第十二話 閻獄峡ノ急『黒墨の帳に』(前編・その31)
さすがに話が衝撃的すぎて、福子も動揺を隠せない。
「あぁ……。ようは、綺羅さんに色目をかけたら、タイプじゃないってことで刺されたんですね。見た目によらず、激しい人なんですね……ちょっと意外かも」
うん。あの飄々とした感じの綺羅さんからは、あまり想像がつかない行動に思える。
「いやいやいやいや。いや、まあそうかね、どうだろうなァ。可愛いは可愛いで確かじゃないの、あの子。まあ、年齢だって近いわけだし、それくらいの話はするでしょ。俺にしてみりゃ、あくまで妹みたいなモンだよ? べつにエッチなコトしようとしたわけじゃなしさ。しそうなタイプじゃないでしょ? オレ。メチャクチャだよ、ほんと」
しそうなタイプに見えるかどうかに、何か口をはさむのはさすがに失礼なので福子も口にはしない。
それより、年齢が近いという話に驚いた。
「その件以来、どうもその……綺羅には苦手意識がね、わりと避けるようにしてっから。同じ屋根の下で暮らしてて、それってやっぱ気まずい話なんだけどねー」
まあ、一つ屋根の下というには広すぎますし、会わないで生活だってできそうですけども。その点は綺羅さんには幸いだったかも。
「だからサ、うちに泊めてたヤツにもその点はちゃーんといっといたのよ。幾らあの娘が可愛いからって、風呂覗いたりパンツ盗むとか絶対すんなよ、刺されるから、って」
そういって、ヘラヘラ笑われても、福子には相づちすら難しい話。困る。
というか、「泊めて」って表現で良いのだろうか、二ヶ月って期間は。
「まァその後輩のバカも、うちにいる間になんとかネットで派遣の働き口見つけて出てったけどね。まあ、そんな程度の話だよ。とりたてて大騒ぎするようなモンでもないから」
「……あの。馳夫さんは、この家を出て独立しようとは思わなかったんですか?」
「ハハ、厳しいコトいうね。三流大学を出たのは出たけど、なにぶんこのご時世だろ。就職口がなくってね。小金はあっても、ろくなコネねーんだよ、この家じゃさ」
あ、働いてない人だったのか。
「つまり八幡家は、園桐の外にまで大した影響力はない、ってことかしら」
先程の、伸夫さんや父親と縁のある農協や不動産関係もダメだったのだろうか。
「そそ。いや、土地こそはあるんだけどね。金にこそなってもコネにはなんねーのよな、結局。まァそれに、親の財産食いつぶして、都心に出て遊んでるってワケにもいかないでしょ。たぶん『仕送りして』っていったら、親父なら家賃生活費まるごと毎月分出すだろうけどさ、それってさすがに、駄目でしょ。大人として」
「立派な心がけだと思います」
けど、このゲーム機だらけの部屋をみるとどうなんだろう、大人として。いや、人の趣味に貴賤なし。稀覯本や美術品のコレクターは許されて玩具やアニメ等のサブカルチャー趣味は幼稚、というわけでもない。ゲームだって立派な文化だし、ゲームのプレイを仕事として収入を得ている人だっている。とはいえ、タコ足配線に埃まみれの機械をみると、集めるだけ集めても大切にはしていなそうで、この感覚は福子にはちょっと理解できない。
大卒で就職先が決まらなかったというのも、それだけ企業にアピールできる長所もスキルもなく、就活にも熱心でなかったということで、お調子者で明るい感じではあるし、悪い人でもないのだろうけど、ようするに要領の悪い人なのだろう。
何だかんだで実家が金持ちなため、何が何でも就職せねば、というような、焦りも執念も無かったのかもしれない。有閑といえばそうだし、臑齧りといえばそれまでになってしまう話かも。
ともあれ、程々に裕福でそこそこに優等生で八方美人な、競争意欲も何もない自分たち姉妹も、他人事ではないかもしれない、肝に銘じておかねば、と福子も思った。
「まあでも、こういっちゃ何だけど俺、在宅で結構稼げてるから。FXで、最低限親にたからないで飯代も家賃分も家に入れてられるし。親父の仕事の手伝いだって、ちゃーんとやってるからね、あの人パソコンろくに使えないし。いずれにしたって、決まった時間にネクタイしめて電車に揺られる生活なんて、できっこないんだわ、オレは」
ヘラヘラと笑いながら、馳夫さんはミルクフォーマーから泡だてたスチームミルクを注ぐ。一体型で、これって何十万円かする機械じゃなかったかしら、と感心する。個人が部屋に置いてて良いような物じゃないと思う。
「あ、どうもありがとうございます」
手慣れた感じで注がれたエスプレッソが二つ、テーブルの上に並ぶ。ペコリと頭を下げて、福子がカップの一つを手にとると、いつ仕込んだのか、泡の上にはクマちゃんの絵が描かれてあり、つい苦笑する。
喜んで貰えて嬉しいよ、とばかりに、無言で馳夫さんがウィンクする。うん。悪い人じゃないんだろうけど、なるほど。
刺しちゃうとか暴力とか、そんなのは絶対に肯定も共感もできないことだけど、綺羅さんの気持ちもほんの少ーしだけ、理解できた気もする。




