第二十五話『私の中の暗黒は』(後編・その5)
独身男性の無味乾燥なアパート。
文机と衣装棚、書棚。
女性と並んだ若い頃の写真立てが一つ、棚の上にあるぐらいで、あとは何もない。
家庭や家族の事はお互い詮索しない。何かわけありなのはわかる。
そこでとりとめもなく話をする。シュメール語と文明伝播について。中東、アフリカの情勢について。最近のお笑い芸人について。
気がつけば夜中で、吉里と布団を並べて寝る。私が幼児だから良いようなものの、そうでなければ淫行同然よね、過剰なスキンシップなんて――そう、寸分違わず同じ軽口を叩いた事も。いや幼児だからこそ余計にアウトかも。
窓の外の満月を眺め、そんな風に楽しく話をしていた丁度その時間、そう遠くない場所で、殺人鬼はどっかのハゲを刺し、刻み、喰い千切り、ズタズタのバラバラにしていたのだろう。翌朝のニュースまで知る事のなかった話だけど。
フォグランプも消した六畳間、天井と、窓の外の光だけをぼうっと眺めていた。
眺めて──何を?
寝息は聞こえなくて、幾度か先生に『寝てる?』と問いかけて、その都度『寝てますよ』と返答され、クスクス笑いあった。
空っぽの部屋に僅かにあるのは、児童の作った粘土細工の埴輪、教材の紙たば、ズボンプレッサー、小さな瑠璃の壷……部屋の様子が克明に頭に刻まれてるのは、その時ぼーっと眺めていたからで……。
ハッと気がついた。
完全な闇なんて、暗室でも作らない限りそうそうあるものではない。
周期殺人は満月の夜。月明かりは煌々と、常にさす。星と月の夜は闇ではない。夜目に慣れれば見通せる。
馴れなければ?
何もみえない、わからない。懐中電灯でも、あれば取り出そうとするだろう。
暗視スコープ、電源を落とす。不意をつく、近付く。
同じ手口は踏襲しているはず。
駐車場が現場? 表じゃないか。悲鳴をあげて逃げられる可能性がある。室内の方が確実だ。ウツボカズラが蠅を呑むように、灯りを落とした事務所の中がきっと現場で、駐車場はそこから出る過程で血痕でも散った、あるいは意図的に散らせた……?
もしそんな現場があるとして、その現場を『私が』目撃できていた、とするなら、どうだろう。どうやって?
こっちも暗視スコープ装備? 現実的に考えればそうだけど、私にそんな物を買う余裕はない。
仮に手元にあったとしても、いちいち持ち歩くには荷物になるし、そもそも灯りが落ちる前からそんなものを身に着けていては『警戒』される。――警戒? 誰に? 犯人に?
いや、『目の前にいる被害者』にだ。……事前に潜んで、隠れて、機を窺うなんて、この現場状況では無理。被害者と顔なじみがあり、「承知の上で近づく」しか無理。この場合、「殺人鬼の裏をかく」事になる。
なら? 事前に何がそこで起きるか『知っていて』、かつ、目前にいるであろう『被害者』から警戒されないには──。
ちょっとした小道具一つでそれは可能か。
殺人鬼は足音を殺し、速攻、侵入する。
右往左往するハゲがそこにいる。ナイフを取り出す。
一撃で、まず呼吸器を破壊する。悲鳴をあげさせない。致命傷も与えない。血痕もここでは漏らさない。特殊な形状のナイフを握り、近付く。
闇の中のハゲの顔は、恐怖とは違う。困惑。ただの停電と思い、視線が定まらないまま泳いでいる。間近に顔がある。近付く。ニヤリと笑う。
襲い掛かる。口を塞ぐ。そして、解体の前の下準備──そこに?
『誰かいたなら?』
夜の闇の中、ニヤニヤと笑い、そこに立っている。犯行を眺めている。
殺人鬼と目が合う。
暗視スコープ越しに緑色の部屋の中、緑色の肌で、『そいつ』はニヤニヤ笑っている。
……くだらない想像。
妄想。
ありえない。
いや、あの河原の事件の現場でそうだった、とは限らない。
じゃあ、その前なら?
教会なら? 何ヶ月前だっけ?
そうだ。以前にも……
『眼帯をかけていた』っけ。
灯りが唐突に消された瞬間に、眼帯を取る。
最初っから『闇に慣れる為に』そうしていた……?
あの被害者と
接点はあるって自分からいってたじゃないか。中年のハゲ相手に援交でもしていた?
いや、誘い出していた?
共犯? 鍵をこっそり開けておくとか。配電状況を知らせるとか?
バカな。証拠があれば残っている。衣類クズ一つからでも、化粧の粉末からでも、そこに別の誰かがいた事は警察も……事務所か。昼になら女子社員だっているかも。
ぐらり、天地が歪むような感覚。
血まみれの死体を抱えた、黒づくめの怪人。
その背後に、にやにや笑いながら、煌子が立っている──。
想像、妄想。ありえない話。夢想が過ぎる。私は忌み嫌う相手に全て結びつけて考えてるだけじゃないのか。それじゃ、アイツはまるで怪物じゃないか?
しかし――。
「茲子さん、どこへ?」
背後から先生の声が聞こえる。茲子はいつのまにか、フラっと教室を出ていた。
「あれ、茲子。どうしたの?」
ハンケチで手を拭きながらの祈とすれ違う。
「……ね、ユッキ君。夏休みの自由研究さぁ……」
「なに?」
「思いついた。殺人鬼、調べよう」
ふらふらっと、廊下を進む。
何かがある。きっちり調べてみせようじゃないの。さりげないようでいて、煌子は自分に挑戦状を叩きつけている。その背景は何?
「私は──正しく在りたい」
ゆらぎのない瞳で、少女は一点を見つめていた。
「あいつみたいにはならない。なりたくない」
──闇は、どこにでもある。闇に、帰ってゆく。
あいつは闇の中にいる。闇に呑まれた。そんな女だ。先生、あなたには救えないんだ、どうやったって。自分を責めないで。私はどうだ。私の中の殺意は、敵意は、絶望は、暗闇は、私を飲むほど大きくはない。
立ち向かわなければいけない。私が闇でないように。私が光であるように──。
ゆっくり、廊下を歩む。
茲子が咲山巴と再び邂逅するのは、もう暫く経っての事だった。
そして、その頃には──
To Be Continued




