024 命名の儀
「う、うらやましい! ずるいわよガウル!」
「な、なんでぇ……!?」
エルの、初めて「はっきりと喋った」声を聞いたエミリィはしばし呆然とした後――裏庭で正座させているガウルの元へと突撃していった。
「私だって、エルちゃんにお姉ちゃんとか呼ばれたい!!」
「……はぁ、そうかよ」
急に自らの欲望を吐き出し始めたエミリィを見て、アホくさくなったガウルは正座をやめて立ち上がった。迷惑をかけたと思ったので素直に従っていたのだが、アホに折檻されるのも癪だ。
「で、どうやったの」
「わかんねえ。クーがよく分からねえこと言い出して、しばらくしたら……エルが頭突きしてきて、それからすぐに」
「……どういう事かしら?」
「さあなあ……」
エミリィは首を傾げながらエルとクーを見る。
エルはクーを頭に乗せて一方的に喋りかけているようだ。
エミリィは、エルを調べていて気付いた事がある。
いくらなんでも、言葉を理解できなさすぎるのだ。
エルは聡明な子だ。身だしなみはしっかりと整えられるし、普通の子供よりもしっかりしている。店の手伝いも上手で、謎の”エルのサービス”だって『何故やっているのか』が分からないだけで内容はちゃんとしたもの……どころか、一流の店でしか供されない類の物だ。それを、理解した上で行っている。掃除の手際も良い。
そんな子が、ごくごく簡単な単語……物や人の名前すら理解できないのは、おかしい。
この事から、エミリィは2つの仮説を立てた。
一つは、言語野の障害。人の霊子情報領域にある、言語を司る器官である言語野が、何らかの理由で機能不全に陥っているケース。
これを喪失すると、人は言葉を言葉として理解する事ができなくなってしまう。言葉が耳に届いても、脳がそれを処理できないのだ。
人が動物の鳴き声そのものは聞けても、それに込められた意味までは理解できないのと同じように、「何かパターンのある音を出しているな」くらいにしか認識できなくなってしまうので、この場合、当然だが言語を習得することはできない。
そして、二つ目は聴力障害。音か韻のどちらかが聞こえていないケースだ。
この場合、言語の習得には著しい問題がある。言語とは、音と韻の組み合わせだ。エミリィ達は自然にやっているが、音と韻は少しでもズレると別の意味の言葉になってしまったり、聞き取りづらかったり、そもそも聞き取れなかったりする。要は、滑舌のようなものだ。そのズレが”訛り”や方言独特のイントネーションを産んだりもするのだが……ここでは割愛する。
そのどちらかが聞こえないという事は、つまり、言語そのものを聞き取れていない事になる。同時に、自分が何を発声しているかも分からない。
お手本が聞き取れず、自分が何を発生しているかも分からない状態で言語を習得しろというのは、どだい無理な話だ。目隠しをされた状態で、お手本通りに絵を描けと言われているようなもので、お手本も見えない上に自分が何を描いているかも分からないのだ。
それが先天性なのか、後天性なのかは分からない。
ただ、エルの過去は過酷なものだった。幼少期に強いストレスに晒された子供が、ダメージを負ってそういった症状を発症するケースは多々ある。
エルは、その内容こそわからないものの結構よく喋る。つまり、エルなりの言語は持っているということだ。言語野か聴力を失ったのは母国語を習得してからの事なのだろう。
いずれ精密な検査をして、治る物であれば治してあげたい。そう思っていたエミリィだったが、それらの仮説を崩すようなエルのはっきりとした声を聞いて、首を傾げた。
しばらくすると、クーはエミリィに近づいて、例によって囁くような声で言った。
「……自分、思って」
「え?」
目を丸くするエミリィに、ガウルが助け舟を出す。
「あぁ、それだ。俺ン時もそれを言われたんだ。俺ぁ自分がエルにとっての何なのかを聞かれてるんだと思って、その……なんだ。あぁ……まあ……親みてぇなトコもあんのか、ってちょっと考えたりしてて……そしたら、エルが俺の事を……パパって呼んだんだよ」
「ふむ……」
顎に手を当てて暫く考え込んだエミリィ。
(”精霊の声”は声に聞こえるけど声ではないとされている。音も韻も検知できないのに直接届く、いわば念話のような物……もしエルちゃんの症状が聴力の問題なら、クーちゃんを通せば言葉を伝えることは可能……? そうか!)
