020 天使がいる
(天使がいる……)
ガウルに連れられて出てきた先に居たのは、一人の少女だった。
「ー……ー……」
背丈はエルとそんなに変わらないか、少し大きいくらいだろう。腰にギリギリかからない程度の長さがある鳶色の髪は、毛先に向かうにつれてゆるく癖がついており、頭が揺れるのに合わせてふわふわと靡いていた。
少しおどおどしながらエルを見ている紅い瞳は、所在なさげに時折揺れている。タレ気味の目尻と相まって、小動物的な『守ってあげたくなる』類の可愛らしさが爆発している。
幼いながら、早くも女性らしい身体つきになり始めているこの少女には、少し背伸びしたようなシンプルですっきりとしたラインのミニ丈ワンピースがよく似合う。ダッフルコートのような上着は成長を見越したのか、全体的にぶかぶかだ。それがまた、なんとも言えない保護欲のような物を揺さぶる。
可憐。
それが、リーネを初めて見た時のエルの感想だった。
(かわいいなあ……何ていうか、今の僕が女の子じゃなくて男の子だったら、間違いなく一目惚れしてるな)
そんなリーネに一瞬目を奪われてしまったエルだったが、その手に抱えられた大きな荷物を見て我に返る。
(……って、もしかして宿のお客様か!? やばいやばい、ぼーっとしてた)
ガウルが朝の仕込みの時間にわざわざエルを呼び出したのも、きっと宿屋としての営業を開始する事を伝えるためだったのだろう。
ならば、それに応えなければならない。
『いらっしゃいませ、ごゆっくりどうぞ〜!』
笑顔で少女の手を取って握手をする。
少し馴れ馴れしいかもしれないが、近い歳の女の子同士だ。これくらいの距離感がちょうど良いだろう。後ろに控えている主人さんはとても客に向けていいような顔をしていない事だし。
そんな激しく失礼な事を考えながら、エルは握手からの流れでやんわりと荷物を受け取った。お客様を部屋にご案内するにあたり、荷物を持つのはホテルマンとしては当たり前の事だ。……と、ホテル勤務経験など全くないエルは思っている。
実際、ガウルはエルとリーネの初対面の様子をはらはらしながら眺めており、普段でも厳しい顔が3割増しになっていただけなのだが、それを「とても客に向けていいような顔ではない」とエルに評されていた事は知る由もなかった。
(っていうか主人さん、なんでぼんやりしてるの? お客様を部屋にお通ししないと)
ガウルを見ると、その手にはエルの部屋で使っているものと同じ鍵があった。しかし、エルの部屋の物ではない。
なぜそれがひと目で分かるかと言えば、エルの部屋の鍵には可愛らしい、にゃんこの形をした根付が付いているからだ。
プレートに書かれている部屋番号が読めないエルが、自分の部屋の鍵だと分かるようにするためにガウルが付けた物だ。
そのチョイスはエルが喜ぶようにと考えられたものだったが、エルは
(主人さん、ねこ好きなのかな? あ〜でもなんかわかる、好きそうだよな〜、意外と暖炉の前でねこ撫でてそう)と思っただけだった。
そんなガウルの哀しい話はともかく。
ガウルの手に握られている鍵がエルの部屋のものでない以上、あれはこのお客様の部屋のものだろう。他に考えられるとしたら、既に出勤して鍵を預けているエミリィの部屋の物であるという可能性だが……さすがにそんな訳はない。とエルは思う。
とはいえ、エルには部屋番号が分からないのでガウルに先導してもらわなければならない。その肝心のガウルがいつまでたっても動こうとしないので、袖を引っ張って催促するとようやく気付いてくれたのか、宿泊施設に向けて歩き出したのでトコトコとついていく。
お客様を案内した先の部屋は、まだ準備が整っていなかった。ベッドにはシーツが畳まれたまま敷かれておらず、床や机もやや埃っぽい。
(も〜〜!! ちゃんとしてよホント〜〜!!)
