第二十五話『私の中の暗黒は』(後編・その6)
EXTRA EPISODE 25
「最悪ですね」
「あぁあ、ひでぇなコリャ」
刑事の棚橋は顔を顰めた。この犯人が現れてからはもう定期的な事とはいえ、たとえそれが仕事であれ、こんなモノに慣れようもないだろう、と横で前島も思った。
「今月、二人目かいね。おっと……」
足元に吐瀉物があり、踏みそうになって慌てて足を上げた。
「二人目っていっても、ひとつはお古ですからね。あ、そのゲロさっき来た鑑識のヒトのです」
「鑑識が吐いてどーするんね」
「僕だってもう、かなりダメですよ。ホント、もう、どうにかなんないんですかねー」
どうにかするのが俺らの仕事だろうによ、とでも小言を口に出しそうな表情を一瞬だけみせて、棚橋は無言のままでいた。実際問題どうにも出来ていないのは事実だ。
手前に放水路を望む川岸の、芝生の続く防災区間。遮蔽物は周囲には一切見当たらない。こんな所を堂々と現場にしたのだろうか。棚橋の来る前に、あらかたの遺体やその破片は片付けられていた。片付けられてはいても、それがどんな状態だったのかは、周囲にたちこめる悪臭だけでもイヤというほど判る。
いつまでも薄れないヘモグロピンと糞便の臭い、腐臭。胃液臭もする。ほうぼうに線が引かれ、黄色いテープが張られ、衝立がたっている。野次馬避けすらも一苦労だ。一体何箇所に刻まれたのだろうか。
「だいぶ腐敗も進んどるようじゃね」
「今回のは、まあ、細かく千切られたんじゃーないようですよ」
「そうなん? ようけ張っとるけど」
「引っ張り出されてたんですよ、腸とか」
「わァ、ああ、ウン、続けて」
「見ますか写真」
「いやいいから」
目撃情報もない。朝の五時前に、新聞配達の青年が発見し通報したらしい。通報者の失禁の痕跡がある。晩から早朝にかけてこの近辺を通った歩行者は極端に少ないはずで、市内中心部から大きく外れたこの場所では、長距離トラックの運転手くらいしか夜間に通過した者はいない。彼等の誰か一人でも犯行に気付けなかったのだろうか?
――まあ、無理だな。自分がドライバーだったら街灯の一つもない河川の人影など、目に入るわけもないか、と前島もすぐに思い直す。
何でもない何にもない河っ原にいちいち目をやって克明に覚えていられるような奴なんているわけもないだろう。
最初の通報以降は何をさておいて報道陣との戦いだった。現場を荒らされる前に保全しなければならない。
既に、時期的に目星をつけて、幾人もの「善意の第三者」がスマホやデジタル一眼を片手に市内中をウロウロしている。そんな意味でも、逆に犯人にとって動きはとりにくくなってはいたはず。
――そんな甘い予想は、簡単に覆されたが。
最初に警官が来た時点で、既に十数人の一般人と自称フリーライターが集まっていた。何人かは口から泡を吹いて気絶し、救急車の出動を要請した。顔色の良い者は一人もいない。しかし、どれだけ気が動顛しようとも、シャッターを切ってちゃっかりと写真を出版社やテレビ局に売りつけたり、インターネット上に流したりはしていたようだ。
朝のワイドショーでは初動の鑑識捜査員が現場に赴くより先に、既に特番が放映されていた。定例ともなれば素材から何からきっちり用意されていてもおかしくはない。去年の春から既に一年以上。完全に警察はこの狂った犯罪者から弄ばれているようだ。マスコミからも一般市民からもそれは同じだったが。
被害者は恐らく、生きたままの状態で腸を引きずり出され、刻まれ、最初に喉を声帯ごと切られ、悲鳴すら上げられない状態だったのは、これ迄に何度か見た手口と合致している。いや、そもそもこの一連の事件との同一犯ではない可能性など考えようもない。
気管から飛び散った血が、そこいら中の草を黒く汚している。まるで血まみれの被害者を抱えてダンスでも踊っていたかのようだ。手口は毎度同じく、致命傷を与えずにじわじわと殺している事が判る。首の近くや腕の一部、性器、腸の一部は噛み千切られている。一部はチューインガムのように咀嚼して吐き出した痕跡もある。
「被害者は坂上秀一、四十八歳。この近くの事務用品会社に勤務しています。身長百七十で体重八十二キロ、まあ大柄な方ですね」
「まあ、犯人はいつもので間違いないねぇ」
いつもの、といってのけてから、棚橋は自分で自分の言葉に顔をしかめた。確かに、いつもの、で済まされるような事件ではないだろうと前島も思う。思うだけで、言葉には出さない。
普通に考えてシリアルキラーは自分よりも弱い者を狙う。女性、子供、性欲のはけ口に狙われるのもその辺りで、さもなくば老人。
成人男性を狙うタイプのシリアルキラーならば金銭絡みのケースが多い。しかし、物取りの可能性も殆どない。今回も財布が残されていて、クレジットカードはおろか十数万の現金もそのまま入っていた。被害者が殺される事で利益を得る者の洗い出しをした所で、全くといって良いほど重なる者は居ない。
快楽殺人と考えるなら(考えるしかないが)この一連の事件は犯人像が想定し難い。腕力に自信のある大男なのか? 格闘技経験のある者か? 元力士? レスラー? 警官とか自衛官?
