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好きを教えて

作者: 高藤みずき





 多分誰も信じないと思うけど、小学四年生のあの日、わたしは死神と賭けをした。



 遠足帰りのバスの中、信じられないほどの衝撃に意識を失って、それがトンネルの天井が崩れ落ちて来たからだったのだと知ったのは全てが終わってしばらくしたあとのことだ。頭を強く打ったのか意識がぐらぐらと揺れている感じがして、まるで洗濯機の中に入れられてるみたいな感じがした。……入ったことないけど。


 それがようやくおさまってきて、ゆっくりと目を開けてもまだ目を閉じてるみたいにそこは真っ暗な闇だった。


 ──その中で〝それ〟は蒼い光を放ってふわりふわりとあちこちを漂っていた。頭から足先までを覆う長くて黒いローブを纏っているから顔は見えない。男か女かもわからない。前方から道端の花でも摘んでいるように、たくさんの倒れた人から何かを奪いながらやってくる。


 死神だ。


 わたしは咄嗟にそう思った。挿絵にあったみたいに大きな鎌はもってないみたいだけど、それ以外はそんな感じだ。奪った何かは死神の持っている黒いランタンみたいな入れ物にどんどん吸い込まれていく。それにしたがって徐々に光も大きくなっていくみたいだった。


 どうしてか見え難くなった目を手のひらで拭うと、手がぬるっと滑ってべたべたして鉄みたいな匂いがした。包丁で指を切ったときと同じ匂い。頭のどこかが切れてるのかもしれない。不思議と痛みはそんなに感じなかった。どちらかといえば痛いのは強く握られている左手だ。


「……涼……くん」


 わたしの手を握ったままの涼くんはぐったり倒れたままだ。何度か小さく呼びかけてみたけど返事はなかった。二人で一番後ろに座っていたはずだ。今は自分がどこにいるのか、バスがどうなっているかもわからない。


「あれ、生きてる」


 とうとう目の前に死神がやって来た。顔は真っ黒でよくわからないのにニヤニヤと面白そうにわたしを見つめているのがわかる。


「僕のこと、見えてるよね?」


 身体が動かなくて、微かに顎を引いてみせた。普通は見えないんだろうか。つまり見えるってことは……わたしも死んじゃうってこと? わたしの考えていることがわかるみたいに、死神はゆったりと頷く。


「……君が死ぬのは今日じゃない。それにしても強運だなあ。これで生き残るなんて……ま、いっか。あとでゆっくり話そうよ。ちょっと待っててくれる? それ回収しちゃうから」


 それ、が涼くんだってことはすぐにわかった。わたしは涼くんの手をぎゅっと握りしめて首を振った。振れて、いただろうか、とにかく涼くんを守ろうと手に力を込める。


「ダ、メ。や、だ……」


 まだ手だってあったかい。時々苦しそうに息をしてるのも聞こえる。──生きてる。死んでない。なのに死神は不思議そうに首を傾げた。


「……どうして?」


「どうして、って、だって、死んでないし……と、友達、だもん。……大切、だもん」


「でも時間の問題なんだけどなあ。それはほとんどもう死んでるよ」


「死んでない!」


 大声を出したせいで身体中がびりびりと痛む。それでも、今優先するのは涼くんだ。


「まだ、ね」


「お、願い! 連れて行かないで!」


「困ったなあ。──ええと、君、この子のなに? 兄妹?」


「違う、けど」


「じゃあいいじゃない」


「だめ! 大切なの。友達なの。大好きなの!」


 死神は困った半分、そして相変わらず面白そう半分、みたいな様子でわたしの前にしゃがみ込んだ。このくらい近づいてもなぜだかまだその顔はよくわからない。でもそんな気配だけはすごく感じた。


「好き、なの?」


「大好き」


 物心ついたころからずっと一緒にいた幼馴染みだ。色々うまくできないわたしをいつもさりげなく守ってくれていた。最近はさすがに一緒に遊ぶことは少なくなってたけど、今日みたいに一人あぶれてしまったわたしと同じ席になってくれるくらいにはまだ、繋がってくれてる。ずっとずっとわたしの片思い。大切な大好きな人だ。だから絶対、死神なんかに連れて行かせない。


「ねえ」


 真っ暗な闇がわたしの底を覗き込んだ──気がした。全身鳥肌が立つ。


「好き、って、なに?」


「え?」


 右手で自分の顎を撫でながら、死神が首を傾げる。


「……わかんないんだよねえ。僕が命を摘み取ると、いつも一緒にいる人たちがすごく泣くんだ。まあそうでもないこともあるけど、だいたいね。どうしてか聞いてみたかったんだけど、普通の人に僕は見えないから」


「見えない、の?」


 顔はわからないけど、姿ははっきり見えている。


「君は見えるんだよね? 不思議だねえ。その子と手を繋いでるからかなあ。でもこれは千載一遇の好機だよね。今日やっと答えが聞けるよ。つまりみんなが泣くのは──君が言ってるみたいに、〝好き〟だから、なのかなあ、って。合ってる?」


 わたしは死神を睨みつけたまま、大きく頷いた。死神はしばらく考えこむように黙り込んだあと、涼くんとわたしを交互に見つめた。


「さっきも言ったけど、彼は──まだ生きてる」


「ほんと!?」


 でも、まだって言った。時間の問題だって言った。それはこのままじゃ死んじゃうってことだ。そんな。わたしは縋るように涼くんの手を握りしめたまま流れる涙を拭いもせずに死神を睨み続ける。どうしよう。どうしたら涼くんを助けられるんだろう。


「賭けをしようか」


「……賭け?」


「見逃してもいい。今ならまだ間に合うから……、この火を彼に足してあげる」


 この火、と持ってたランタンを掲げてみせる。言っている意味がわからなくて、わたしは首を傾げた。


「火を、足す?」


「僕達は、昔死んだものなんだ。それでね、こうして死に行く人の魂を集めて、次の自分の寿命にする」


「──次の、寿命?」


「魂の持つ力にもよるけど一つあたり一ヶ月、ってとこかな。時々一年分、なんてすごい魂もあるけど」


 ほらこれ、とかなり明るくなったランタンをわたしに翳してみせる。


「地道な作業だよねえ。もう長いこと集めて来たけど……これで多分……やっと十年ちょっとくらい、かな。──これを彼にあげてもいい」


 灯りに照らされてるのに、やっぱり死神の顔はわからない。それでも助けてくれるらしい言葉にわたしの気持ちが少し上向きになる。それを牽制するように、死神はわたしからランタンをひょいと遠ざけた。


「もちろん何の条件もなく、ってわけにはいかないよ。それにこの火だけでは不十分なんだ。彼の中で僕が火を管理しないといけない。その間にね、僕に〝好き〟を教えてよ」


「……え?」


 誰に、何を教えるの?


