008 本当に奴隷商とか山賊なのか
(ああああ〜〜〜〜やらかした!! やーらーかーしーたー!! 恥ずかしいぃぃぃいい……あああ〜〜!!)
ガウルとエミリィの心配を他所に、エルは自室に引きこもってベッドの上で頭を抱え、ごろごろ転がって大暴れしていた。
エルが大暴れしている原因は主に2つだ。
お漏らしをしてしまった事。
そして、盛大な勘違いで大泣きしてしまった事だ。
お漏らしについてはある意味、仕方のない事でもあった。あの時のエルはガウルの姿を見て、実際にパニックに陥ってしまっていたからだ。
腰が抜けてへたり込んでしまい、下半身の力が抜けると同時に広がった生温い感覚。だが、あそこで「こらえろ」と言われても、パニックを起こしていたエルには無理だった訳で。
男女の構造的な違いもあり、エルの身体が幼女だったせいでコントロールが効かなかったという事もあり……お漏らしについては結局の所、どうしようもなかったのだ。
これに関しては子供を驚かすような事をしたガウルも悪いので、一概にエルが悪いという訳でもない。
だからと言って、悪くないし恥ずかしくないと開き直れる訳もなく。それ故にエルはこうして、ベッドでゴロゴロ転がりまわっているのだ。
幸いだったのは、朝のお手洗いを済ませた直後だったので量がそれほどでもなかったこと。
悪かったのは……美人である奴隷商の女性の服に、自らが漏らしたおしっこを思いっきり染み込ませてしまった事だ。
今思えば本当に恥ずかしい話ではあるのだが、パニックを起こしていたエルは立ち直ってからも平静ではいられず、抱きかかえてくれた奴隷商の女性に思いっきりしがみついてしまった。
そんな事を全く気にせず、落ち着いたエルの服を替えてくれたエミリィの優しさにエルは気付いていた。この人は、本当に優しい女性だ。
なんでこんな人が奴隷商なんてやっているのだろう? と思った所で、エルの中に一つの疑惑が過ぎった。……のだが、その事について考える前に、目の前で服を脱ぎだしたエミリィに気付いたエルは、慌てて毛布をかぶった。
(まさか……まさかあの状態から更に「着痩せ」なんて言葉が出てくるなんて……!?)
大きいとは思っていたが、実態はそれ以上だったらしい。ちらりと見えてしまったその姿に、エルは戦慄にも似た感情を覚えた。
エミリィに送ってもらい、自分の部屋に戻る。
外に山賊の頭が居たらどうしよう、とビクビクしていたが、幸いにもそんな事は無く無事に部屋に戻ることが出来た。
部屋に戻ったエルは、頭を抱えてベッドに転がる。
なんて事だ。――山賊の頭に、あわせる顔がない。
……確かに、振り返ったエルの前に居た山賊の頭は恐ろしかった。人相は悪いわ、服装はどう見ても山賊だわ、挙句の果てに返り血を浴びて刃物まで構えていたのだから。
本能的に恐怖を感じ、パニックに陥って泣き叫んでしまったのも仕方のない事だろう。
一歩踏み出された時など腰が抜けて、そのままおしっこまで漏らしてしまったくらいだ。
だが、そこでエルは気付いたのだ。
山賊の頭が投げ捨てた物が、鉈のような刃物と……でかい魚だという事に。
(え? ……魚?)
