第二十五話『私の中の暗黒は』(前編・その1)
――時間は、少しだけ過去へ。
正確には、三年と九ヶ月ほど前まで遡る。
六月の終わり頃の事。
ギュンギュンと音を立てる。
ドクンドクンと高鳴る。
ギャアギャアと啼く。
ガシンガシンと唸る。
ブロロロロロロと車が走る。
排気ガスが漂う。
ガシャンガタンと市電の音が、ピッピッピッと信号の電子音が、微かに遠く、近く。この時間、雑踏は、まだまばら。
目に映るもの、雑多。色彩、ガジェット。ゴミ、陰影、耳に入る雑音。
全てがノイズ。大量の情報量。
こんな物が毎日、日々、一刻一刻、
私の『脳』には格納され続ける。気が狂いそうだ。
太陽はまだ高く空は青い。僅かに確実にその光線の中には黄色味を混じらせてはいても夕刻まではまだまだ遠い。一歩また一歩その一歩。石のようにズシリと重みを増すその徒歩その右の足と左の足。頭を上げる。
噛み締める。目を細める。確かにそこに空はある。青い青い青い空。眩しい空。青い空。六月半ばの青い空。梅雨の去った空。これからの猛暑の始まりを予感させる初夏の清々しい青い空。清々しい筈の空。清々しい?
重い。
眩暈がする。気のせいだ。きっと。体調はこれといって悪くはないのだから。どこか体に悪い所があるならば、せいぜい「脳」くらい。
ギャアギャアと啼く、鴉。黒い羽、バサバサと羽ばたき、ウロウロとそのビルの角の頂上に陣取り、啼く。喚く。クッチャクッチャと嘴を動かし、歯もないのに何かを咀嚼し、口内に転がす。何だろうか。あれは何だろうか。何故啼くのか。こんな時間に。早朝でも夕刻でもないのに。
私は頭がどうかしているのだろう。
ただ苦痛だけを感じる。
生きる事にそれほどの意味も持てない。わりとどうでもいい。
一歩、足を踏み出す。重い。「鉛のように」の表現は判らない。鉛の塊に触れた事がない。理科室の秤のアレくらいなもの。釣具店にでも行けば置いてあるだろうか。今度触ってこよう。産まれてこのかた九年と数ヶ月、本より重い物なんて持った事がない。
一歩。その一歩づつに重力が増す。足が止まる。
一歩、気力を食いしばって足を進める。家路の反対側へと足を進める。
目前にはゴミゴミした商店街。市内最大の、つまりH県内最大の繁華街で平素から万の単位で人が往来する巨大過ぎる雑踏。いつも目に入るいつも傍にある大量の赤の他人たち。その流れ。人気の少ない裏手へ歩を進める。
今もこの瞬間にも何処かで人が生まれ何処かで人が死に何処かで人が人に暴力を振るい何処かで人が人を愛し何処かで人が人を憎悪する。何処かで誰かが叫び何処かで誰かが笑い何処かで誰かが慟哭する。それは私の生活と関係はない。人は産まれもするし死にもする。当たり前だ。この世が滅びぬ限り、人の世が消滅しない限り。
消滅すれば良いのにと偶に夢想する。夢想の為の夢想。視界に映るゴミゴミとしたゴミ街並みとゴミ雑踏。そこに何かのイメージを重ねる。
落下した隕石でも航空機でも良い。巨大な怪獣でも良いし異星人のロボットでも良い。何故か学校を占拠するテロリストの仕掛けた爆弾でも良いし噴霧された殺人ガスや細菌でも震災でも良い。何でも良い。
滅びればいいし死ねばいい。
……ああ、ふつうだ。
私の思ってる事なんて、どこの誰とも同じふつうじゃないか。安心する。
他力本願に誰かの死を願い不幸を望む? そこまで清廉な人間じゃないだろう。むせかえるほど滾るほど、臓腑の中から沸きあがる殺意、憎悪。隠したって隠しようもないけど押し込める殺意と破壊衝動。
刻み刺し潰し縊り噛み千切る噛み砕く夢想。歯なんていまだに乳歯残ってるっつーの(いやとっくに全部生え変わってて良い年齢だけどさ!)。ちびっ子が噛んだってカワイイだけだわかってる(そもそも私はカワイイからね)。
そう、ふつう──。私の考えてる事なんて、どこの誰とも同じふつうで、みんな誰だって想っているし押し殺している。
なんで押し殺していられるんだろうか。
遥か遠い昔半世紀以上も大昔、まだ自分がこの世界に存在しなかった時代なんて神代もお江戸も世界大戦も同じく大差はなくて、そんな時代にここでは何万人も人が死んだ。
瞬時に死んだ。
生き残った何万人かも苦しみ悶えながら数日から数年生き延びて死んだ。そんな意味では大量死なんてここでは当然のようなリアルでこの街を見る限り絵空事にも見える。