「彼の寿命が尽きる二十歳までに君は僕に好きって感情を教えるんだ。簡単だろう」


 死神が何を言ってるのか理解できずに黙り込む。よくわからないけど、ここで頷けば涼くんは生き返る。でも。


「……そんなことして、あなた、は、大丈夫、なの?」


 お仕事中なのではないのだろうか。それにせっかく集めた火のはずだ。知らない人のために使っていいのだろうか。もちろん涼くんを連れて行かせる気はないからそんなことを聞いたらいけないのかもしれないけど。それともこれで何か死神が得るものがあるんだろうか。わたしの言葉に死神はちょっとびっくりしたようだった。そして小さく息だけで笑う気配がした。死神も笑うんだとわたしも少し驚いた。


「僕の心配するの? 変な子だなあ。大丈夫だよ。回収した魂は自分のためのものだし、今は特に早く転生したいと思ってないし、基本的に僕らは自由なんだ」


「じゆう……」


 死神と自由という言葉がイコールで結ばれなかったけど、大丈夫らしいことは理解する。問題は賭けだ。涼くんの中にこの死神が入る。入るってどういう意味だろう。死神が涼くんを操縦するの? それとも電池みたいに涼くんを動かす元になるの? よくわからないけど、そにかくそうすれば涼くんは死なないんだ。


 そのかわり二十歳までにわたしは〝好き〟って気持ちを死神に教える。


「好き、って、そんなのどうやって?」


「……そうだね。じゃあ彼が君に〝好き〟だといったら勝ちってことにしよう」


「涼くんが、わたしに?」


「そう」


 いきなり突きつけられた厳しい条件に、思い出したように頭がぐらぐらする。今まで涼くんがわたしに好きだといったことはあっただろうか。……ない、気がする。


「あの、好きでもないのにただ〝好き〟って言葉を言わせるのは、いいの?」


「それはダメだよ。だから僕は彼の〝好き〟って言葉を封じる。本当に〝好き〟だと思ったときだけ言えるようにね。あ、文章でたまたま〝す〟と〝き〟が並んだときはノーカウント。あくまでも本人が本当に〝好き〟だと思って口にしたものでなければダメ」


 意外と細かい。


「──賭けに、負けたら?」


「始める前から弱気だね。僕が入っていた人間はもちろんそのまま死ぬよ。僕がいなくなるんだからね」


 びくり、と身体が震えてしまった。今死ななくても、賭けに負けたその時点で涼くんは死んでしまう。自分のせいで。震えそうになる声を必死に我慢して、もう一つの可能性について問いかける。


「勝ったら?」


「そのときは彼に僕の中にある命を全部あげるよ。僕自身が彼に完全に溶け込む。多分それでそこそこ長生きできるはずだ。人間の寿命としては十分なくらいだと思うよ」


 これは受けてもいいんだろうか。でも受けないと今涼くんは死んでしまうんだ。だったら、わたしに選択の余地はなかった。


「どうする?」


「……やり、ます」


「成立だね」


 嬉しいのか、失望したのか、楽しいのか、悲しいのか、よくわからない声が返って、わたしはそのまま眠るように意識を失った。


 目が覚めたときは病院だった。隣のベッドにはちゃんと息をしている涼くんの姿もあって、ホッとした。あれは夢だったのかもしれないと思ったけどまるで忘れるな、というみたいにわたしの胸の上に痣みたいに小さな花が咲いていた。花びらは十一枚。約束の年までの枚数だ。


 わたしたちは二人だけ生き残った奇跡の子どもとしてしばらく世間に騒がれたけど、あっという間に普通の日常に戻った。わたしの中に黒い何かを残したまま。



       *+*



 ねえ、誰か教えて。


 好き、なんて漠然としたもの、どうやって教えたらいいの。


 死神と約束したあの日から一年経つごとに容赦なく花びらは消えて、気がつけばもう既に十年が経っていた。残りの花びらはあと一枚。それももうすぐ消える。なのに彼の口からはいまだに〝好き〟だという言葉を聞いていない。まったくだ。ここまでくるともう完全にお手上げだった。


 元々涼くんは子どもの頃から感情表現に乏しい寡黙なタイプだった。嬉しいときも悲しいときも怒ってるときもあまり顔に出ないし出さない。無口で大人しくて冷静で、大声を出したりもしない。何が欲しい? って聞いても何でもいい、って答えるタイプだ。いつも何を考えてるかわからなくて、わたしはよく涼くんの関心を引くために手を引っぱったり喚いたり泣いたりしたっけ。


 すくすく成長した涼くんは、頭も良くて顔も良くて背も高くて家もそれなりだったりするから昔からとてもモテていたけど、いつだって「悪いけど」の一言でばっさり相手を一刀両断して、彼女を作ったことは一度もなかった。これは死神の弊害だろうか。そのたびにわたしはホッとしたり複雑な気持ちになったりした。


 とにかくわたしはそんな彼を相手に相当努力したと思う。涼くんの志望校は高校も大学もわたしにはかなり厳しいランクの学校だったけど、死に物狂いで勉強して合格してついて行くことに成功した。……うん。ちょっとしたストーカーだ。まあ、さすがに涼くんと同じ医学部は無理だったけどね。結果親は泣いて喜んだ。


 元々家同士が仲が良いから、上京したときも涼くんの家の持ち物だというマンションに格安で入居させてもらえて、しかも部屋は隣り同士だった。バレンタインも誕生日もかかさなかったし、押しかけてご飯も作って食べさせた。放っておくとご飯を食べない涼くんだったから、おばさんにいつも感謝されている。


 最終的にはなんでもいいから〝好き〟って言わせればいいのでは、と「涼くん、カレー好き?」とかズルいこともしてみたけど、涼くんから返って来たのは「嫌いじゃない」という微妙な言葉で。何度もチャレンジしたけどその度「好き」が封じられているのを確認するだけだった。当初ひょっとしたら何とかなるんじゃないかと思っていたわたしの気持ちはどんどん小さくなるばかりだ。


 どうしよう。どうしたらいいんだろう。もうすぐ涼くんは二十歳になってしまう。あの約束の日に、なってしまう。


「……ああ、もうどうしよう」


 大学のカフェテラスで一人突っ伏す。もう万策尽きた感じだ。もはやわたしは涼くんにとっては彼女みたいなポジションの幼馴染みではなく、お母さんみたいな幼馴染みだろう。いや、そこまでいってないかも、ただのウザくておせっかいな知人かも。幸いこれまで部屋に入れてもらえなかったことはないけど。拒絶はないってそれだけだ。どうポジティブに考えても──家族。恋愛対象ではないという意味で。


「どうしたの? 野宮ちゃん」


 顔を上げると同じゼミの男子がわたしの顔を覗き込んでいた。……ええと、名前なんだっけ。確か青山とか青森とか青木とか……、一方的に話しかけることが多くて名前、そういえば聞きそびれてた。うーん、多分青山に一票。そう呼ばれてた気がする。


