018 ぱぱ
「……私のお気に入りの席が、無いのだが」
「ウチで指定席を始めた覚えはねえ。適当なとこに座れ」
「まあ、その通りなのだがね。何となくこうなるのではないか、と思ってもいた」
カルロが悲しそうな眼をして見た先には、宵闇亭のカウンター席……その中でもカルロがお気に入りだった、一番奥の席があった。
華美ではないが趣のある、カウンターに合った色のカウンターチェア。決して座り心地が良いとは言えないが、そこに座って宵闇亭の風景を眺めながら料理をつまみ、時々ガウルが出してくれる秘蔵の酒を嗜むのがカルロにとって何よりの楽しみだったのだ。
だが今カルロの目に映っているのは、見慣れたその光景ではない。
隣の席より一段低くなったカウンターテーブル。
その高さに合わせた、一段分のハシゴが付いた可愛らしい装飾のハイチェアー。その椅子の脇には踏み台が置かれていた。
そして、テーブルの側面には燦然と輝くネームプレート。
「ガウル。君の気持ちは分かるが……なんというか、君がその、なんだ。このような感じになるのは、少々意外だった」
「なんか言いたい事があんなら、ハッキリ言えよ」
「いや、特に無いが?」
肩をすくめ、お気に入りだった席の隣に腰掛けるカルロ。
「変われば変わるものだな、と思っただけだよ。あの『宵闇の竜殺し』が、今やただの親バカとは、ね」
「……言ってろ」
ガウルは、軽くカルロを睨みつけた。怒る程ではないが、あまり触れてほしくないといった雰囲気だ。
懐かしそうな顔で話すカルロだったが、ガウルの反応があまり良くないのを見て、彼はすぐに話を切り替えた。
「ところで、私のお気に入りの席を奪った張本人は、どうしたのかね」
「今はエミリィの部屋だ。勉強中らしい」
「ほう」
「さっき覗いたら、あの馬鹿はリボンを10本くらい並べてウンウン唸ってやがったがな」
「……君たち、程々にしておきたまえよ」
元・カルロのお気に入りの席に掲げられている、『エルのせき』と書かれたネームプレートを見ながら、カルロは呆れ顔でため息をついた。
宵闇亭は、改装の真っ最中である。
と言っても、店を閉めて大規模なリフォームをしている訳ではない。
このところ日々どこかに手が入れられており、宵闇亭は少しずつ少しずつ変化していっているのだ。
例えば、入り口の脇に小さなテーブルが追加されたりした。
エルが自ら担っている役目の一つに、客のお出迎えがある。
入ってきた客を席まで案内して、椅子を引いたり水を出したりするのだ。
その為、手持ち無沙汰な時のエルは入り口の脇でずっと立っている事になる。
最初はエルの謎の行動に戸惑っていた客達だったが、新たな衣装に身を包んで甲斐甲斐しくお手伝いをするエルの姿は、段々と微笑ましい日常の風景として受け入れられていっていた。
その結果。
「気が利かないなぁ! 椅子くらい用意してやりなよ!」
「手伝い自体はエルちゃんがやりたいならいいけどね、ずっと立たせとくってのは、大人としてどうなの」
「お姫様にふさわしい玉座を用意するべきである」
客から、ガウルにクレームが殺到した。
この件についてはガウル自身も思う所があったので、翌日にはエルの身長に合わせた立派な受付カウンター……とまでは行かないにせよ、そんな感じのテーブルが追加されたのだ。
それだけではない。
カルロの指定席だったカウンターの奥の席は魔改造され、エル専用のブースになった。水の魔道具とコップが常備され、エルはそこでお冷を汲んで客に配っていく。ガウルの作った料理も、全てではないが一部はそこに置かれ、エルが配膳をするのだ。
エルは非常に賢い子供で、常連客の「いつものメニュー」をその眼で見て覚えており、言葉は通じないながらも配膳には問題がない。
料理をぶちまけてしまったり、食器を壊してしまったり……という事がもっと起こるかと思っていたガウル達にとっては意外だったが、それはそれで歓迎するべき事だ。上手にお手伝いが出来たエルもご機嫌だし、客もエルのことを笑顔で見てくれているのだから。
最近では、エルは宵闇亭の食堂で食事を摂るようになった。
おかげで食事の時間になると、専用席で美味しそうにごはんを食べるエルの姿が見られるようになったのだ。
その微笑ましい姿を見るためだけに宵闇亭に訪れる者も居るくらいだ。
なんだかんだ文句を言っておきながら、実はカルロもその一人だ。
エルの席に押し出されるようにして、一つズレてしまったカルロの指定席は、間近でエルがぱたぱたと駆け回ったり、美味しそうにご飯を食べる光景を見ることができる特等席だ。
古い友人が今まで求めようとしてこなかった類の幸せを、彼にも齎してくれた少女に感謝をしながら、カルロは賑やかな宵闇亭の風景を肴にして旨い酒を飲む。
それが、カルロの新しい楽しみになっていたのだった。