平行して同時に存在する。わたしはそんな街で暮らしている。
……うん。疲れているだけだ。目に入る全てが気に入らない、自分で自分も気に入らない、トゲトゲしくなるしこんな自分イヤだ。
夢想、妄想、ありもしない事。自分以外はどうでもいい。自分だってどうでもいいけど打撲すれば痛いし夜になれば寒いし放っておけば腹も減る。死ぬ気もないし苦痛は恐怖でそれでも私という名の存在がフっと無くなったとしてもそれはそれで困りもしない。この世の全てに憎悪を向ける。何もかもに憎悪を向ける。それが自己嫌悪の転化に過ぎない事を判っている。
判ってしまえるんだ。しくじった。なんでそんな風に産まれてしまったんだろうか。
ギャアギャアと鴉が啼く。
うるさい。
カッカッと不自然に首を曲げ、クッチャクッチャを嘴を動かし続けている。
何なんだろうか。石でも投げてやろうか。
かわいそうだからしないけど。
やさしいね、わたし。
一体、誰がわかるというのだろうか。
まだ十歳にも満たない、赤いランドセルを背負った、誰が見ても「可愛い女の子」が。
こんなにも世を呪い世界に絶望し憎悪と敵意と殺意でパンパンに、このちっちゃな体の中を暗黒物質で満たして生きているだなんて。
理由がないわけじゃない。でも、理由なんてきっとどうでも良いこと。そんな風に生まれてしまったんだ。そこは、間違いない。
そう、私は頭がどうかしているんだ、きっと。
チャリリっと自転車の音がした。
「おや、茲子さん。どうしたんですか?」
「あッ、吉里先生。いやあの、えーとちょっとボーっとしてて」
急いで余所行きの顔を作る。胸に手を置いて。ばくんばくんと脈打っている。落ち着けて。落ち着けて。
笑顔を向ける。可愛い笑顔。
私は私が可愛い事を知っている。
それが何だ。何の役に立つんだ。容姿を売り物にする道など選ぶ気はない。外観なんて事故一つで失う物じゃないか。経年劣化も甚だしい。自力で得た物でもない。
そこに自らの拠り所を持って行くのは愚かな行為だ。容姿でチヤホヤするような奴は信用しちゃ駄目だ。それでも──持って生まれた物であるなら手入れはしなければそれは愚鈍だ。
野に咲く花ならそれもいい。ここはコンクリートに囲まれた箱の中で、だからこそちゃんと活けないといけない。綺麗な鉢に持って、霧吹きで水をやって。私は私が可愛い事をちゃんと活かさないといけない。襟は正して、オシャレをして。澄ました顔で。
吉里先生はいつもキチンとしている。
七三にわけた髪からは嫌な整髪料の匂いは漂わない。仕立ての背広をきっちり着こなした、こんな格好の紳士がロード用ヘルメットを被ってスポーツサイクルに乗っている姿は、やはりどう見たって滑稽だ。
自然と顔がほころぶ。
「嬉しそうですね。何かありましたか?」
「いえ、何も」
そう、私の事を彼は何も判ってはいない。
私は吉里先生の事は大好きだけど。
「ナイショです」
笑顔を作る。内緒だ。私の胸のうちなんて。
いえるわけねーっての。
「寄り道はしないで家に帰るように諭すのが、本来ならば正しいんでしょうけどね……家の人はまだ、居ないんでしょう?」
「ええ。だから早く帰っても帰らなくても同じです。先生だってそうでしょう?」
「そうですね。今日はちょっと書店に寄って、それから帰って、あとはテレビでも見て明日の用意でもして寝るだけですよ」
そういって、単調な生活を笑う。吉里先生は私の家庭の状態も充分知っている。
「いやあの、無理にマンガ買わなくて良いですから!」
昼に漫画談義……というか漫画をダシにしたマウント合戦という不毛な言い争いを柚津起君としてた時に、横できょとんとした顔で聴いていた先生がメモを取りはじめていたので若干イヤな予感はしていたものの……。ちなみに、今日の議題は格闘漫画の話。
「君たちの会話にもちゃんとついていかないとね。ジャンプの漫画なら、昔から受け持ちの子が良く話題にしていたから知っていますが、あとサンデーやマガジン辺りもですね。とはいえ、えーと何だったかな? エアマスターとバキ? これはちょっと勉強しておこうかと……」
