か、同意殺人か、そこを決めかねていました。でも、状況証拠から判断するに、幇助……が正解でしょうか」
動揺を隠せないでいた綺羅さんも、さすがに少し落ち着きを取り戻す。そう、何といっても自らの「犯行」に言及されるなら――。
「その判断に迷う曖昧な点……ブラックボックスの中で何を行われていたかを、推理で導くのが探偵のするべきことじゃないかしらね?」
「おっしゃる通りです。そこが判断できない限り、それは『推察』であって、宣言はできません。仮に腕に注射痕があったとしても、あの遺体の状態では検視で特定できません。本来ならあの状況で腕だけ乾燥を免れることは難しいとも思えます。注射後、つまり死亡後、滅菌可な低毒性の菌類を塗布した湿布でもしばらく貼っていない限り。揮発香料の匂い等でその痕跡こそは窺えましたが、断言だってできません」
物的証拠の分析を詰められない限り、結局は推論でしかないのも確かだ。たとえ綺羅さんが人に刃物を刺すことに何ら躊躇のない人だとしても、それで彼女がお婆さんの遺体から血を抜いたとも決め付けられない。
「最終的には解剖待ち……カリウム濃度等の成分分析しかないです、でも『解剖されない』ことは最初から念頭に置いていたと思います。あなたには知識がありますから」
「それほどはないわ。知っての通り、私は中卒ですらないのよ」
「院生レベルの薬学知識も綺羅さんにはあると思いますけど。乏しい知識で『解剖されれば死亡推定時刻が特定されるかも』との懸念から、自らの胃の腑を切除するよう願い出た楓さんとは大きな違いです」
そして綺羅さんはハイテク機材にだって明るいはず。
「……楓おば様は、聡明な人だったと思うわ。でも、こんな田舎に閉じこめられて外にも出られない彼女には、たしかに探偵小説を読むくらいしか、外界の知識を得る術はなかったでしょうね」
「あの回りくどいトリックは、そういった影響からなんでしょうか。まさか『本物の名探偵』がやってきて、解決するなんて思ってもいなかったでしょうしね」
「解決……ね」
「そして、そこもまた、あなたと楓さんとの大きな違いです。あなたは『探偵役』が来ることをわかった上で組み立てています」
だからこそ、徹底的に痕跡を消し、証拠となるものを廃し、認識レベルでの肯否、丁半、可か不可か、コイントスの裏か表か、それに近い『ブラックボックスに可能性を閉じこめる』構造だけを考えたんじゃないか、って。
何にせよ、限定範囲の物証、痕跡なんて、時間さえ十分あれば全て消すことも出来る。
発言の隙すらも、意識して慎重に振る舞えば隠し通せる。
完全犯罪なんて、やろうと思えば簡単だ。私はそれを過去、何度も観て来た。
綺羅さんの余裕も、のらりくらりとした態度も、全てはそこに自信があるからだろう。通常の「推理」では、彼女の裡に隠したものは、暴けない。
『偽の証拠』という痕跡を探偵に対し用意しない分、賢明だとも思う。
「買いかぶりね。第一、それじゃまるで――」
「事件がこれだけで終わらない、と宣言しているような物ですよね、これ。でも……私はその前提で発言させて貰います。あの……綺羅さん、あなたはお婆様から何を頼まれました?」
暫く黙って、綺羅さんは私を見つめる。そして、うぅ~ん、と小首を傾げた。