視界いっぱいに広がるのは、何十台ものパトカー、報道の機材車両、野次馬。いい加減嫌気もさす。前島にはそもそもこの事件にも野次馬にも理解が出来ない。
殺人事件とは普通ならば縁故の物であり、感情に駆られての衝動殺人と計画殺人、または金銭や利権に絡んでのケース、大抵の場合それらは被害者の人間関係を手繰れば片が付く。
不自然でない殺人はあり得ない。自然死にしか見えない殺人の場合はそもそも自分たちにお呼びはかからない。勿論、偶に凄まじく不自然な「事故死」「自殺」も報道される事はあるが、「ああ、そっちの管轄で何かあったんだな」と見て見ぬフリをする程度には警察もまた、適当な所もあるけれど。
不自然なケースで、誰に利益をもたらすかを追求すれば、大抵の場合どんなに念密に仕組まれた犯罪でも暴くのは簡単だったし、一時の感情に駆られて殺害したケースでも、犯人がその後にどう死体を処理するか? で明暗は分けられる。素直に自首するか、犯罪行為を隠蔽する為に稚拙な工作を行なうか。
死体が見つからない限りは大抵の場合それは犯罪として問われない。警察の仕事はその死体がどこかから発見されて以降の事で、一たび発見されれば余程の「何か」がない限り、矢のような速度で必ず犯人を暴き出す。
……と、そういった職業的矜持は、少なくとも前島にはあった。
既に時効になっているか、損傷が激しく身元確認が不可能なケース以外、前島は一課に配属されて以来、関わった事件の殆どを解明して来た。
現実の犯罪に不可能犯罪はあり得ない。現実に目にする殺人とは常に陰惨で、そこには間違いなく人の激しい感情の痕跡がある。整然と理知的な工作の行なわれた現場などほぼ見た覚えはないし、人が人を殺す状況に冷静さなど存在しない。
事故や過失であれ、頭を打ってポックリ逝った物であれ、隠そうとしても工作を行なおうとも稚拙な感情の痕跡は必ず見つかる。人が人を殺す行為とはそもそもが「異常」な事であり、「異常」な状態に感情の痕のない物は存在しない。勿論、この「異常犯罪者」の現場でもそこは間違いない。しかし。
どれだけ死体を見慣れようとも人一人の命はやっぱり重い、と常に遺体を見ては感じるし、手も合わせる。恨みであれ強欲であれ畏怖であれ欲情であれ、その対象にされ、肉塊へと化した人間の残骸には幾多の形容し難い「感情」の跡が渦巻く。
だからこそ、一切無縁な相手に対しての「快楽殺人者」で「連続殺人者」は、前島には理解が出来なかったし、隠蔽工作の為ではなく「愉しみ」の為に派手に死体を刻み、弄ぶ犯人の神経はまったくわけがわからなかった。
そこに在った感情の痕跡は、ただただ意味不明な「愉しむ」為の歓喜と情交、被害者の苦痛と苦悶、それ自体を愉しむ為に仕組まれた幾つかの拷問の様式であり乾いた狂気のみだった。何度現場を見ても、この無残な凌遅刑は人の行なった行為には思えない。
棚橋は、散らばる死臭を誤魔化すように、ユーカリフレイバーのフリスクを二粒、指で箱からトントンと叩いて取り出し、口に含んだ。数年前に双子の初孫から「お爺ちゃん、おくちくちゃーい!」「くちゃーい!」といわれて以来、仁丹を口にするのは辞めた。子供たちにとってそれはテレビで見て得た些細な冗談とはいえ、棚橋に相当のショックを与えるのに充分だった。
この殺人の根底にある物は何なんだろうか? ――そう考えに耽るような仕草をしながら、初老の刑事はフリスクをコリコリと噛み、腕を組む。実際にはこの上司、何も考えていないのかもしれないな、と最近では前島も思うようになってきた。
「被害者の状態もですねえ、もう、何処までが犯人によるものか、ちょーっとわからない状態で」
「ん、現場いじられちゃったの?」
「いじられちゃってますね、カラスに」
「あぁー」
虚ろな声でカラスがギャアギャアと啼く。
「目玉の片一方がどうしても見つからんのですよ。周囲に嘴で突付いた跡があるんで、恐らくはカラスがほじって持ってっちゃったんじゃーないかと思うんですがね」
「……浮かばれんねぇ、そりゃぁ」
もう片方の眼球は押し潰され、眼窩から精液が発見された。
To Be Continued