「いやソレ時間の無駄だから! 巻数多いし! んー、エアマスターはまぁ、崎山って女の人がもの凄くカッコ良いんですよ、彼女は格闘家としてはザコなんだけど、主役喰っちゃうようなキャラなんです。まあ出番あったのは序盤までですけども。バキは、えーと最初のグラップラーは間違いなく万人にオススメ出来る傑作で、死刑囚や擂台あたりはクセの強い展開ですけど個人的には好きです。まあ、そこから先は結構人を選びますね」
「なるほど」
またいちいち手帳を取り出してメモを始めたので慌てた。
「いや、だからマンガは……」
「漫画と小説で優劣や貴賎などありませんよ。媒体が何であれ、人の心を打つ優れた作品もあれば、どうにもならない紙束でしかない物もあります」
「そーゆーのは、子供がオトナにいうべき言葉ですよ」
クスクスっと、悪戯っぽい笑みで肩を奮わせる。うん、ちょっとあざといね、私。
「例えば『映画』は、その昔は愚劣な見世物としてしか捉えられていなかったんです。演劇とは『舞台』こそが本物であって。今ではホンペンと呼ばれ、創作の中でも権威ある物の代名詞になっていますね。アカデミー賞なんて大層な名前の祭典を用意したり、カンヌにベネツィアと、芸術としての評価や箔に十分なだけの歴史と厚みを重ね、インディペンデント系の作家がイマジネーションを表現する手法として選び、一世紀超の歳月を得て蓄積して行った結果です」
「んー、映画は庶民の物だった事こそが強みですよね。まあ、映画と名のつく物の九割九分九厘はゴミだけど」
「珠玉の中から珠を探すべく、好んでゴミと呼ばれる作品を選る者もいますよ。その中から、いつ優れた作品が現れるかもわからない。純然たるゴミを好む者もまた確かに存在しますが」
「酷すぎて笑うしかないってヤツね。まあ、それはどんなメディアにだってあるわ。小説であれゲームであれ」
「しかし、蔑まれたり軽く見られる物の中にこそ新たなムーブメントの胎動があるかも知れませんよ。演劇、文芸にしても、グーテンベルグにより聖書をあまねく伝播させる目的で印刷技術が編み出されたその後に、戯曲、戯作が創作された際にはそれらはやはり色眼鏡で見られていた筈です」
……うん、この感じ。
「洋の東西を問わず、真に尊ばれる物は文字ならば聖典、演劇ならば神事、それ以外は邪道だった筈なんです。時の経過と、それに慣れ親しんだ世代がやがて権力者になる頃には、大抵の媒体は市民権を得ますよ。とりわけ神事が形骸化し、『祭』だけ残った物は娯楽へと転化するのは早い。無論、最初っからゲテモノとして誂えたジャンルもあるにはありますが」
「まあ、市民権を得ようと蔑まれようと、そもそも『娯楽』と『権威』なんて、これほど水と油な相性の物はないんだけどね。娯楽作品は面白けりゃそれで良いもの」
うん、吉里先生との会話は楽しい。
「また、特定のジャンルの中での高評価と一般の評価も違います。例えばフィリップ・K・ディックはペーパーバックライターとして庶民の読み物でしたよ。ヒッピーがまだ活きていた時代、家出娘のハンドバックには化粧品と避妊具とマリファナとディックの本が一緒に入っていてもおかしくはなかった。ディックの本歌取りのサイバー物を今現在も書く作家の多くは、SFマニアしか対象にしていません。勿論、それが悪いという話でもなく、対象を絞ったジャンルもまた、絞られた先の者たちには必要な物です」
微笑みながらの上の空で、私は先生と会話を受け答える。
私は先生の前でなら、こんな風に色々と、どうでもいいような話を楽しく出来る。どうでもいい溜め込んだ知識が、ノイズでしかない脳内の『邪魔』が、水中花のようにパっと頭の中で開く。
彼に私の全てを理解して貰おうなんて思わない。願わない。それでいい。ここでの私はそれで良い。
「さて……」
一通りの雑談を終えて、先生はハンドルを握り直し、ペダルに足をかける。
「あまり遅くならないうちに、せめて一度家に戻って、鞄を置いて着替える事をお勧めしますよ」
「学校はまるで家にいるのと変わらないものね。どうしても、私には『帰る』って感覚がわかないの。生活圏と近過ぎるわ」
そう、学校のすぐ裏手、そこにあるボロアパートが私の家。近すぎる。うんざり来る。だから私はいつも無駄に寄り道をする。
ギャアギャアとバカガラスが啼く。
「カラスが鳴くから帰ろ、か。まだ夕方でもないのに」
「凶兆と吉兆、そのどちらをも担った使者ですね」
「あのカラス、足は三本もないわ」