エミリィは、エルの手の中に収まっていたクーを指差した。
「クーちゃん、あなたは、”呼び声の精霊”だったのね!」
「……?」
“呼び声の精霊”。それは、クーのような原種から生まれて派生していった、末端の下位精霊だ。
名前を教えると、それを呼んでくれる。ただそれだけの存在なのだが、それが意外と重要だったりする。彼らを経由して、他の精霊に自分の名前を告げる事ができるからだ。その原理を応用して、名前をエルに伝えることができるのだろう。
“呼び声の精霊”の中で、長く生きた存在は名前以外の言葉を喋ることもあるという。クーはきっとそれなのだ、とエミリィは思った。
「お、おい。”呼び声の精霊”って、どういうこった」
「つまり、クーちゃんはエルちゃんに”私達が教えた名前”を伝えてくれるって言ってるのよ、多分」
「……て事は」
「……ぷぷっ。ガウル、あなたの名前……『パパ』って、伝わってるわよ……ぶはっ!!」
「笑うんじゃねえ!!! おいクー、やり直しだ!」
「無理よ、”呼び声の精霊”に名前を教えられるのは一度だけよ。大事な場面で噛んでしまって、本当に改名する事になってしまった精霊術師がいたくらいなんだもの」
「……『精霊使いアルセーニュ』か」
ガウルは苦々しい顔でそっぽを向いた。
「……自分、思って」
クーの声が聴こえる。エルは不安そうな顔でエミリィを見ていた。
そういえば、聞かれてから随分と放ったらかしにしてしまっていたのだった。
「ごめんなさい、待たせちゃったわね」
エルを優しく抱き上げると、エルは額をこつん、とエミリィの額にくっつけた。子供特有の高い体温を感じる。と同時に、鋭敏なエミリィの感覚は何かの経路が繋がったのを感じた。
恐らく、名前の読み取りが始まっているのだろう。目を閉じて余計なことを考えないようにして、エミリィはただ一言、
(エミリィ)
と、自分の名前を思い浮かべた。
ややあって、エルの額がスッと離れていく。少し名残惜しく感じながら目を開いたエミリィの前には、満面の笑みを浮かべたエルの顔があった。
期待を込めてそれを見ていると、エルの口がゆっくりと開き……
「えみりぃ!!」
その名を呼んだ。
「――――――――〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜ッッ!!!!! エルちゃんが!! 私の名前! 呼んでくれた!!」
「え、みりぃ!?」
感極まって、エルを抱き上げてその場でくるくる回り出すエミリィ。
「ずりぃぞ! なんでお前だけ……!」
「エルちゃん! 私、私の名前はなに!?」
「えみりぃ!」
「じゃああっちは?」
「ぱぱ!」
「ぐはっ」
「〜〜〜〜〜〜〜〜〜ッ!! かわいい〜〜〜!!」
駄目な大人たちが、エルを振り回しながら乱痴気騒ぎを繰り広げいている。
騒ぎを聞きつけて駆けつけたリーネは、その光景を見てどうすればいいのか全く分からずにオロオロしていた。
『パパさんと、エミリィさんと、リーネちゃん。あのおじさんがカルロさんで、食いしん坊のお姉さんがリナさん! うーん、名前で呼べるってすばらしい!』
それからはエミリィの先導で、何人かの名前を覚えることに成功した。名前を呼ぶと皆喜んでくれて、リーネには抱きしめられ、カルロには優しく撫でられ、リナからはほっぺにちゅーをされた。少しドキドキしてしまったエルである。
不思議なことに、リーネは最初、名前を呼んでも反応が無かった。クーちゃんに言われて、改めて例のイメージ転送をした結果、名前を呼ぶと反応してくれるようになったのだ。
『やー、でも良かった。僕にもこの世界の言葉が喋れる事が解ったんだし、これをとっかかりにして少しずつ覚えていけば……』
無事に皆の名前を覚え、呼べるようになったエルは、これまでとは圧倒的に違う手応えを感じていた。
全く意思疎通ができなかった所から、少なくとも一つ、共通の言葉を手に入れたのだ。これで、先に進むことができる。