「どうしたの? 何か困ってる?」


 断りもなく向かいに腰を下ろしたのは減点だな、と思いながら何でもないと首を振る。


「ちょっとね、自分の力不足を思い知っていたというか」


「課題とか?」


「まあ、そんなとこ」


 たしかに難しい課題だ。人の命がかかっているんだから。


「ね、今日飲み会あるんだけど野宮ちゃんも参加しない?」


 またか。何故かこの人は度々飲み会にわたしを誘う。断ってばかりいるから意地になってるのかもしれない。でもあの独特の雰囲気は苦手だから、行く気はない。


「あー、悪いけどわたし……」


「また有馬? ってか、ずっとべったりだよねー。付き合ってんの?」


「……違うけど」


「だよねー」


 大学でもこれまでも、わたしが涼くんに付きまとってる、って周りから言われているのは知っている。死神との約束がなかったら、わたしと涼くんはただの幼馴染みで、それ以上でもそれ以下でもなくて、高校生になる前には縁遠くなっていたはずだ。そして今頃はわたしが近づける余地などなく、かなり遠い存在になっていただろう。わたしだってそれが良かった。その方が多分幸せだった。そしていつか涼くんが誰かと結婚したという話を聞いても「へー、そうなんだー」で済んだだろう。胸のどこかはちょっぴり痛んだかもしれないけど、こんなにも知らない女の子たちから睨まれたり恨まれたりする立場になんか立たなくてすんだはずだ。


「好きなの?」


「……」


 どうなんだろう? 小学生のときは間違いなく好きって言えた。中学も、多分。でも今は? そもそもあの涼くんは本当にわたしの知っていた涼くんなんだろうか。ねえあれ何%死神でできてるの?


「有馬も今日は飲み会だって聞いたよ。たまには別々もいいんじゃない? 野宮ちゃんと話したいって奴結構いるし」


「よく知ってるね。りょ……有馬くんが飲み会なんてこと」


「有名だからね。さっきも誰か騒いでた。だから、野宮ちゃんも行こうよ」


「でも」


「たまに違う環境にいけば何か悩んでることの突破口が開けるかもしれないしさ」


「違う環境……」


 多分わたしは疲れていたのかもしれない。あまりにも行き詰まっていたせいで。毎日近づいてくるカウントダウン。だからこそ藁にも縋りたかった。その言葉にそうかも、と素直に思ってしまったのだ。本当に突破口が開けるなら。


 わたしはこれまで必死に良くも悪くも涼くんしか見て来なかった。ひょっとしたら今〝好き〟を教えてもらいたいのはわたしの方かもしれない。最近はもう他力本願的に誰かわたしのかわりに涼くんに好きを教えてくれないものだろうか、なんて情けないことを思うこともあるくらいなんだから。


「……早めに帰るけど、それでもいいなら」


「いいよ! もちろん!」


 わかりやすく嬉しいという感情を向けられて戸惑う。こんな風に喜んでもらえるのを見るのはいつぶりだろう。少なくとも涼くんのこんな顔は見たことがない。わたしじゃない誰かになら見せることもあるんだろうか。


 そうだ涼くんに連絡しなきゃと思って、携帯を忘れて来たことに気づく。充電器に繋いでそのままだった。……まあいいか。涼くんが今日飲み会だって言ってたのは本当だ。夕飯はいらないと言われてたし。わたしが遅くなっても問題はない。そもそもわたしが遅く帰っても気づかないだろう。残念ながら。


 わたしはどこか後ろめたい気持ちで開けかけたバッグの口を閉めた。


      *+*


「かんぱーい」


 連れて来られた居酒屋の一角に集まっていたのは十人くらいで、知ってる顔も何人かいる。女の子が多いくらいで、その女の子たちにずっと話したかったんだー、と言われてちょっとホッとする。綺麗な髪、綺麗なお化粧、綺麗な服。みんな可愛くしているな、と自分を顧みる。白の綿シャツにスキニージーンズ。最初はオシャレしようとしてみたけど、殆ど着る機会がないままクローゼットの中だ。おさんどんに綺麗な服は不要だったから。


「ねーねー。野宮さんって有馬くんと小学校から一緒だったんでしょ? 有馬くんって小さいときからあんな感じだったの?」


「あんな感じ?」


「クールで格好良くて頭よくて!」


「うん、そう、だね」


 無口で孤高という方がイメージには近いけど、まあその通りだ。


「そうなんだー、じゃあやっぱりモテてた?」


「それは、まあ」


「やっぱり! えー、じゃあ野宮さん嫌がらせされたりしなかった? 昔から仲良かったんでしょう?」


「仲良いっていうか、幼馴染み、だから」


 何人かの女の子に囲まれるようにされて、どんどん風向きがおかしな方に行く。なるほど。そういうことか。目が、笑ってない。


「でもさ、幼馴染みってそんなにずっと仲良く一緒にいるー? 付き合ってるわけじゃないんだよね?」


「あんまり一緒にいない方がいいんじゃない? 結構恨まれてるよ。野宮さんだってよく見ればまあまあ整った顔してるしスタイルだっていいんだからさあ、他にも目を向けた方がいいんじゃないかな」


「そうそう、もったいないよー。服とかあ、お化粧とかもう少し気を使ったらきっと化けるタイプだと思うー」


「ねえねえ知ってる? 医学部の梶谷さんも有馬くんのこと狙ってるらしいよ」


「え、あのどこかの大病院のオジョーサマだよね? え、じゃあ逆玉じゃん」


「今日やっと飲み会誘えたんだーって言いふらしてた。お持ち帰りするんだって」


「え、どっちがお持ち帰りするの?」


「ちょっとやだー!」


 これは遠回しな牽制だろうか。それとも心からの善意? 図りかねて曖昧に微笑む。やっぱり来るんじゃなかったなって思い始めたのは何となく青山くんとわたしを二人にしてあげようって空気を感じた頃だった。「何飲んでるのー?」という言葉とともに彼に勝手に口をつけられてしまったわたしのサワーはもう飲む気にはなれなかった。他の人曰く見た目は悪くないしまあまあ真面目だし性格も悪くない方──なんだろうけど、わたしの好みではないし、それにデリカシーのなさで全て台無しだ。


 やっぱり来るんじゃなかった。もう帰ってもいいだろうか。いいよね、早めに帰るって言ってあったし。


「ごめん、わたしそろそろ帰るね」


 えー、もう? という女の子たちの言葉が本当なのかもわからない。あっさりじゃあまたねー、と口にするところを見るともう彼女たちはわたしに用はないんだろう。提示されたお金を払ってさっさと立ち上がったわたしに次いで青山くんもなぜか幹事の子にお金を渡して立ち上がる。なんだろう、と見上げるとにこやかに笑った。


「駅まで送るよ」


「いいよ、大丈夫」


「誘ったの俺だし、何かあったら大変だから」


「ないよ。一人で平気」


「いいから、行こう」


 そうしてもらいなよー、というみんなの言葉に押されるようにして、気がつけば駅への道のりを隣りに青山くんが歩いていた。何だか落ち着かない。隣りにいるのが涼くんじゃないことが。


