第十二話 閻獄峡ノ急『黒墨の帳に』(後編・その4)
「そこは……どうかしら。そうなるように何かを仕込んだなんて、断言できないわよね」
そういって大子さんが首をかしげる。
「痕跡が『ない』ことこそが痕跡……では、さすがに強弁が過ぎると思う」
そういって福子さんも首をかしげる。
うん。この双子はやっぱり真面目で常識人で、こうして私やカレンさんのように「突っ走り気味」な考えにちゃんとブレーキをかけてくれる。だからこそ、改めて見えてくる物もある。
「ですよね、よく考えられてます」
「だから、巴ちゃんのその考え方も、もうおかしいと思うの!」
えぇ……?
「……いやいやいや。あの状況下、他が問題ないのに一部だけ、しかも表層面のみ腐る方がやっぱ科学的には異常だよ。断言もできないとはいえ、高確率で何かやった痕跡って考えるのは妥当かな」
「そこですけど、カレンさんはそう思うでしょうが、警察やお医者様はどう判断するでしょうか」
私の言葉に、カレンさんは小首をかしげる。
「……そこは、妥当に考えて変死体扱いで解剖……と思うけど?」
「年間十何万かの変死体のうち、司法解剖にまで回される遺体の割合はかなり少ないとききます」
「ああ、3、4%かな。事件性と結びつくケースはそれだけ少ないって話だけど。でも今回のこれは明確に――」
そんなに少ないんだ。
「第三者の手の入った異常死体。その可能性を検討しているのは今のところカレンさんや私たち『だけ』で、そして証拠も決定打も出せていないんです。意見として聞き入れてはくれるかもしれませんが、遺族と担当医と初動で検分した警官が事件性を認めなければ、……ようは『大ごと』にしたくなければ、これは闇に葬られてもおかしくはないと思います」
「ああ……確かに、そうか。日本じゃなぁ……保土ヶ谷事件の例もあるし、法医学に関しちゃ発展途上国だもんな、この国は」
いやまぁ、そう極端な例を出されましても……。ともかく、
「死体遺棄罪にしても、敬虔感情を保護法益に――つまり、『死者を粗末にしないように』って目的の罰則ですから、丁重に扱われていたなら不問に出来ます。今のところ事件性を認められる点はそれこそ年金の不正受給くらいでしょうか。それだって、返還すれば済む話ですし」
「……つまり、これって『事件』にはならないって、巴ちゃんは思ってるの?」
「でも、万一これが殺人だったら……」
大子さんと福子さんが表情を曇らせる。
殺人――その場合、さすがに見ず知らずの「勝手に忍び込んだ第三者」の犯行とは考え難い。誰とは口に出さなくても、この場のほぼ全員が、彼女の事を思い浮かべているのは間違いなかった。
「正直、その可能性はゼロだと思います。あるとするなら綺羅さんの手を借りての自殺幇助くらいでしょうか。あの、カレンさん……外因死かどうか判断できない自決方法って、ありますでしょうか?」
はっきり綺羅さんの名前を出しても、当然先輩たちに何の動揺もない。……うん。私には、自分でそれを口にして、ちょっと気まずい思いもする。
「――そうなると……アレかな。安楽死の定番。機材だってあるはずだし、何より扱い慣れている可能性も高い」
扱い慣れた機材――医療器具、か。カレンさんはカレンさんで、お手伝いさんたちから聞いて、綺羅さんの病状を既に特定していたようだ。
「可能性はゼロって……そこは、どうなのかしら?」
「大子さんたちの方が、そこは理解していると思ってましたけど。即身成仏の千日行や十穀断ちとまではいいませんが、粂さんの自発的な協力がなければありえない遺体状況だったかと」
「……入定? まさか、そんな」
「あぁ……絶食ね?」
今度は双子姉妹が、同時にハっと気付いた面持ちで顔をあげる。
「うん、手足よりよっぽど腐りやすいはずの、臓器の腐敗がほぼ見られないってのは確かにおかしいんだよ。絶食っていうか、死亡直前の節食はほぼ間違いないと思う」
カレンさんの分析に、宝堂姉妹も何か思い当たるような表情を見せる。
「……確かにそうね。独居老人の衰弱死なら、表情が違うもの。後から弄って整えられないわ、死後硬直もあるし」
