第十二話 閻獄峡ノ急『黒墨の帳に』(前編・その5)
ふと。もう随分と長く塀の周りを歩いていることに気がついた。上から見た以上に、実感として大きな家のようだ。ビニール菜園が広域に広がっている中に続く、古びた黒板の板塀。それがどことなくシュールにも思う。
その板塀の向こうには、櫓状の塔が二つしか見えない。家自体は平屋か、精々二階建てだろうか。
「温泉の関係で、積雪も多い高地なのに、窪地の内側は温暖で、江戸時代から季節外れの野菜や果物を卸して来た土地なの。堺や京にも卸していたと聞くわ」
「ビニールハウスが多いのはその名残ですかね。独立峰の岩山に囲まれた中だから、天候の影響も少なかったんでしょうね」
技術的なことには関心があるのか、さっそくカレンさんも話に食いついてきた。
「何にせよ稲作に適した土地じゃないものね。他には養蜂、養蚕あたりも盛んだったそうよ。養蚕はもう絶えてしまったけど」
「そんな時代から、そんな農法を?」
園桐産なんて聞いたことがない。
「名前を出せる土地じゃないのよ。ここは『縁切り村』とも呼ばれているのよ?」
「……どういったいわくで、そんな呼び名だったんでしょう?」
おそるおそる、私もそれを訊いてみる。
「他所から来た人に教えられるわけないじゃない。呪われた土地の由縁なんて」
綺羅さんはニッコリ微笑んだままだ。
この人は少しその、なんていうかその……。
「……なぁんてね。土地の者でも、今では由来の意味を知る人はいないわ」
「なぁんだ……」
「うち以外は」
「……」
ほんとうもう……。今ひとつ掴めない人だ。黙って縮こまっている私に、綺羅さんは優しく微笑みかける。
「忌み事ってね、隠して、口をつぐんでいるうちに、本当に忘れてしまうものなのよ。まして何世代か過ぎてしまえばね」
「それでも、八幡家では代々伝わっている、ってことかしら……」
大子さんも少し首をかしげる。あのお堂を見た後では、色々疑問に思うのも仕方ないだろう。
「そんなの、本当かどうかわからないじゃない? 自分の家や村に都合の悪い物なんて、いつまでも残しておくわけがないでしょ」
「ええっと……じゃあ、残ってるのか残ってないのか、一体どっちなんでしょうか?」
「それを考えるのも探偵さんの仕事。誰が嘘をついてるか、何が真実か。パズルでもあるじゃない?『嘘つきのパラドックス』って奴だったかしら」
う~ん。
「それは探偵の仕事とはかけ離れてるんじゃないかなあ、って。数学者の領分ですね。証言の真偽判定も数学ですよ。単純なものなら負、除積の計算式でほぼ解けます。人の会話と思うから複雑に思えるだけで、正数とそれ以外に置きかえれば、簡単です」
私のこの言葉に、得意分野なせいか、カレンさんも饒舌に語る。
「うんうん。それは正確にはパラドックスとは違うけどね。論理パズルによくある、嘘つき村の住民とか、嘘しかいわない悪魔ってヤツの方がわかり易いかな。見た目は正直者と同じ。さて、どちらの証言を信じるか? だね」
「ええ。パラドックス――逆説を扱ったものでは、クレタ島出身の哲学者エピメニデスが『全てのクレタ人は嘘つきだ』というのが代表格ですね。それは現代の論理学ではもうパラドックスじゃないですよ。何故なら、『全ての』の否定語は『一部には』ですから。一階述語の式に直せば、こう……」
ド・モルガンの法則をあてはめれば、どうということのない話。
と、その数式を地面にザザっと、小枝で描いてみた。
綺羅さんだけでなく、探偵舎の全員が目を丸くして私を見つめた。
「……スミマセン」
また勉強の話になっていた。赤面する。
何故か(何故か?)言葉を失っていた皆さんの中で、いち早く私に助け船を出してくれるのは、やはりカレンさんだった。
「ま、簡単にいえば全否定か全肯定かに迫る誤誘導へ導く詭弁って話ね。みんなついてイケてる? イケてない? いやいやいやいや、まーそーゆー所も巴の面白い所だから。どう? 綺羅さん。この子なら多分、何でも解いちゃうよ?」
「恐いわね。哲学なら帰謬法、背理法ってとこよね」
カレンさんにそういって、楽しそうな目を綺羅さんは私に向ける。
「ああゴメン、哲学とかだと私わかんない」