「八咫烏は漢でも大和でも道案内の役目を負った神の使いと聞いていますよ、まあ僕は博物学者でも漢文学者でもないのでそこまで詳しくは知りませんが」
「せめて足も四本あればまだ机に似ているのにね」
「出題者の帽子屋の答えは『さっぱりわからん』でしたか?」
「それそれ」
少し嬉しくなる。
「僕の場合、カラスといえばマザーグースかな」
「マザーグースといえばクリスティね」
「それでは僕はこれで。また明日」
片手をふり、先生はペダルに体重を乗せる。
「また明日ね」
私も手を振る。笑顔で。
チャリリっと音を立てて、自転車が進む。晴れた日には自転車通勤の吉里先生。南区の自宅までは結構遠い。
「そうそう、茲子さん──」
ココさんとは呼ばない。コココさんとココさんじゃ大差ないとはいえ、私が苗字で呼ばれるのはキライだといってから、先生は私をちゃんと名前で呼んでくれる。
そもそも私の名前じたい、姓も名も含め好きじゃない。フリガナを振ればコココココ。これじゃまるで筒井康隆の「発狂したホッチキス」だ。でも、爰菰はアイツやアイツやアイツと同じ名前だけど茲子は私固有のUniqueだ。馬鹿な親に駄洒落でつけられたいい加減な名前でも、与えられた私の名前は私個人のみの物だ。
「立ち入る気はありませんが、哀しい時は哀しい顔でいても良いと僕は思いますよ」
「──え」
どきりとする。
「涙を流すほど明確な物じゃないとしても。僕は教師として、君たちの相手をしているのは『職業意識』の表れかもしれない。それでも、教師生徒の関係性は先人と後人の人対人の関係性でもある。何よりティーチャーであるよりメンターであるべきだと思っている。僕は君が強い子だと知っている。しかし、君が年がら年中強いわけでもない事も、識っておかないといけない」
「──や、ホント、別に何でもないんです」
目が潤んででもいたのだろうか。動揺する。胸がぐるぐる。
「私、──無理をしてるように見えました?」
「君はいつでも無理をしている。でも、君は君自身が可愛らしくあるようにと努力している。それは正しい事ですよ」
私は──見抜かれていたのだろうか。何だよもう! 最初「嬉しそう」とかいってたクセに! ……少し気分が重くなる。嬉しいけれど、哀しいような。彼は判っていたのだろうか。
私の悪意に。
私の殺意に。
私の中のこのドス黒いもの色々に。
「……取り繕っているだけですよ、私なんて……」
何なんだろう。この、天気雨みたいな気分は。
「私は……先生や柚津起君の前では可愛らしく澄まして、ちょっと爪先立って、何もかも判ってるような姿勢でいたいだけなんです。だから、今も──」
心の中を整理する。どういった状態なんだ、自分?
何をいってるんだ、自分。さっきから空々しいじゃないか。吉里先生との会話にしたって。どんなにそれが楽しくたって。「~よ」「~わ」なんて女コトバで話してる。いねえよそんな奴。コトバで音にして女コトバを話す奴なんてドラマとアニメの中だけだ。
「学校が終わって、そう……寂しかったんです。寂しいのは、一人だから、家に誰もいないからとかそーゆーんじゃなくて。むしろ独りでいる方が清々するけど、でも……」
何を口走ってるんだろう、自分。
何を素直に口にしてんだ、自分。なのにまだ「女の子」してる。
「例えば、キーツの一節にこういった物があります。『美しいものは永遠のよろこびである』──昨今、ルッキズムをとやかく言う風潮はあれど、容姿や姿勢を正し生きる事は決して間違っていません。それは、佇まいや態度、作法や礼節にも及ぶものです。君は常に背を伸ばし、正しく在ろうと努めている。でも、人はいつでも正しくは生きられません。うまく行かない時だってある。そんな時は、もっと誰かに頼ったり甘えたりしても良い。君は淑女であるより先に、まだ自分が幼い少女である事を認識するべきですよ。君が甘えたり挫けたりする事があっても、誰も君を非難なんてしないから」
「ありがとう、先生。でも、私はソレは嫌なの」
自分が女の子である事に、甘えたくはない。
私は、強くなりたい。
スポークの回転音が遠く去り、アルカイックスマイルを浮かべたまま私は片手をゆるくあげて振っている。吉里先生はもう居ない。徒歩で一分とかからない自宅へ帰る決心をつける。重い。
一歩、足を進める。家路へと足を進める。
第二十五話
『私の中の暗黒は』
初稿:2005.11.14