勝手知ったる宵闇亭。ここにいる間のベッドメイクや掃除は自分でやっているので、必要な物がある場所は既に理解している。エルは大急ぎで掃除用具を取ってくると、てきぱきと清掃とベッドメイクを始めた。
「えっと、エルちゃんは何をやっているんですか?」
「あぁ……その、なんだ。気にすんな」
リーネを部屋に案内した途端、エルは部屋を飛び出したかと思うと掃除用具を持って戻ってきて、いきなり掃除を始めた。
エルは綺麗好きだ。自室はいつも清潔にしているし、何が楽しいのかは分からないが、食堂の机もすぐに磨きたがる。
エルとしては空いたテーブルをダスターで拭くのも当たり前以前の話だし、土足の部屋はどうしても埃っぽくなるような気がして、つい念入りに掃除してしまうだけなのだが。
実際のところ、宵闇亭の衛生は特別悪いという訳ではない。むしろ良いほうだ。
定期的な清掃はガウルがしているし、清潔なシーツが用意されているだけでも十分すぎる程だ。ベッドメイクなんかは自分でするのが当たり前。旅人向けの宿ではいつから替えていないか分からない、ぼろぼろのシーツが敷きっぱなしになっている事だってよくある話なのだ。
エルが当たり前だと思っている基準は、相変わらずこの世界では高級宿でしか提供されないような内容なのだが、エルはその事には気付かない。
そして、そんなエルの様子を見てガウルが苦々しげな表情を浮かべている事にもまた、気付かないのだ。
(嫌々やっているんじゃねえのは見りゃ分かる。食堂ん時もそうだ。嬢ちゃんにも、食堂の客にもエルが好意を持って、楽しんでやってるってのは分かるんだが……その気持ちの表し方が『奉仕』になっちまうってのが、エルの良くねえ所だ。エルが悪い訳じゃないんだが……何とかしてやりてぇな……)
歪な教育を受けたエルは、好意を持った相手に甘えるでもなく、執着するでもなく、仕えようとしてしまう。恐らく、それ以外に人との接し方を知らないのだ。
「なあ、嬢ちゃん。コイツの事、母ちゃんから何か聞いてるか」
「えっと……はい。その、悪い人に捕まって、辛い目に遭ってたって……」
「ああ。そのせいでエルは、こうやって奉仕する以外での人との付き合い方をあんまり知らねえ。本人が楽しそうだし、嫌々働いてる訳じゃないのは見れば分かると思うけどな」
「わ、わかります」
「だからって、俺はこれがあまり良い状態だとは思ってねえ。もっと子供らしく、ワガママ言って泣き散らかして、迷惑かけても良いと思ってんだ」
リーネはエルを見る。棒の先に布が付いた奇妙な掃除道具?――後で聞いたところ、エルが壊れた掃除用具を使って自作したらしい――で、ぱたぱたと棚の埃を落としているエルは結構楽しそうだ。
とても無理やりやらされているようには見えない。
「あー、だからよ、なんつうか……実際、エルがいると便利だと思う。『お手伝い』が大好きだし、こうやって身の回りの世話もしてくれるだろうしな。でもよ……」
一旦言葉を切って、リーネの目を見つめるガウル。その目はやや苦々しげなものの、優しい光を湛えていた。
ガウルは見た目こそ怖いが、本当はとても優しい人だとリーネは知っている。エルの事を大事に思っているのが、その目から伝わってきた。
「多分このままほっとくと、エルは嬢ちゃんの召使いみたいになっちまうと思う。でも、出来れば嬢ちゃんにはエルの、友達……になってやって欲しいと、俺は思ってんだが……」
「なりたい! 私、エルちゃんのお友達になりたいです!」
そんなガウルに、リーネは即答した。
「エルちゃんとっても可愛いし……いい子だから、私も仲良くなりたいと思ってます」
「そっか。ありがとうな」
軽く頭をぽんぽんと撫でると、リーネはくすぐったそうに身を捩った。その反応を見て、ガウルは慌てて手を引っ込める。
いつもエルにそうしていたせいで、撫で癖のような物がついていた。リーネもそろそろ、こういった子供扱いを嫌がるお年頃だろう、気をつけなければならない。
「じゃあ、ごゆっくり。俺は仕込みしてっから、厨房か裏庭のどっちかに居る。なんかあったらすぐ呼んでくれ」
「はい! よろしくおねがいします」
ぺこり、と下げられた頭に軽く手を降ってガウルは厨房に向かう。
エル同様、リーネも年齢にしては礼儀正しい良い子だ。どうやったらあの喧しい夫婦から、こんなにおとなしい子が産まれるのだろう。
理屈は分からないが、少なくともエルと相性が良さそうなのは確かだ。
その幸運に感謝しよう。ガウルはそう思った。
「で、どうしてこうなったんだにゃ」
「……知らねえ」
「アレか? テコ入れって奴か? そんなに売上落ちてたんなら言ってくれよ、オヤっさん! くぅっ、俺達がもっと高い飯を注文していりゃぁこんな事には」
「んな訳ねえだろうが! 高い飯頼めるほど稼いでもいねえ癖に生意気言うんじゃねえ」
翌日。
一つの依頼を終えて、街に帰還した鍵師のニャムと弓兵のカーウェル。冒険者である二人にとって、街で食べる食事は貴重な癒やしの時間だ。
町の外では食べられない、美味しい料理を食べて鋭気を養うために宵闇亭を訪れた二人が目にしたのは、予想外の光景だった。
次話は、一日開きまして4/25(水)12:00更新予定です。




