第十二話 閻獄峡ノ急『黒墨の帳に』(後編・その16)
――あの時、燃え尽きてしまえば良かった。
「娘を懐妊させ、お屋敷に火を放って遁走した外国人のしでかした事件です。恨むことこそあれ、その出火で燃えてしまえば良かっただなんて、破滅願望にしては不自然です」
「楓おば様の懐妊――どうやらあなたは、力輝さんから確認してしまったようね。怖ろしい子だわ。つまり……そんなことを口にするお婆様はどうかしていた、ってことかしら?」
「いいえ。火を放った犯人が楓さんだという話です」
同時に、楓さんが座敷牢に閉じ込められる理由なんてそれくらいしかないだろう。妊娠発覚なんて、きっともっと後になってからだ。
「罪をお仕着せるに、逃げ出した異邦人なら都合が良いですし。そうでもなければ、目立つ上に行き先まで知れている外人の放火犯が、お上のお縄につかない方がどうかしています」
綺羅さんの表情は、変わらない。――やはり、彼女はそのことを知っていたんだ。
杉峰楼の人たちや力輝さん、伸夫さんたちにすら伏せられていた真相を。
「……ちょっと、わからないわ。楓おば様が火付けの犯人だったとして、じゃあその楓おば様と生き写しの私が、これから似たような何かをする、という判断かしら? 幾ら何でも、それは憶測としては酷すぎるし、探偵の推理するような話じゃないわ」
確かに。そうですよねえ、と軽く相槌をうつ。
「問題は――粂さんの望みが、その楓さんの願いを成就することだった場合です。綺羅さんは、既にお婆さんの望みを叶えていますよね」
「何をかしら?」
一瞬だけ言葉を呑み、そして――私はそれを口にした。
「……ですから、今ならまだ間に合います。届け出なかったことによる死体遺棄だけですみますし、おそらくは不起訴でしょう。だから……綺羅さんがこれから何をするつもりかはわかりませんけど、私はあなたに何もさせないつもりでいます」
私の言葉に、綺羅さんはきょとんとした顔のままだった。
「私が……何をするつもりか、ですって?」
「探偵の言葉としては、あり得ないですよね、これって」
「……そうね、さすがに意表を突かれたわ」
苦笑する綺羅さんには、これといって焦っている様子も見えない。
確かに、私は今、そうとう常識のないことを口にした。
確証がないなら、行動に出て確認するしかない。どちらであろうと、箱はまず、開けなければ何もはじまらないから。
「さりげなくあなた、今、お婆さまの一件が私の仕業だって、断言したわね」
「残念ながら、そこは誰の目から見ても間違いようのない点でしょう。ただ、今回の主犯……といって良いのでしょうか、それはおそらく、粂さん自身だったんじゃないかって思います」
「……つまり、あなたはお婆さまの自殺、と考えているのね? さっきは聞きそびれたけど、一体どうしてそう思ったのかしら?」
「あらゆる間接証拠が、粂さんの自発的行動を前提としなければ成り立たない点にありますが、その点も根拠は薄いです。……直接の死因として考えられるのが塩化カリウムの清脈注射だとして、それを綺羅さんが行ったか、粂さんが自ら行ったか、その判断も下せません」
綺羅さんの病状の一つに、インターフェロンベータの自己注射が必要な多発性硬化症が確認されている限り、注射器そのものは手元にあっても不思議ではない。
勿論、他の可能性だってある。アナフィラキシー対策としてアドレナリン注射液を常備していてもおかしくない。いずれにしても注射器は小容量で、致死量相当を水溶するには足りないけれど、心臓麻痺なら十分量はある。
そしてKCl自体は劇薬でもなし、入手も容易で、安楽死の定番でもある。血液分析でもしない限り、目視だけで死因を特定できない点も。……この辺りは、カレンさんの判断から。
そして、それらの証拠品や購入履歴を特定するには、慎重で計算高い綺羅さんのこと。既に数ヶ月が経過した今、不可能だとも思う。
……つまり、これは完全な推測論でしかないんだ。探偵なら、それだけでは動けない。
「じゃあ逆に訊くけど、九十を過ぎたお婆様が自死に至らなければならないような原因、あると思って?」
「あります。健康診断の結果……でしょうか?」
「健康そのものって診断されたわ。そこは間違いないわね。それとも、青柳先生が虚偽の診断をして、家族に隠していたって話かしら?」
「それは無いでしょう。判断を仰ぐべき相手が嘘をつくのはアウトですから。……例外もありますけど」
「本ミスならね。現実はどうだかわからないわ」
「……それでも、一つわかることがあります。あの……綺羅さん。あなたの余命はどれほどだと宣告されたのでしょうか?」
綺羅さんは、一切表情を変えることなく、涼し気な微笑のままでいた。
会社や学校でもなく、一般家庭に医師が来て健康診断をする状況なんて二つくらいだろう。お年寄りか、病人がいる状況。八幡家にはその二人がいる。
「……そうね。長くはないわ」
「だから、でしょうか? あなたより先に死にたかった。粂さんは既に一度、娘に先立たれています」
はらりと、紅に染まる楓の葉が一つ。私たちの間に落ちる。