「野宮ちゃんって休みの日なにしてんの」


「え、掃除とか課題とか、本、読んだりとか?」


 以前は季節ごとに綺麗な風景を見に涼くんを誘ったりしてたけど、成果が得られなかったのでやめたのだ。今はご飯を作りに行っては何が好き? と聞いている。答えはもちろん「なんでもいい」だ。作ったものを前にこれ好き? もやったな。答えは確か「まあまあ」。頷くならいい方だ。好きな映画バージョンも好きな本バージョンも撃沈。他に何かあるかな。動物もやったし花もやった。


「今度一緒に出かけない? 映画とか」


「え?」


 足を止めて、青山くんの顔を見上げる。その顔は少し赤いような気がした。


「どうして?」


「え? どうして? って、そのー、前から野宮ちゃんのこといいなーって思ってて」


 がしがし、と照れ隠しのように髪をかき上げる青山くんを信じられない思いで見返した。


「……どこが?」


「え?」


「わたしの、どこが?」


「どこ……、あ、ほら、前テスト前にノート見せてもらったり、」


 ふと思い出す。あれは無理矢理持って行かれたのではなかったか。返って来たのはテスト当日だった。最悪だと思った覚えがある。


「食券買うのにこまかいのなくて困ってたら、貸してくれたし」


 それは、あったかもしれない。でもあれも結構問答無用だったよね。わたしの前に青山くんが立ってて、わたしのお財布を覗き込んで持ってた千円を「貸して」と奪い取って行ったのだ。返って来たのは……自分でもすっかり忘れた頃だった気がする。あれはひったくりに近かった。あんまり堂々とやられたんで気がつかなかったけど。


「あと、雨の日に駅まで傘に入れてくれて……」


 あれは入れてあげたのではない。ごめん駅まで入れてと無理矢理入って来たのだ。背の高さを考慮しないその歩き方でわたしはほとんど濡れてしまい、しかも風邪をひいて寝込んでしまった。デリカシーのない人だ、とこのあたりから思い始めたんだっけ。我ながら気づくのが遅い。


「優しくていい子だなって」


「……え、そんなことで?」


「そんなこと、って、結構すごいと思うけど。いや、そういうところもいいと思うんだけど」


 嘘でしょう。そんなことでいいの? そんなの涼くんには日常茶飯事だ。このくらいで好意を持たれるのならとっくに彼はわたしを好きになっていていいはずだ。参考にならない! しかもいずれも青山くんのためにやったことでもない。半ば無理矢理だ。全部。これっぽっちの好意もなく。


 ──待って、もしかしてそれ? 見返りを求めなかったから? わたしはいつも涼くんに好きになってもらいたくて色々してきたけど、それはもしかして全部逆効果だったんじゃない? 下心がないからこそ相手に届くものがあるんじゃないだろうか。え、今更!?


「……そんな。どうしたらいいの」


「え?」


 本当の好きも知らないくせに、好きになって欲しくて毎日押しかける女がいたらそれはウザいだろう。でも、だからってもはやどうしたらいいのかわからない。最悪だ。わたしは最初から間違ってたんだ。


 そのまま悩み込んでしまったわたしは、いつの間にかマンションの近くまで来てしまっていたらしい。いつ電車を乗り降りしたのかも覚えてなかった。


「野宮ちゃん?」


「え? あれ? 青山くん? 駅までって言ってなかった?」


 とっくにいなくなってると思っていた青山くんが隣りにいてびっくりする。青山くんは苦笑しながら肩をすくめてみせた。


「うわ。ひでえ。俺返事もらってないんだけど」


「返事? え、あ、ごめんなさい。映画のこと? ごめんなさい。行かない」


 我ながらきっぱりお断りできたと思ったのに、青山くんはまったくそう思わなかったみたいにへらりと笑った。


「あ、映画嫌い? 水族館とか、別のところでもいいよ、野宮ちゃんの行きたいところで」


 問答無用でぐいぐい押してくる青山くんに、足を止めてため息をついた。一ミリも心は動かない。これは好きじゃないからだ。多分。ひょっとしたら付き合ってみれば変わるかも、なんてことも思わないくらいだし。


「ね、いつが暇?」


「そうじゃなくて、青山くんと一緒にはどこにも行かない」


 駄目押しのようにきっぱりと告げたその言葉に、さすがにへらへらしていた青山くんの空気がふっと変わる。──悪い方に。


「はあ? それひどくない? ここまで気を持たせておいて」


「持たせてないと思うけどそう思ったならごめんなさい。それじゃあ」


 マンションに入ろうとしたそのとき、無遠慮に左手を掴まれる。非難を込めて睨み上げたけど、青山くんは悪びれた様子もなく手を離そうともしなかった。


「待って待って。怒っちゃった? ごめんごめん。ねえ、これから飲みにいこうよ。俺のこともっとちゃんと知って欲しいし」


 知って好きになれるなら、もうとっくにわたしと涼くんは恋人同士だ。でも実際にはそうはいかない。


「悪いけど、わたし……」


「有馬はぜったい野宮ちゃんのものにはならないと思うよ。俺にしときなよ」


「そんなこと知ってる」


 わたしは涼くんを自分のものにしたいわけじゃない。もうわたしを好きになってくれなくてもいい。別な人でもいい。どんな好きでもいいから涼くんをこの世につなぎ止めて欲しいだけだ。あの賭けのことを知ってるのはわたしだけなんだから、負けたら寝覚めが悪いじゃない。一生後悔しながら涼くんを忘れられずに生きていくなんてまっぴらだ。わたしだって普通に幸せになりたい。


「俺ホントに野宮ちゃんのこと好きなんだ」


 本当だろうか。この人と付き合ったら便利に使われる未来しか思い浮かばないんだけど。


「……あの……」


 今まさにお断りしようとしたとき、マンションのエントランスの扉が開く。


「──遅い」


「涼くん。どこ行くの?」


「コンビニに行くつもりだったけど、ひかりが帰って来たからもういい」


「え、有馬? 有馬がなんで?」


 涼くんは既にラフな格好で、酒精もあんまり感じられないところをみると、飲み会に行かなかったか早々に帰って来ていたのだろう。人の多いところ嫌いだもんね。


「携帯、忘れただろ。携帯の意味、わかってないんじゃないの」


「わかってるよ。今日はたまたま」


 でも殆ど用を成してないから時々忘れちゃうんだよ。あんまり減らないんで時々しか充電しないから、こうしてうっかり忘れてしまったんだ。そういう時に限って必要になるもんなんだよね。


「うわ、有馬結構怖いんだね。もっと人のことなんか気にしないタイプかと思ってたよ」


「誰」


「あ、俺野宮ちゃんと同じゼミの青山っていうんだけど」


 涼くんは相変わらず無表情に、わたしと青山くんと青山くんに掴まれたままの手を見やった。その視線の意味はわからなかったけど、とりあえず彼の名前になんかこれっぽっちも興味はないようだった。掴まれたままのわたしの手にも。