床に転がっているそれは、まぎれもなく魚だった。
かなりサイズが大きく、10kg近くはあるだろう。皮の色こそ赤黒いものの、見た目はブリのような青物系のフォルムをしている。内臓が取り出されているというのに腹はパンパンに膨らんでおり、見るからに脂の乗った一尾だ。
身を見てみないとわからないが、刺身にしたらさぞかし美味しいだろう。前世で料理人の卵だったエルには、その魚の価値がしっかりと分かっていた。
(あれ……もしかして……)
気付いてから、じっくり観察してみる。
山賊の頭の服には、たしかに返り血が飛んでいる。
巨大な刃物と返り血を見て恐怖し、泣き叫んでお漏らしまでしてしまったのだが……よく見ると、その返り血は妙な赤黒さをしていた。
動物や人間の血が乾いた色とも少し違う。まるで、ついさっき付いたようなのに……やたらと赤黒いのだ。
そう、それはまるで……
(血合いの色だよな、アレ)
魚を捌くと出てくる、内臓を抜いた後の背骨にまとわりついた血の塊――血合い。血の塊に見えるそれは、正確には魚の腎臓で、さらに言えば正式な「血合い」とは別の部位を表す名称らしいのだが……エルは前世でそう習っていたし、周りもそう呼んでいたので、血合いと称している。
魚を捌くには、基本的にはまず頭を落とし、腹を割いて内蔵を抜き出す。その後、腹の中を流水でキレイに洗うのだが、背骨のくぼみにある血合いを取り除くために腹膜に包丁を入れて、歯ブラシなどでゴシゴシと擦る。
その際プルプルとした血の塊が飛び散る事はしばしば起こり……特に、大きな魚を捌いている時などは内蔵を取り除く作業を含めて、返り血を浴びたような姿になってしまう事も珍しくない。
前世のエルにも経験がある。バイトで、前掛けをしているから大丈夫だろう……と思って豪快にゴシゴシ血合い部分を洗ったら、思った以上に派手に飛び散ってしまい、私物のシャツを駄目にしてしまったのだ。
山賊の頭に点々とついていた返り血。あれは、まさにそういう物だったように思える。
更に言えば、あの鉈のような刃物。最初はその大きさから鉈か何かだと思っていたが、よくよく思い返せば鉈にしてはフォルムがおかしい。
どちらかと言えば、あの形は……出刃包丁に近い。
刃にべっとりとついていた脂は、間違いなくあの丸々と太った魚の物だろう。人間を斬った刃物なんて見たことはないが、魚を捌いた後の包丁なら前世で何度も目にしている。エルの前世は、料理人を目指した調理師の卵だったのだから。
あの脂のつき方は、旬のブリやカサゴのような脂の乗った魚を捌いた時の物に近いような気がする。当然ではあるが、目撃した魚の特徴に一致する。
つまり状況から察するに、山賊の頭は、魚を捌いていたのだ。
確かに怖い思いはしたけれど、思い返してみれば彼は、包丁も魚も投げ捨て大いに慌てていたように見える。エルを怖がらせようと考えてもいなかったのは明白だ。
……自分の感情が揺さぶられやすくなっている事、精神や心が幼い女の子の身体に引っ張られている事は、ここしばらくの生活の中でエル自身も自覚していた。
それについての嫌悪感や違和感はない。だって、今の自分は紛れもなく幼女なのだ。確かに前世の記憶や知識、人格は残っているのだが、そちらも自分であり、幼くあどけない女の子もまた自分である……エルは、そのように感じている。
なので、風の強い夜に一人でトイレに行けなかったり、奴隷商の女性に抱きしめられた時に興奮するより安らぎを感じてしまうのは、もはやそういう物だと思って受け入れていた。
しかし、これはそういうレベルの話ではない。
何もしていない相手に対して、取り乱してギャン泣きを披露した挙句、お漏らしまでしてしまったのだから。
(あああぁぁぁああ〜〜〜〜〜ッ……穴があったら入りたい……!!!)
恐怖から一転、あまりの恥ずかしさに山賊の頭を直視できなかったエルは、ちょうど飛び込んで抱きしめてくれたエミリィに思わずしがみつき、顔を埋めた。
恐怖から立ち直ったとは言え、かなり動揺していたので……一体「何」に顔を埋めていたのかまでは、エルは気付いていなかったが。
エミリィの部屋から自室へと移動する時には本当に緊張した。
もし、山賊の頭が部屋の外に居たとしたら……恥ずかし過ぎてどうにかなってしまうかもしれない。本当に自分勝手で申し訳のない事だが、しばらく顔を合わせられる自信がなかったのだ。
そんな事を思いながら、恥ずかしさから扉を固く閉ざした部屋のベッドの上で、盛大にごろごろと転げ回るエルだった。
暴れ疲れて眠ってしまったエルが目覚めたのは、夕方近くの事だった。
いつの間にか、枕元にはエミリィが座っている。合鍵でも使って入ったのだろう。
「ーーーーー、ーーー……?」
何事か語りかけてくる奴隷商の女性。
……いや。
(この人達、本当に奴隷商とか山賊なのか……?)