そう思っていたエルの言葉を、クーは遮って言った。
『――喋って、ない』
『へっ?』
『――おかあさん、喋ってない』
クーがたどたどしく説明した内容によると、エルはエミリィやガウルと同じ発声をした訳ではないという。それどころか、聞こえた音を真似してすらいない。『パパ』とエルの言語で言うと、「パパ」という言葉として伝わっているのだ。
ではなぜ、名前のみが通じているのかと言うと――
『――命名の儀。名を与え、繋がる。まず、イメージ、受け取る。おかあさん、名を与える。名前、世界に刻まれる。▲▲▲▲▲、そのお手伝い、した』
『えーと、ちょっとまって。一個ずつ確認させて。まず――』
良くわからなかったので、クーに細かい質問を繰り返すエル。その結果解ったのは、こういうことらしい。
『つまり、クーちゃんの力で僕にイメージを転送して名前を教える。その時ついでに、僕の力を流用してその名前を”真名”みたいな感じでこの世界自体に登録する。その”真名”はそもそも言語の範囲外にあるので、僕が”それ”と認識して呼んだら”そのもの”を指している言葉として伝わる。結果的に、名前を呼べているように感じる……って事か』
『――たぶん、そう』
クーに分かるように噛み砕いてから聞いてみても、間違いはないようだった。
『えー、それって大丈夫なの? 僕が勝手にその……”真名”みたいなものをつけちゃってる訳でしょ?』
『――大丈夫。もう誰も、名付けること、ない。それに、誰も、名前、持っていなかった。▲▲▲▲▲、名前持ってた。だから、命名できない』
『あー、それでクーちゃんの名前は直接言ったり聞いたりできないのか。リーネちゃんも最初はクーちゃんから名前を聞いただけで”命名”してなかったから、呼んでも伝わらなかったんだね』
『――多分、そう』
『そっか。なんか悪いことが起きたりはしないの?』
『――おきない。むしろ、存在、強くなる』
『うーん、ならいっか』
特にデメリットはないどころか、少々のメリットはある……くらいのものらしい。それならば、特に気にする必要もなさそうだとエルは思った。
ただ、かつての世界では、命名の儀を受けていない”無名”の者は半人前とされ、あらゆる干渉に弱く、成長性も抑圧されてしまうため、一定の年齢に達したものは命名の儀を受けるために彼女の元へと向かうのが当たり前だった――なんて事を、当然エルは知らない。
『言葉を喋れなさそうなのは残念だけど、名前が分かって呼べるようになっただけでも進歩だよねー。それに、ちょっとくらいならクーちゃんに通訳してもらえそうだし……。まあ、気長にやっていきますか〜』
そうして、少しだけ変わった日常を前向きに過ごすことを決めたエル。嬉しそうに皆の名前を呼ぶその姿を見て、ガウル達は目を細めた。
ただ、一つだけ微妙な問題が発生していた。
エルも、エミリィも、そして――当事者のガウルさえも、それに気付いてはいないのだが。
宵闇亭の主人、元一流冒険者、”宵闇の竜殺し”、凄腕料理人。
様々な二つ名や称号を持つガウル。だがこの日、彼の名前は、「パパ」として世界に刻まれてしまっていたのだった――。
GWの予定が……流動的すぎてヤバいです……。
これから実家入りなのですが、何日で戻れるか分かりません。やるべき事も多いので、更新できるかどうか……。仕事のある日の方が書けるとは、一体……?
次の更新は隔日での予定を一回お休みさせて頂いて、5/7を予定していますが、もしかしたら5/9になるかもしれません。ズレた場合、活動報告でお知らせします。
もしくは、更新の代わりに、『無駄に作り込んだけど話に絡まないからあまり語られなさそうな設定』の資料でも活動報告の方に投稿しようかな? と考えています。ややネタバレ気味になってしまう可能性もあるので、少し悩んでいますが……。
 




