第十二話 閻獄峡ノ急『黒墨の帳に』(後編・その13)
「……でしたら、一つ、お聞かせ下さい」
「ん? なんじゃ、何でもゆーてみぃ」
「例の事件での、タエさんのその後のことなんです」
力輝さんから、温厚そうな笑顔が消える。
「過去の事件関係者の中で、その後の処遇がわからないのがタエさんだけなんです。さすがにお屋敷に留まることも、そもそも園桐に留まることすら困難だったでしょうし、軽微な罪すら被る立場でもなかったでしょうけど。そうすると……」
「タエさんなら……あの事件で女中を辞めて、K市の方で女給をやっとったわ。身寄りも帰る家もない人じゃったからな」
「力輝さんは、お屋敷を離れた後のタエさんとも親交があったんですね?」
「……あぁ、元使用人同士じゃしな。ワシが屋敷を離れて働いとった時にも、ちょくちょく飯やらお菓子やらくれたり、野球に連れてってくれたり、弟のように可愛がって貰ぅたわ。えぇ人じゃった……」
遠くを観るような目で一瞬懐かしんだ後、力輝さんはまた、鋭い眼光に戻る。
「じゃが、もぉえぇじゃろ、タエさんの話は。あの人もとうにお亡くなりになっとるし、何の関係もないわ」
「あ……はい、失礼しました。それと……」
「何じゃね」
その質問をぶつけるべきか。迷う。
幾ら何でも、他人の心の奥底にまで、踏み込み過ぎる。
――しかし、それは「答えてくれようがくれまいが、その反応から判断可能な質問」で、その相手が「知っているか否かを知る」術でもある、基本中の基本、もっともいやらしい、探偵ならではの質問でもある。
私には、それは、とてもじゃないけど訊けない。まだここにいるのが部長やカレンさんなら話は別だけど。……いや、
部長やカレンさんだったら、確実にこれは訊いているはずの質問だ。
どうしよう。
……数秒の逡巡。
それでも、これはしなければならない質問だ。もし、これがただの悪趣味な悪戯で終わる事件で、それだけで済む話なら、無視しても良いのだろうけど、私の中には既に、最悪の可能性もよぎっていた。
何故なら――構造的に綺羅さんは、ただ「犯人の位置」に座る存在には成り得ないから。
――踏み込まないと。
「……綺羅さんの、本当のお母さんって、どなただったのでしょうか。力輝さんならご存じのはずですよね?」
……もし、力輝さんが何も知らないのなら、「はぁ?」の一言で返される程度のものだし、それ以前に「ちょっと待って、それってどういうコト?」とこっちが聞き返されるような質問でもある。
仮に、綺羅さんから打ち明けられる等して現在の八幡家の事情に通じていたとしても「そんなこと知るわけがない」の一言で終わる話。
守秘義務があるわけじゃないけれど、「内密に」と頼まれたことを反故にするような真似は、これも勿論探偵失格でもある。だけど、この質問は他ならぬ、綺羅さんの「父親候補」の力輝さんにはぶつける意味がある――。
笑顔の消えたままの力輝さんが、ぐいっと私の胸元を掴んだ。
「あ、あのっ!?」
――くれぐれも、無茶はしないでね。
部長の言葉が脳裏をよぎる。
確かに、私は今、無茶をしたかもしれない。
……でも、
「……怯えさせてすまん……じゃが、な……」
「あ、あのえとっ」
「……あんたのようなちっちゃい子に、暴力を振るうだの、脅しをかけるだの、ワシにそんなことできゃせんわ」
ぽろぽろと、巨体の老人は大粒の涙をこぼし、私はそれでもう、何をどういって良いのかすらもわからなくなる。
「しかしな……綺羅お嬢様を悲しませるような真似はさせとぅないんじゃ。じゃから……これは、ワシからのお願いじゃ。あんた……それをどこで知ったのかしらんが、お願いじゃから……それは、聞かんでくれ。ワシにだけじゃない、誰にも聞かんでくれ……」
「……あの。力輝さんも……やっぱりご存じなんですね? 綺羅さんが、茜さんの娘さんじゃないことは」
カマかけみたいで、心苦しい。
他人の心に土足で踏みこむこと――それが、探偵……部長はそういった。でも、やっぱりそれって、私には……。
「……あぁ。八幡の家の者だけの秘密のはずじゃが、ワシには……他ならぬ、伸夫のやつ自ら、その話をワシに教えよったけぇな」
「あの。……綺羅さんのこと、『お嬢様』で良いんですか? 力輝さんには」
「……あぁ。当たり前じゃ。いずれにせよ、伸夫の娘で間違いはないじゃろ」
「楓さんに対しても……『お嬢様』ですか?」
「……あぁ。勿論そうじゃ。楓お嬢様は楓お嬢様じゃ。使用人のワシの、雇い主の娘じゃ」
「……力輝さんは、本当にそれで良いとお考えなんでしょうか……?」
「当たり前じゃ、他にどう呼びゃぁえぇ」
そのまま地面にゆっくりしゃがみ込み、力輝さんはうつむく。
「……楓お嬢様は……お綺麗で、優しゅうて、たまに意地の悪い、面白くてねじくれた娘さんじゃったわ。使用人のワシを、よう可愛がってくれてなァ……。伸夫のヤツは、それが妬ましかったんか、よぅ糞意地の悪ィ真似をワシにしてきよったわ。まぁ……それも餓鬼の頃の話じゃ。今となっちゃぁ、どうでもえぇ」
「……楓さんが、あなたの母親だと気付いたのはいつでしょうか」
「……知らん。そんなわけなかろう。阿呆なコトゆーたらいけんよ」
「では、質問を変えます。あなたにその話を最初にしたのは、いつ頃、どなたが、でしょうか?」
一瞬の沈黙。それでも、巨体の老人は、渋々とその言葉を吐き出す。
「……じゃから、伸夫じゃ。さっきもいった、その時にな。そんな馬鹿な話、あろうはずもないわ。露とも思いもせなんだわ。どうせ嫌がらせじゃ、出任せをぬかしよるんじゃと、あの時、初めてあいつを殴り倒したわ」
遣る瀬無いような口調で、自嘲気味に老人はその言葉を吐露した。
……そう。考えたくもないような「可能性」を、力輝さんは耳にしてしまったのだ。