今日にも、ふと過ぎった疑念。
最初は商品である自分を大切にしてくれているだけだと思っていたが、それにしては、この人の優しさは度を過ぎている。
今朝の出来事だけを見ても、さすがにそれは分かる。
いや、この人だけではない。山賊の頭だと思っていたあの男も、見た目や服装こそ厳ついが……終始、エルに優しくしてくれていた。
乱暴なことなど、一度もされた覚えがない。
それどころか毎日美味しいご飯を食べさせてくれる。
そして……時折見せてくれる満足そうな笑顔にエルは見覚えがあった。
自分が料理人を目指そうと思ったきっかけ。憧れていたあの人が、人に美味しいものを食べさせて満足している時の表情。彼の笑顔は、雰囲気がそれにそっくりだったのだ。
(もしかしたら、すごくいい人たちに僕は助けられたんじゃないか……?)
大体、彼らが山賊の一味であると判断したきっかけは、山賊の頭の見た目だけである。
そう思うと、これまでのの自分の態度がものすごく失礼な物のように思えてきた。実際、失礼どころの騒ぎではないのだが。
(ちゃんと確認しよう。それで、もしそうだったとしたら……いや、そうじゃなかったとしても)
確認の方法は簡単だ。あの広間の喧騒を、確かめてみればいい。
荒くれ者たちが馬鹿騒ぎをしていれば、ここが山賊の砦であるのは間違いないだろう。
ただ、もし、あそこが今朝見たとおりの場所で、想像しているものと違ったとしたら。
(あの人に、ちゃんと、謝ろう)
エルは、そう心に決めた。
暫くして、エミリィが部屋に入ってきた。
見慣れない、そこそこ大きなカバンを背負っている。
「ーーーー、ーーーーーーーーーーー。ーーーーーーーー」
「あ、あの」
何を言うべきか。どのみち、言葉は伝わらないのだが……何かを言うべきだ、とエルは思った。
しかしエミリィは、エルの反応を待たずしてその小さな身体を抱き上げる。
「わわ」
「ーーーー。ーーーーーー、ーーーーー」
優しくエルに語りかけたエミリィは、部屋の扉を開いて廊下を進んでいく。
(ちょ、ちょっと待ってぇ……もしかして、今すぐあの人に引き合わされるのか!? いや、一人で行くよりも気楽だし心強いけれども……! こ、心の準備が……待ってぇ〜〜!!)
謝ろうと決意したというのに、急に訪れたシチュエーションに対してテンパってしまい、身体を硬くするエル。
それを感じ取ったエミリィは、少しだけ、ぎゅっ……とエルを抱く腕に力を込める。
大丈夫だ、と伝えられている気がして、少しだけ気持ちが楽になった。
そうこうしている間に広間――食堂に続く扉が見えてくる。
その先は既に喧騒に包まれており、大勢とまでは言わないが、そこそこの人数が居る事が分かった。
「ーーー……?」
扉の前で、エミリィはエルに声をかけた。
何を言われているかは分からないが……何となくエルは、こくんと頷く。
心の準備は、出来た……ような気がする。いや、出来たと思おう。
あとは、この扉の先を確認するだけだ。
エルの反応を見たエミリィは、片手でそっと扉を押し開ける。
開いた扉の隙間から、熱気と騒がしい声が一気に流れ込んでくる。
天井に吊るされた、室内を隅々まで照らす大きなランプの灯りに、エルは目を細めた。
そして、少しずつ目が慣れてきたエルの目に映ったもの。それは――
――大皿に盛られた料理を、楽しそうな表情で囲む若者たち。
――ジョッキを片手に隣の席の女性に話しかけては、蹴飛ばされて笑っている、ずんぐりむっくりとした髭面の男。
――カウンターに座って、目を閉じて料理を味わっている壮年の紳士。
――奥にあるテーブルに積み上げた本に埋もれ、膝の上に置いた本を読みながら料理をつまんでいる少女。
――その隣で、仲睦まじく料理をシェアしている老夫婦。
そして、カウンターの中に据え付けられた竈に中華鍋のようなフライパンを乗せ、炒め物をしている山賊の頭。
エルが初めて目にした宵闇亭の姿は、当然のことながら山賊の宴会場などではなく。
暖かいランプの光に照らされ、人々が思い思いの姿で料理を楽しむ。
そんな、前世のエルが大好きだったあの人の店にそっくりな雰囲気の、料理屋だった。
次話は本日18:00に更新予定です。