ああうん。まあカレンさんだとそうなるか。
「いえ、ええっと……ロジックパズルとミステリーは、近しくて別物でもありますから。何故なら『嘘をつかない人間はいません』し。絶対に嘘をつく・つかない、そういった前提条件は人の証言には存在しなくて、論理学の証言の正……」
「いや、そこはもういいってば」
苦笑しながらカレンさんが両手を振る。同じく苦笑……なのか、普通の顔なのか、微笑みながら綺羅さんが、私にまっすぐ目を向ける。
「そうねえ、たとえば。さっき私がいったでしょ。うちには八幡家の者の一部しかしらない、『秘密の地下通路がある』って」
「……にわかには信じられませんけど」
「そう。それ、ホントにあると思う?」
「……ウソなんですか?」
「さぁ? どうでしょう」
うぅ……。
間髪を入れず、部長が声をあげる。
「ちょっとお待ちになって。もしあなたの先ほどの話が嘘でしたら、巴さんの推理は、」
「ん~、部長。そこは、別に地下道でなくても良いんじゃないでしょうか?」
大子さんが即、フォローに入る。
「巴ちゃんは、ただ単に『住民に目撃されないルート』を想定していたはずだもの」
「は、はい……」
「そこで綺羅さんが、あんなことをおっしゃったから、抜け道があったんだ、って私たちも思いましたけど……」
うん。まさしくそれは誤誘導。それが誤、なのかどうかも、まだ確認はできていないけど。
別に隠し通路じゃなくても、これだけ広い家で、塀で囲まれているなら、裏門あたりから遮蔽物に隠れて、人目を避けてさっきの山道入り口まで出られるルートも、もしかすると当時はあったのかも知れない。
初代部長が「確認」に来たのは、それを探してのこと……と考えれば、まあ、あながち荒唐無稽な話でもないような。
そして、ここにきて綺羅さんの「証言の信用性」という問題が出てしまうと、先ほどの「答」ですら、疑わしくなってくるけど。
やれやれ、とばかりにちさとさんも、嫌味めいた笑顔を綺羅さんに向けた。
「一杯くわされたって話かしら?」
「どうかしら。例えば先程のB、C、Dの話。とりわけ、Cの場合ね。その保留された『理由』には、何を代入しても、推理そのものには支障を来さないはずよね。『手法』や『過程』でも同じことをいえるんじゃない?」
式と代入……うん、まあ確かにそうだけど。
「……いいえ。『結果さえ合っていれば過程はどうでも良い』なんて考えは、探偵に死ねとおっしゃるようなものですわ!」
「あの、部長。それはやっぱり大袈裟なんじゃないですか……?」
そう突っ込んではみるものの、……うん。わかるけど。
部長のスタンスは『それ』だから。
初めて会った時に、ちさと部長が口にした言葉を思い出す。
この世には「結果」しかない。その結果に至る「過程」を、推察し、理で導くことこそが、推理である――。
探偵の活躍すべきフィールドやスタンスもそれぞれ違うとは思うけど、ちさとさんにとって今の話は容認できない物だとは思う。
幾多の可能性が考えられ、幾多の「推測」が提示できたとしても、事実は一つしか存在しない。その一つに辿り着くことこそが推理であり、どうせ正しい結論には至れないのだからと、数多の仮定を並べ、好きな物を「真相」として選べば良い、という考え方は、もはや推理ではない。――これは「未解決事件」を巡るゴシップ媒体には、ありがちなこと。
つまり「探偵」を名乗る立場ならば、推測憶測で納得してはいけない、という強弁でもある。これは、私には少し耳に痛い話。
「う~ん、私は……『ひとまず、これは横に置いといて』って、過程の一部を除外して考えるのは、よくやりますね」
仮説、考察、その論証。推論を行うことが私の姿勢で、そんな意味では私は部長のいう「推理」をしているわけじゃない。そもそも探偵でもないのだし……。
「だから、私は巴さんのそこが気にくわないのよ。憎ったらしいといっても良いわね」
「うぅっ……」
「あらあら。下級生いじめ? たのしそう」
「愛でてますのよ! 今のは先輩としての愛情表現、軽口ですの!」
「そ、そうだったんですか」
「巴さんがそこで疑問視しては私が本当にイジメてたみたいになっちゃうじゃないの!」
あはは……いや、まあ、うん……。