「お腹、空いたんだけど」


「え? 今日いらないって言ってなかった?」


「食べないで帰って来た」


 食べるものがなかったか、出てくる前に帰って来たんだろう。知らない人と食べ物をシェアするのも嫌いだし、なかなかに偏食王だし。


「え、どういうこと? なんで野宮ちゃんが有馬のご飯作るの? え、有馬と野宮ちゃん付き合ってんの?」


「まさか」


「付き合ってない」


 わたしと涼くんの返事は殆ど同時だった。断定されると……なんとなく傷つ……かないな。もう。状況が見えずに困惑する青山くんを尻目に、冷蔵庫に何があったか考える。こんな時間だし、簡単なものでいいよね。冷凍庫に入ってるご飯でチャーハンとか雑炊とか。レタスチャーハンと鮭雑炊どっちがいいだろう。


「ねえねえ、じゃあなんで? 有馬もここに住んでるの? もしかして同棲?」


「マンションが同じなだけ。幼馴染みだって言ったでしょ。親同士が仲良くて」


「──あ、なんだ。そうなんだ。だよねー、有馬が野宮ちゃんとかありえないよねー」


 この発言で本気でわたしと付き合いたいと思っているのならちょっと正気を疑う。わたしがイラッとしたことにも気づかずに青山くんはわたしの手を引いて肩を抱き寄せた。ぞわりと全身に不快感が走る。それでも愚かにも頭の片隅にちょっとだけ涼くんが気にしてくれやしないだろうか──と思ったものの、視界に入った涼くんは、いつもの涼くんだった。デスヨネー。


 涼くんがやきもちとかありえない。馬鹿だなー、わたし。心の中のもやもやが大きくなってぐるぐるする。


 どす黒い、なにかが。


「ひかり、早く」


 苛々する。


「じゃあ飲みにいこっか。野宮ちゃん」


 無遠慮なその手が、ただただ気持ち悪い。そして涼くんの無感情なその目に、全身がカッとなる。もちろん、怒りで。


「行かない」


「え?」


「行かないって言ってるでしょ。離して」


「え、急にどうしたの? 照れちゃった?」


 無言のまま肩を掴んでいた手を払い、襟首を掴んでそのまま地面に転がす。青山くんはぽかんとしたまま地面に仰向けになった。都会に行くなら護身術、とおばあちゃんに教えてもらったことがまさか活かせる日が来るなんて思ってもみなかった。


「青山くんとは付き合わないし、涼くんのご飯ももう作らない! わたしだって……わたしだって自分のために生きる権利、あると思う」


「の、野宮ちゃん?」


「……ひかり?」


「わたし、もう無理! 涼くんなんて、涼くんなんて……嫌い。大っ嫌い!」


 言ってやった。とうとう言ってやった。わたしがずっと言いたかったのはこれだったんだと思った。でもこれ以上涼くんを見たくなくて、なんだかすごく居たたまれなくて、自分がとても極悪非道な人間になったような気がして、とにかくその場から逃げるように駆け出した。行く場所なんて思い浮かばなかった。こんなときに相談したい友達も思い浮かばなかった。わたしには涼くんしかいなくて、涼くんしか見てなくて、ずっと「好き」を教えるためだけにここまで生きて来て……、空っぽだったんだ。


 馬鹿みたい。わたし、ホント馬鹿みたい。


 これで涼くんが死んじゃったらわたしには何も残らない。失敗して、失って、後悔だけが残るだけ。


 涙が滲みかけたときヒールがガクッと傾いで、転びかけた体勢を危ういところで立て直す。危なかった。


 そこでようやく足を止めて辺りを見回した。どこだろう、ここ。ただ闇雲に走って来たから方向がよくわからない。しばらく行くと小さな公園……いや、神社かな。境内が公園風になってるんだ……を見つけて、お参りしてからベンチじゃなくて、ブランコに座った。


 こんなとこあったんだ。


 わたし、こんな風に一人でゆっくり周りを見ることなんてあっただろうか。──なかった気がする。ぐるりと大きな木々で囲われたここは数本の街灯しかなくて暗いけど空気が澄んでいて、不思議とあんまり怖くなかった。


「ブランコなんて乗るのいつぶりだろ」


 ゆっくり漕ぎ出すと、キイっと鎖の擦れる音がする。近所にあった公園を思い出す。昔よく涼くんと遊んだなあ。ブランコは人気だからなかなか空かなくて、空くと涼くんが真っ先にわたしを乗せてくれたんだ。座ってるわたしを挟むようにして涼くんが立ち漕ぎして、……楽しかったなあ。大好きだった。


「大っ嫌い、って言っちゃった」


 好きがわからないんだから、きっと嫌いもわからないんだろう。そう考えるとわたしのさっきの言葉は何一つ涼くんには届いていないに違いない。そう考えるとちょっと空しい。


「これからどうしようかな」


 そうか。これからは涼くんのために使ってた時間を全部自分のために使えるんだ。すごい。どうしよう。何しよう。涼くんが絡まない自分の、したいこと。なんだろう。何かあるかな。


「──オシャレカフェに行く。積んである本をご飯の時間なんか気にしないで読んで朝寝坊する。それと……一人で映画を観に行く。そうだ。涼くんの嫌いなものでわたしが食べたかったもの食べに行こうかな。お寿司とか海鮮丼とか、ハンバーガーとポテトとコーラとかもんじゃ焼きとか。それから休日は部屋着で一日中だらだらしたり、ご飯の代わりにお菓子食べたりして、洗濯だって掃除だって買い物だってさぼっちゃおう。そうそう、シャツのアイロンだってもう毎日かけなくていいんだ。朝起こしに行かなくてもいいし、お弁当だって作らなくていい。……いいことばっかりじゃない」


 なのにどうしてだろう。モヤモヤするのは。心から喜べないのは。言いたいこと言ってスッキリしたはずなのに、また違う何かが胸を塞いでいる。


「飲み会にも行こう。合コンにも行こう。男は涼くんだけじゃないんだし、きっとどこかにわたしのこと好きになってくれたり、わたしが好きになれる人だっているはずだよね」


 いるのかな、そんな人。目の縁が熱くなって、誤摩化すように空を見上げる。星が滲みかけたとき左右のブランコの鎖を後ろから乱暴に掴まれて、大きく撓んで……止められた。反動でゆらゆらと小さく揺れる。わたしの心みたいに。


「ひかり」


「……涼くん……」


 わたしを探しに来たんだろうか。珍しいこともあるものだ。そんなにお腹がすいているんだろうか。顔をみて言うのはまだ少しだけ勇気がいるから、前を向いて涼くんを見ないまま口を開く。


「わたし、もうやめるね。色々」


「どうして」


「じゃあ好きって言ってみて?」


「……」


「あのね、死神、聞こえてる? ギリギリのリタイアで申し訳ないけど、好きを教えるのは別な人を探してくれないかな。大丈夫。涼くんに好きを教えたい人はたくさんいると思うから」