「苦悶を浮かべるか、もっと覇気、生気の無いお顔よね。ご遺体に対して生気がどうこうっていうのもおかしな話だけど……」
見慣れてる二人が即座に断食へは思い至れなかった、という点。ここも。少なくとも餓死を促す虐待や放置はされていなかったとも思う。
「胃腸の内容物だけ無くして、かつ意識もハッキリ保てて行動も取れる状態にあったとすると……どういったケースでしょう?」
「ブドウ糖の摂取とかかな? 長期に渡る絶食じゃなく直前の一両日ほど、それと下剤の併用とか、遅効性の胃酸中和剤とか。他にも、防腐に効果ある何かを飲み込んでたかもしれないし。極めて合理的な方法が考えられるね」
……う~ん。
自分でいっといて何だけど……そうなるとこれはこれで、かなりおかしな話だよねぇ。
「まあ『ミイラ化』じゃなく、本当の意味での『木乃伊』ってのは……さすがに冗談が過ぎると思うなぁ。理由と意味がわかんないよ」
「ですよねぇ……私も、理由がまったくわかんないんです」
「お婆さんに、信心があるのは辛うじて見てとれたけど……かといって僧籍でもなし、即身成仏じゃないのも確かよねえ」
「そこも……私には『仏壇の見立て』は理解できましたけど、大子さんと福子さんが大日如来とおっしゃった理由までは……」
そこは、もしかすると宝堂姉妹が自分たちの見慣れている仏具に擬えて認識しただけかもしれないけど……。仏壇の形態はどの宗派だって大差ないのだし。密教という根拠は薄い。
遺影に見たてた写真……お供えを置くことで簡易な仏壇と化す、あの家で唯一の生きた宗教儀式の痕跡があれだけだった。徳夫さんのカバラの秘術は、とうに形骸化し、信仰する者すらあの家には一人もいないのだから。
「うぅん、そこは間違いないと思う。オン阿毘羅吽欠娑婆訶が刻まれてたもの」
※「オン」は本来は「口偏に奄」の漢字です。
「……えっ? 気付きませんでした」
「うん、無理もないわ、梵字だもの。いくら巴ちゃんでも読めないわよね」
「ああ、だから幢幡と……。てっきり『お供え』で地蔵尊という認識かと」
読めなくはないけど……私の知らない書体だった。そうなると、一択じゃないですか、信仰。
「あーっと、君らまた宇宙語で会話してる!」
「まあ、ここはカレンさんに説明するのは中々大変というか……」
「だいたいさ、宗教とかよくわかんないけど、それを根拠にするには、写真立てが犯人に弄られていないとも限らないんじゃないの? かく乱のための誤情報とか」
「その可能性は今のところ、考え難いです。うっすらと埃がお供えに被っていましたから、生前から、あるいは生前状況を再現したまま数週間以上経過した物でしょう」
「埃って、重要?」
「もしこれが腐敗し易い果物や霊供膳なら片付けていたでしょうし。個包装された菓子だからこそ残していたと考えるのが妥当です」
だいたい「神経質な探偵」が来る事を予期して、偽装で置いたと仮定しようにも、あの埃の量からすれば、私たちがここに招待されるより、ずっと以前から存在したことにもなる。いずれにしたって、あんな物で誤誘導はできないだろうし――。
ん?
もし 誤情報を置くとするなら――?
「……巴ちゃん、何か気がついたの?」
大子先輩が私の顔色に反応する。
……うん、いや、まだこれはちょっと早急な考え方かも。慌てて、誤魔化す。
「あ、いえ。……それにしても、あれだけちぐはぐな宗教観の家でよく暮らせてましたね、粂さん」
「でも、私たちだって仏教徒だけど平気でカトリックの学校に通ってるわよ」
「それもそうですけど……」
ともかく、粂さんの宗派は気になるけど……あの死亡状況はあまりにも意味不明だし、無動機の犯行にしては凝り過ぎているし、そもそもそれを犯行といって良いのかどうかすら、わからない。
もっといえば、「探偵の出る幕なの?」とも思う。
勿論、自殺幇助なら立派に犯罪かもしれないけど……そこにしても、決定打に欠けるというか、ようはブラックボックスの中だから、推理、推察で答えなんて出しようもないだろう。
いずれにせよ、同意殺人は無い……とは思う。私がそう「思いたい」ってだけのことだけど。
思いたい、って時点で、確かに私は探偵失格なんだけど。




