ホットミルク
お洒落なカフェで、一息ついている。
今、午前十時。私のお気に入りのテラスは、今日も穏やかな日差しが降り注ぐ海に面している。
ここは喫茶「おひさま」。
何気なく眺めていると、店員から声をかけられた。
「お客様。失礼致します」
ことん、と置かれたそれは、湯気が立ち昇るホットミルク。
「これは?」
「あちらのお客様からでございます」
見ると、離れた席にいる男性が、笑顔で手を振ってきた。
爽やかな目。潮風に揺られる髪が、優しく光を返している。
「あの」
「はい」
「彼に、これを」
たまたま持ち合わせていた飴玉を、店員に渡した。
年の離れた妹が、今朝くれたお菓子。
丁寧に受け取った店員は、そのまま彼の元へ持って行く。何気なく見つめていると、彼と店員が笑顔でこちらを向いた。彼は、貰った飴を示してから、その口に放り込んだ。
海を見る。穏やかな海原。船がぽつぽつと、水平線に近い場所に浮かんでいる。空は晴れ晴れとしていて、雲が揺蕩っていた。青い空を泳ぐ太陽は、その身を眩しく輝かせながら、私達を優しく包み込んでいた。
贈られたホットミルクに口をつける。甘い。そして、温かい。
いつ以来だろう?このシンプルな飲み物は、最近の私には想像もつかないほど遠くにあった。
早すぎる時の流れ。あっという間に変わる景色。一息つこうとしても、生真面目な街はそれを許さない。はみ出す足は掬い取られることを予言されて、平和に暮らす人々も先を見通せない。
また、口当たりの優しい牛乳を口に含んだ。ふわっと広がる白い味。身体の中に染み透る、ほっとするような温度。
羽ばたく音が響いた。隣を見ると、白いカモメが私に相席してきていた。
私を一瞥してすぐ、彼は広い海を見た。
「ごめんね?今、牛乳しかないの」
声をかけてみる。それでも、飛んで行かず、きょろきょろと忙しい視線を飛ばしながら、その場に佇んでいる。
私も視線を戻した。穏やかな海は、その身に浮かべる者以外、全く動かすことなく落ち着いていた。
海から聞こえる彼の同胞の声と汽笛の響き以外に、特に目立った音は無い。
「何かを、お待ちですか?」
優しそうな声がして、思わずカモメを見た。
しかし彼は全くこちらに関心を持っていない。そのまま、海を見続けている。が、何かを見つけたのか、すぐに飛んで行ってしまった。
小さくなっていく白い一点を見つめた後で、少し後ろを向くと、先程ホットミルクを差し入れてくれた男の人が立っていた。
標準的な体型。落ち着いた服は、彼に年相応の大人しさと思慮深さを感じさせた。
「彼の代わりに、座ってもよろしいですか?」
「ええ。どうぞ」
かたり、と椅子が引かれ、静かに彼が腰を下ろした。
「ここは、ゆったりしていますね」
「そうでしょう?いいところなんです」
潮風が、私達に触れた。愛しそうに過ぎるその透明な身体は、気軽さを纏って私の頬を撫で、過ぎ去っていく。
「ホットミルク、気に入って頂けましたか?」
「ええ。ありがとう。とっても美味しい」
彼と私は、テーブルを一緒にしながら、視界に収まらないほどの景色を共有した。何も考えずに見つめていると、私の置かれている状況や、これまで歩いてきた景色も、全て溶けていくようだった。
「あなたは、何を飲んでいるの?」
「僕は、カフェオレを頂いています」
「そう。とてもいいわね」
「ええ。いいでしょう?コーヒーもいいのですが、今日はなんだか甘い物を飲みたくなってしまいました」
言って、白いマグカップを掲げた。
「ここに来るのは、初めて?」
「いえ、実は三回目です」
「あら。じゃあ会ったことあるのかも」
「実は、一度、お見かけしました」
後ろの、木製の扉が開いた音がした。誰かがこのテラスに入ってきた。そのまま、歩き去っていくようだ。
ホットミルクは、もう少なくなっていた。口が欲しがるこれは、要望に応えてその都度その都度、私を楽しませてくれた。
沈黙が、世界に響いた。極上のソファのように、私の身体をすっかり沈み込ませたそれは、そのまま急かすこともなく私を受け入れてくれた。
彼の横顔を見た。穏やかな目は、その水平線を見つめている。一体何を考えているのだろう。未来の事?過去の事?それとも、ただただ、今この時について?
答えの出ない問いかけは、私の心に浮かんで、すぐ消えた。
どうでもいい、わけじゃない。ただ、そう思ったことは、なんだか素敵だった。
大人しく、想いを馳せる。贅沢な時間。
携帯も鳴らなければ、背中を突いてくる誰かもいない。手を引いて走る人はもちろんいないし、針が奏でる静かな足音も、今の私を招いてこない。
人は、澄んだ気持ちを一体どのくらい持つことができるのだろう。無駄かもしれない情熱と、徒労に暮れる想像とを引き連れて、一体どこまで歩いて行けるのだろう。
頭に浮かぶ言葉が、まるで形を持たない私の気持ちを浮き彫りにするけれど、それもすぐ消えた。
最後の牛乳が、私の心に終わりを告げた。温かい広がりが、そんな私を肯定してくれた。
「じゃ、私行きます」
「ああ、ありがとう」
「こちらこそ。とても美味しかったです」
椅子を、戻した。かたんと落ちた音が、優しく終わりの幕を引いた。
「また、会えますか?」
去り際に、彼の声。背中から、私を追いかけた。
振り返る私は、椅子に座りながら私を見つめる彼に、一つの気持ちを言葉にして伝えた。
「きっとね。また、会えますよ」
「そうですか。楽しみに、お待ちしています」
微笑を交わした後で、私は再び喧騒の中に戻って行った。
静かなテラスは、可愛いベルの音を連れて、その扉を優しく引き込んだ。