 ギッ、と嫌な音を立ててブランコの動きが完全に止まった。止められた。


「約束したのはひかりだろ」


 感情の見えない固い声。どういうつもりでその言葉を言うんだろう。その約束が守れないことを一番よく知っているのは涼くんのはずなのに。


「ごめんね。でももう無理だよ。わたしができることは全部やったもん。なのに今もわたしのこと好きじゃないってことは、涼くんはわたしのことを好きになることはこの先絶対ないんだよ」


 鼻の奥がツンとして、涙がこみ上げようとして、それを必死に堪える。ここで泣いたらダメだ。


「……」


「どうして追いかけて来たの? ご飯作ってもらえないと困るから? アイロンがけも掃除もしてもらえなくて不便になるのが嫌だから? 悪いけど、もうやらないって決めたから!」


「俺が、死んでも?」


 その返しはズルい。何回、何百回そのことについて考えて来ただろう。考えて考えて考え抜いたからこそ、出した答えなのに。


「このままの生活を続けてても同じだよ。涼くんは死ぬ。だってわたしのことを好きにはならないから。だったら少しの望みにかけてここで手を離した方がいいと思う。まだ少しは時間があるから、なるべく外に出て、たくさんの人に会ったらといいと思う」


 もうじき最後の花びらが消えてしまう。ここでわたしが手を引けば明日あっさり涼くんが一目惚れで恋に落ちることがないとは言えない。悲しいけど。


「マンションも引っ越すね。わたしにはもうあそこに住む権利はないと思うし」


「……ひかりの思うその気持ちってどういうの」


「え?」


 見上げると、背後から涼くんがわたしを見下ろしていた。背中に月があるせいか、顔がよく見えなかった。まるであの死神と会ったときみたいに。


「その気持ちって、〝好き〟って気持ちのこと?」


「うん」


「涼くんの〝好き〟とは違うと思うけど」


「かまわない」


「わたしも、よくわからないんだよ」


「かまわない」


「……わたしはね──ずっと見ていたいし、ずっとそばにいたいし、思うだけで気持ちが温かくなったり、逆に叫びだしたくなったりするよ。嬉しいのに苦しかったり悲しくなったり泣きたくなったりする、そういう、自分ではどうしようもない気持ち、かな。遠いようで近くて、近いようで遠いの」


 言ってるうちに自分でもよくわからなくなる。涼くんは黙ったまま何を考えているのかわからなかった。聞いて、やっぱり自分にはあてはまらないと思っているんだろうか。結局涼くんが何を考えているかなんてわたしにはいつだってわからないんだ。


「あと、相手には笑ってて欲しい。我が儘いうならわたしの前で、いちばん笑顔になって欲しい」


 相手がいるから幸せだと思って欲しい。ああ、この時点でもうダメだ。涼くんが幸せそうにしてるところなんて見たことない。


「わたし、好き、って、もっと幸せばっかりだと思ってた。でも気づいたら辛い方が多い気がする。どうして字が似てるのかわからなかったんだけど、そういうことなのかな。表裏一体なのかな」


 両思いなら違うのかな。でもそれは、きっと今のわたしにはわからない。ひょっとしたら一生。ううう。何だか語れば語るほどドツボに嵌る感じがする。つらい。


「もう、いい?」


 立ち上がって歩き出そうとしたとき、涼くんの手がわたしの左手を掴んだ。振り返ると掴まれたわたしより掴んだ涼くんの方が吃驚していて思わず二人とも眉を顰める。


 まだ何か用なのか、と口を開くよりも先に、なぜか涼くんが掴んだままの手を親指でわたしの手の甲をするりと撫でた。


「それはあいつのことなのか」


「あいつ? って、誰」


「さっきの」


「……な……! あるわけないでしょ。見てたでしょ。わたし華麗に投げ飛ばしたんだよ。好きな人にそんなことしないよ!」


「あいつがこの手を掴んでるのを見たとき、モヤモヤした」


 このあたりが、と空いている方の手で自分の胸を押さえる。あいつ、って青山くんのことだろうか。そういえば彼はあの後どうしたんだろう。ちゃんと柔らかく投げたはずだけど、怪我とか大丈夫だったかな。


「これはどういう気持ちだと思う」


「は? ……さあ。知らない」


 さすがにここでやきもち、と思えるほどのうぬぼれはわたしにはなかった。いいとこ便利な召使いを取り上げられそうになった憤りとかそんな程度だろう。わたしに彼氏が出来たら涼くんの面倒を見る時間なんてなくなっちゃうもんね。


「教えてよ」


「無理! 無理だよ! 涼くんの気持ちは涼くんにしかわからないもの。だいたいねえ! 好きな気持ちなんて人に教えられるものじゃないんだよ! 自分で自覚しなきゃ意味ないの。こんなの、今更だけど」


「ひかり」


「そうだよ、今更すぎるよ!」


 だって仕方ない。小学生にはわからなかった。どういうことが〝好き〟かなんて。今だってわかってるとは言い難いけどこれだけはわかる。〝好き〟は誰かに教えてもらうものじゃない。


「教えてあげられなくて、ごめん。本当に、ごめんなさい。あの時のわたしは本当に涼くんのことが好きだったから、だから本気で助けたかったんだけど、こんな風になるなら、最初から、助けない方がよかったのかなあ?」


 〝好き〟どころか笑顔すらわたしは涼くんにあげられなかった。さっき堪えたはずの涙が堰を切ったように溢れ出す。ずっと人前でなんか泣いたことなかったのに。こんなふうに涼くんの前でみっともなくボロボロ泣くなんて。


「ひかり」


「なによ!」


「どうしてひかりが泣くんだ」


「そんなの自分が不甲斐ないからに決まってるでしょ!」


 わたしは左手を掴まれたまま、右手で涼くんの襟元を掴んで引き寄せた。


「ちょっと死神、聞いてる? 賭けはわたしの負け。でもお願い。わたしの寿命を涼くんにあげて。わたしの命を持って行って!」


「ひかり? 何を……」


「ねえ、お願い。わたしの火を涼くんにあげて。お願いします」


 わたしが負けたせいで涼くんが死ぬなら、きっとこの方がいい。涼くんはこれからお医者さんになってたくさんの人を救ってあげるんだから。わたしの命の何倍も価値がある。人の命は公平なんていうけどあれ嘘だよね。全部等しいなんてそんなことありえない。死神だって言ってたじゃない。魂によって得られる命の長さが違うって。涼くんの命の火はきっとレアな一年分のやつなんだ。ああ、じゃあわたしの火ではそんなに長く生きられないかもしれないな。それでも、今終わるよりずっといい。


「死神ーっ!」


 こんなことになるなら呼び出し方を聞いておくんだった──と思ったころ、いきなり涼くんの身体がふらりとわたしに伸しかかる。驚く間もなくわたしの耳元で声が響いた。


「相変わらず予想外なことをするな、君は」


「死神!」


 やっぱりいたんだ。夢じゃなかったんだ。顔を見ようとしたけど抱きしめられたまま動きを封じられる。この位置だと声が耳にかかってぞわぞわするんだけど、少し離れてくれないかな。


