透明の刺客
ミノタウロスは、右手と左手で、交互に斧を持ち替えながら――こちらの様子を伺っている。
牛野郎の首には時計が着いていない。誰かがどこかから操作しているのだとしたら、命を懸けて倒したところで、徒労に終わるかもしれない。
だが、こいつを倒すことが、このニセモノの空間から脱出する条件だとしたら……戦う価値は十分にある。
時計を出し、「夕立」を発動させ、咲夜の姿が変わる。
白塗りのマスクに、黒いローブ、右手には包丁――「夕立」の姿だ。
牛野郎の手の内はわからないが、こっちから攻めさせてもらう。
咲夜は、静かに、それでいて爆ぜるように踏み込む。
倒れこむほどの前傾姿勢で、敵の足元を捉え、包丁で6箇所斬りつける。
敵の視線が、足元に向かれた隙に、背後を取り――後頭部を狙い、刃を下ろす。
敵は前方へと回避し、頭を狙った攻撃は、背中を切り裂いた。
急所は外したが、咲夜には確かな実感があった。
いける……昨夜の人型スライムは、体に刺さった刀を投射することで、背中からも攻撃が出来、かつ、遠距離でも近距離でも戦える強敵だった。
そいつと比べればなんてことない、牛野郎は動きが遅く、接近戦で後れを取ることはないだろう。
次は正面から心臓を狙わせてもらう。
小細工は必要ない、ただ圧倒的な速度の差が勝敗を決める。
ナイフのように鋭い跳躍で、敵との距離を詰める。
だが、咲夜は慣性の法則を無視するが如く、進行方向を真後ろに変えて――飛ぶ。
それは、敵の姿が一瞬で消えたからだ。
消えた……?
勝てないと判断して能力を解除したのか?
しかし、正面から足音響き――消えたのではなく、透明になったことに気がつく。
「しまったっ!」
敵の斧が風を切る音を聞いた。
刹那、力任せで回避する。無理な体制での緊急回避であったが、軽やかに着地する。
「夕立」の姿は、無機質な殺人鬼みたいな出で立ちであるが、「黒猫」の能力よりも、猫の能力を受け継いでいる。
人間の身体能力をそのままに、猫のような柔軟なバネを持ち、しなやかな動きが可能。
強引なジャンプでも、体をねじり、華麗に着地することが出来るのだ。
「見た目のわりに、姑息な戦いをするんだね」
透明の敵と戦うのは分が悪い、一度引いて、態勢を整えよう。
廊下を疾走し、階段を飛び降り――ミノタウロスから、一度逃げるのであった。
◇
咲夜は「夕立」の姿で、体育倉庫のシャッターを素手で強引に引き上げる。
お目当ての品は、グラウンドにラインを引くための「カラー石灰」。
こいつをぶち当てれば、やつの透明化を無効化出来るはず。
赤色の石灰が詰まった袋を一つ、手に取る。
最初、牛野郎が姿を現したとき、奴は透明ではなかった。
何故だ?透明の状態で近づけば不意打ちが出来るはずなのに。
もしかしたら、透明化になるための条件があるのかもしれない。
敵の能力を知れれば弱点を突けるのだが……。
壊れたシャッターを再び下げて、体育倉庫に籠城する。
「この異空間で長期戦はしたくないのだが、仕方がない……」
「はーい、咲夜くん、美優お姉さんよ~聞こえるぅ?」
時計から美優の声が聞こえる。
「あぁ、聞こえているよ、どうしたんだ?」
「人形でそれらしい奴を見つけたわよ。咲夜くんを攻撃している奴かもしれないわ」
「どんなやつだ?」
「場所は図書室、男性の二人組よ。二人とも首に時計を着けているわ、一人は眠っていて、もう一人はそれを守るようにそばを張っているわ」
僕の命を狙っている奴が二人いると仮定して、一人は僕を架空の学校に転移させた奴、もう一人の寝ている奴が、牛野郎を操っているのかもしれない。
「倒せそうか?」
美優に問いかける。
「可能だけど、私自身が図書室に行く必要があるわ。私の人形は、私から離れれば離れるほど弱く、小さくなるから、敵を倒すなら人形との距離は最長でも5メートル。今、私がいる場所は家だから30分はかかるわよ」
「問題ない。頼んでもいいかな?」
「えぇ、いいわよ。可愛い後輩を守るためよ。デートで手を打ちましょう」
「ん……?」
汗が頬を流れる。
「デートしてくれるなら助けてあげる」
はっきりと聞こえた。
「こんな時にふざけないでくれよ……」
顔を真っ赤に染めて、言い放つ。
「あ!スーパーで半額弁当が売られる時間だわ!急いで行かなくっちゃ!」
電話越しで、彼女の悪魔のような笑顔が浮かんだ。
「君は金持ちなんだから、半額弁当とは無縁だろう?……そもそも、朝の9時に半額弁当とか無いですからね」
「どうする、死ぬ?」
「……わかったから、頼むよ」
「デート決定ね!あと、私のこと『美優先輩』と呼びなさいって何度も言ったわよね?『君』って呼んだ罰、受けてもらうから」
美優は冷たい声でそう言うと、通話を切った。
「……」
まぁ、これで何とかなりそうだ。
通話越しで、彼女が自転車を全力で走らせる音が聞こえた。
きっと、30分以内でことは終わるだろう。
牛野郎と無理に戦うことはない。むしろ、牛を動かしている時間、敵が無防備となるならば、倒さない方が良さそうだ。
「鬼ごっこ……いや、かくれんぼってわけだ」