「命の譲渡、って、それ本気?」


「本気」


「どうして?」


「……罪悪感持ったまま生きて行きたくないからに決まってるでしょう」


「じゃあ記憶を消してあげるよ。それなら譲渡しなくてもよくない?」


「よくない! そんなことしたって心のどこかはきっと覚えてる。そして……もし万が一思い出したときわたしはわたしが許せなくなる」


「──人は、面倒くさいね」


「あなただって人じゃない」


「僕は違うよ」


 そうだった。でも元は人だったんじゃなかったっけ。違ったっけ。好きを知らない生き物なのかな。そんな生き物いるのかな。それとも死んだら〝好き〟を忘れてしまうんだろうか。ううんそんなはず、ない。恨んで出てくる幽霊がいるくらいだ。〝好き〟だって気持ちだってきっとなくならない。


「譲渡ってできるの?」


「できるよ」


 意外とあっさり答えてくれたことに拍子抜けする。そうか。できるのか。良かった。


「どうすればいいの?」


「君が彼にキスすればいいんだ。簡単でしょ」


「はあ? キスう!?」


 簡単か簡単でないかといわれれば、わたしにはかなりハードルが高いと言わざるを得ない。でもそれで譲渡できるなら簡単は簡単だ。えいって一瞬ですむ。


「ただ口を合わせるだけじゃダメだよ。相手に生きて欲しいと強く思いながらじゃないと」


 またしてもわたしの考えなんかお見通し、みたいに死神が言う。キス? わたしが涼くんにキス? え、これって役得だと思えばいいの? 神様が最後にくれたプレゼント? いや、でもこれはキスじゃなくてマウストゥマウスだよね。救命措置だし。涼くんだって許してくれるよね。自分の顔が真っ赤になっているであろうことがわかる。顔が、熱い。


「相変わらず変な子だなあ。大嫌いなんじゃなかったの」


「相手を想うという意味では好きも嫌いも同じようなものでしょ」


 二十四時間三百六十五日ずっと好きだなんてそんなことあるわけがない。嫌いより好きの方が少しだけ多いから、一緒にいたいと思うんじゃないかな。でもこんなこと理解してもらえるとは思えない。


「後悔しない?」


「しない。生きていて欲しいと思うくらいには、今も大切だからね。涼くんのこと」


「わかった」


 そこでようやく死神がわたしから離れた。真っ黒な表情がわたしを見下ろしている。目も鼻も口もどこにあるのかわからない。


「それじゃキスできないよ?」


「そうだね」


 瞬きする間に、涼くんの顔が現れる。目を閉じたままだ。その方がいい。


「死神、少ししゃがんで」


「注文が多いね」


 仕方ないじゃない。届かないんだから。涼くんはすくすく成長したけどわたしはたいして伸びなかったのだ。わたしが男だったら涼くんにはもっと深刻なコンプレックスを抱いていただろう。その前に好きを教えることが無理になっていただろうけど。びーでえるになってしまう。あ、友達の好きでいいのか? ということはわたし涼くんにとって友達でもなかったってことなのかな。凹む。


 死神がブランコに座ってくれた。わたしはそれを見下ろす格好になる。震えそうになる両手を伸ばして涼くんの顔に触れて、こんな時間なのにすべすべだなあ、と無関係なことを思いながらその顔を少し上げさせた。


 いつでも出て行けるように部屋はちゃんと片付けてある。見られてマズいものはない。大丈夫。お父さんお母さん先立つ不孝をお許し下さい。


「涼くん。……大好きだよ」


 考えるよりも先に口をついて出たその言葉に、わかった。わたしまだ好きだった。涼くんのこと。好きすぎてわかんなくなってただけで。まだこんなに、溢れるくらい、涼くんのこと好きなんだ。


 少しずつ顔を近づけて行き、もう少し、というところでわたしの唇を涼くんの手のひらが止めた。ぎろりと氷の女王もかくや、という眼差しを向けられる。


「何してる」


「え、えっと、あの、ちょっと! ちょっとだから我慢してえーっ!」


「なにがちょっとだから我慢しろだ」


「痛くないよ、一瞬だよ!」


「うるさい」


 実際は塞がれてるからもごもごくぐもった声になっていたと思う。なのに涼くんにはちゃんと伝わったみたいだった。でもわたしを見る涼くんの目はこの上なく冷ややかで、ああ怒ってるんだなってしゅんとなる。だってホントに注射より痛くない。一瞬ですむはずだ。その際生じる嫌悪感はともかく。あ、そこ重要か。嫌だよね。わたしだって青山くんに無理矢理キスされたら嫌だ。


「俺が! お前の命なんかもらうわけないだろ」


 がん、と頭を殴られたみたいだった。胸の中が嫌な感じにひやりとした。そんなに嫌われてたんだ。知らなかった。それなのにわたしは調子に乗っていつまでもそばにいようとしたんだ。ああもう恥ずかしくて消えちゃいたい。わたしの命で許してもらえないだろうか。ダメか! 一瞬のキスすら拒否されるくらいなんだから。


「おい」


 涼くんの手が離れて、さみしい──と思う間もなく少し乱暴に目元を拭われる。怒った顔のままだ。わけがわからない。


「だから、なんで泣くんだ」


「ごめん。今日涙腺が壊れちゃったみたいで、ええと……ごめん、そんなに嫌われてるなんて思わなかったから。その、申し訳なくて」


 慌てて自分の両手で目を拭った。ホントだ。わたし今日、泣きすぎ。


「嫌ってない」


「え? だって……」


「嫌ってない」


「でも、嫌いじゃないだけで好きでもないんでしょう」


「それは……」


 隙をついて、再びガッと涼くんの顔を掴んで無理矢理顔を近づける。すると涼くんが近づけまいとわたしの肩を掴んで後ろに押す。なんて往生際の悪い。これはどう見ても戦いだ。勝つか負けるか。間違ってもキスをするシチュエーションではない。違う意味でどきどきしてるけど。


「手を離してよ! もうこのくらいしかわたしが涼くんにしてあげられることなんてないんだからっ」


「ないわけないだろう! お前さっきなんて言った」


「手を離して?」


「違う」


「そんなに嫌われてるなんて思わなかった?」


「もっと前だ」


「我慢して?」


「わざとか! その前だ!」


 珍しい。涼くんが叫んでる。涼くんが大きな声を出したのを見たのはいつが最後だろう。覚えてないくらいずっと昔だ。


「涼くん?」


「絶対わざとだな。そのあとだ」


 くっきりと眉間に皺を寄せてわたしに詰め寄る。わたしはこてりと首を傾げた。


「……大好き?」


「それだ。……いつから」


 ここは、怒ってもいいところじゃないだろうか。鈍いにもほどがあるよね?


「いつから? いつからって最初からだよ! ……あの事故の、ずっと前から」


「聞いてない」


「そうだっけ? ええっと、でもわかるよね、普通」


 わたしを知らない人だって、わたしが涼くんのこと好きだって知ってたんだ。だから嫌がらせされたんだから。なのに当の本人が知らないとか!


「わからない」


 なぜ! 今度はわたしが食い入るように涼くんを見つめる。あれが、わからなかった、だと? 知っててスルーされてるんだと思って悲しんで来たわたしの歳月はいったい。


「じゃあ、じゃあ今までわたしが涼くんの傍にいて、色々しているのはどうしてだと思ってたの」


「親に頼まれたからだと思ってた」


「はあああー?」


 そりゃあね、頼まれましたよ。「涼のこと、よろしくね」って。でもそんなこと普通の挨拶でしょう。社交辞令でしょう。ずっと頼まれたからの献身だと思われてたわけ? 嫌々やっていると思ってたわけ? ありえない。もうどこまでも本当にがっかりだ。


「頼まれたからってあんなに一生懸命やるわけないでしょう!」


 文字通りおはようからおやすみまで。どう考えても無料の家政婦さんだった。まずは胃袋から、とか思ったわたし浅はかだった。別方向には成功してるみたいだけど。


「いい? 親以外で金銭のやり取りもなく、色々してくれる人がいたらそれは下心があるからだから! これテストに出るから! 覚えておいた方がいいよ」


 とりあえず自分のことは完全に棚上げして忠告すると、涼くんはジッとわたしを見据えた。


「ひかりもあるのか。下心」


「……あったよ」


「言えよ」


 言わせるのか。ここまで来て。これはどんな恥ずかしめだ。もしくは嫌がらせ。でももう最後。これが最後なんだから。


 わたしは左手で胸元のシャツを無意識に掴んだ。この下には最後の花弁がある。最後の一枚。これあのお話の葉っぱみたいに書いたら延命されないかな。消えないように入れ墨とかで。もし叶うなら入れてもいい。リスクも痛みも我慢するのに。


「ひかり」


「……涼くんに、好きになってもらいたかった。〝好き〟って言わせたかった。だって、大好きだったから」


 ぽつり、と地面に落ちたその言葉に涼くんは目を見張った。驚いたんだろうか。呆れたんだろうか。とうとう言ってしまった。俯いて自分の靴の先をただ見つめ続ける。このまま立ち去ってくれないかな。武士の情けで。武士じゃないけど。そしたら、泣く。泣いて泣いて泣いて、そして……わたしは涼くんを見捨てるんだ。


 ──ごめんね。


「全然、知らなかった」


「ソーデスカ」


「知ってれば、俺……」


 一瞬頭がフリーズする。ええと、わたし涼くんは死神とわたしの賭けを知らないと思っていたんだけど、ここまで知ってる前提で話してるよね? テンション上がってて気づかなかったけど、あれ?


「……ね、なんかちょっと、一応聞くんだけどひょっとして涼くん死神との賭けのこと、知ってたの?」


 涼くんは静かに頷いた。


「夢であいつに聞いた」


「な、なんて?」


「ひかりに本気で〝好き〟だと言わないと、死ぬんだろ。俺が」


「ええと……うん、そう、かな?」


 あれ? なんかニュアンス違う気が。気のせい?


「夢だと思ってたけど、ひかりの様子見てたら色々腑に落ちたから」


「え?」


「無理、してただろ」


「それは……。涼くんに死んで欲しくなかったし」


 それでも、知ってても言わなかったんだ。好き、って。どうして?


「だろ。あいつと賭けをしたから責任感じて嫌々やってると思ってた。ひかり、笑わなくなったし」


「え?」


 笑って、なかった? わたし。涼くんだけじゃなくて?


「でも、違ってたんだな」


 じゃり、と音がして涼くんが近づいてくるのがわかった。なんで? と顔を上げると大きな背を屈ませて、涼くんの唇がわたしの唇に触れた。



「〝好き〟だよ。ひかり」



 一瞬の温もりを感じた唇に指で触れる。嘘。これ、夢?


「……嘘」


「嘘じゃない」


「嘘だよ。だって、いつから?」


「ひかりと同じだよ。ずっと前から──」


「嘘。じゃあどうしてずっと言ってくれなかったの?」


「義務や責任感で〝好き〟を教えようとしてる相手に言えるかよ!」


「……もう一回、言って」


 躊躇するようにたじろいで、それでも真剣に見つめるわたしに根負けしたように涼くんは口を開いた。


「好きだ」


 その瞬間涼くんの身体から光が迸る。ええっ、ええっ? なに! なんなのこれ!


 ガシャーン! と公園の電灯が弾ける。ひ、と硬直したわたしを涼くんが守るように抱きしめた。やがてまた耳に、囁く声。


「お疲れさま」


「……死神?」


 不自然なくらいに暗い公園内。あの日のトンネルの中みたいだ。何も見えない漆黒の闇。そしてやっぱり死神の姿はわかるのに顔は見えない。なのにまたやけに楽しそうに笑う気配だけが伝わって来た。


「頑張ってたよねえ。挙げ句の果てにこのスリッパ好き? って聞いてるの見た時には面白い通り越して可哀想になっちゃったよ。ね、どうしてわたしのこと好き? って聞かなかったの? そしたら賭けなんかすぐに終わったのに」


「聞けるわけないでしょう。そんな自信なかったもの。それを聞いてもし嫌いだ、とか迷惑だ、とか、嫌いじゃない、とか、そんなこと考えたこともないとか言われたらもう……、その時点でわたしが終わってたよ」


「──人はやっぱり面倒くさいね。おめでとう。賭けは君の、勝ちだ」


 死神はわたしのシャツのボタンを二つ外して。「何をするんだ!」と言う間もなく胸に残っていた花弁に口付けた。その瞬間、それが弾けるように砕け消える。


「〝好き〟を教えようとしてる君を見てるのが、〝好き〟だったよ」


 フッと笑う気配がして、その身体が離れようとしたのを感じて思わずその腕に縋り付いた。


「本当に、涼くんに全部あげちゃっていいの」


「そういう約束だったし」


 そうだ。確かにそうだ。そうしなければ涼くんは死んでしまう。何言ってるんだろう。何言ってるんだろうわたし。こんなの偽善でしかないのに、どうしてこの死神ひとが可哀想だなんて──。


「じゃあ、逝くね」


「待って! あの! ……ありがとう!」


「……え?」


「ありがとう。涼くんを助けてくれて。……あのね、わたし、あなたごと涼くんを好きでい続けるよ」


「僕、ごと?」


「うん。ずっと、好きだよ」


 沈黙。──沈黙。恥ずかしいこと言っちゃったな、と少し後悔し始めたころ、〝ありがとう〟という小さな声が聞こえた気がして顔を上げた。


「〝好き〟を教えてくれてありがとう」


 そのまますうっと溶け込むように影が涼くんの中に消えて行く。蛍みたいに瞬きのような光を放って。目の前にはいつもの、ううん、見たこともないような甘さを含んだ眼差しでわたしを見下ろしている涼くんがいた。でもちょっとだけムッとした顔でわたしのシャツのボタンを留め直す。一瞬だけ花が咲いていた辺りに触れてから。


 そしてわたしたちはもう一度キスをして、どちらともなく好きだと呟いたのだった。



fin.


 




 




























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