「……ところで、エルちゃんについてだが……今の所、私の方で分かった事は殆ど無い。君たちが危惧していたようなきな臭い動きは、私の情報網には引っかかっていなくてね。よっぽど秘匿されているか、もしくは本当に稀有な、何らかのアクシデントによるものではないかと考えている。言葉に関しても詳しい人物が見つからなくてね。君たちの方で何か新しく気付いたことはあるかね?」
「いや、特にねえな」
――唐突に。
他愛もない世間話と変わらないトーンで、しかし、よっぽど耳をそばだてない限り聞き取れないような調子で……カルロはそう口にする。
リナの報告や、ガウル、エミリィの相談を受けていたカルロは極秘裏に、自分が扱える『腕』を駆使してエルの背後にある物を調べようとした。
しかし、エルに関する情報は何一つ見つからなかった。
王国や別都市の動きには、これといって何かが見られるような事もない。
闇商人達の動きもいつも通りだ。何か騒ぎが起こったり、誰が誰に懸賞金を掛けた――というような分かりやすい動きも、全くないではないのだが、平常運転と言える範囲だろう。
言葉に関しても謎だ。
ガウル達の話を聞いたり、実際にエルと会話(?)をしてみて分かる事は、エルとの間には簡単な応答すら成り立たないという事だ。
普通は全く未知の言語だったとしても、簡単なYes・Noや人名、固有名詞などといった物くらいは、対話する相手が居てくれさえすれば、多少は理解できるようになる筈だ。
ところが、エルにはそれが分からないらしい。それどころか、エルが口にする言語が何を意味しているのかを、ガウル達も全く理解できないのだ。
「あれに比べりゃ、蛇族の言語のほうがまだ分かるぜ」
とは、ガウルの談だ。蛇族の言語は、たった二音しかない「音」に、他言語では見られない程豊富に存在する「韻」の表現を組み合わせた、極端な「韻依存型言語」だ。慣れていないと耳も頭も混乱するので、他の人種で蛇族の言語に精通している人間は少ない。
それでも、旅の途中で出会った蛇族との短いやりとりの中で、「こんにちは」と「おいしい」という言葉をガウルは覚える事が出来たのだ。
そんなやりとりすら不可能なエルの言語は、明らかにおかしい。
かといって、エルの知能に問題があるとも思えない。
言葉が通じないながらも、こちらの気持ちを汲み取ってくれるような事をしてくれたりもするし、簡単なジェスチャーでのやりとりは出来ている……気がする。
負の遺産とは言え躾も行き届いており、そこら辺の子供よりもよっぽど落ち着いているのだ。
「考えたくはないのだがね。以前の仮説が、現実味を帯びてきたのではないかと思えてくるのだよ」
「この間も聞いたが、マジな話なのか?」
「ああ、君の言う所の『大マジ』という奴だ」
「……『言縛りの呪』、か」
そんなエルの様子を見て、カルロは一つ心当たりがある、とガウル達に告げていた。ただ、特有の症状が見られなかった事から、あくまで仮説である……という程度に留めていたのだが。
それが、『言縛りの呪』と呼ばれる呪いである。
呪術とは、人に制約を与える外法だ。他者の自由を侵害する呪術は、存在そのものが忌避されていながらも、その一方で現代には欠かせない技術でもある。
契約の秘術などは、最も分かりやすい例だ。契約を履行しなかった者に制裁として与えられる、身体的であったり精神的であったりする制約。それは、まさに呪いそのものだ。
呪術は我々の世界で言う所の麻薬のような物だ。人を依存させて堕落させ、最悪廃人にさえしてしまう恐ろしい存在である一方、手術や緊急対応に用いる強力な痛み止めにもなる。
呪術が忌み嫌われながらも闇に葬られる事なく、正式な認可を得た研究者達が研究を続けているのは、人類にとって有用な技術であるからなのだ。
しかし、そうやって進化をした呪術の、”外法”としての側面を求める者達もまた、居なくなることはない。
『言縛りの呪』もまた、そうやって生み出された外法の一つだった。
「『言縛りの呪』を受けた者は、我々の脳にある、言語を司る部位……言語野の活動に強力な制限を受ける。その機能を縛られてしまった者は、言語を言語として認識できず、一切の会話を成り立たせることができない」
「……つまり、エルの喋っている言葉ってのは」
「そう、そもそも言葉ではない。その可能性がある」
その仮説が正しければ、エルは言語を言語として認識する機能を失っている。エルが口にしているのは、エルがかつて言語を認識していた頃の名残……言葉の、残骸なのかもしれないのだ。
「となると、だ。下手に藪を突つきさえしなければ、エルちゃんは案外安全なのかもしれないね。あの子は既に、口を封じられてしまっているのだから」
カルロ達は依然として、エルが違法な闇商人のもとで、高貴な人物相手の特殊な教育を施されていたと思っており、その裏には大いなる闇が潜んでいる可能性を考えて警戒している。
『言縛りの呪』は、殺しはできないが、決して公にできない秘密を知ってしまった者の口を封じる手段として知られている。
とはいえ、めったにお目にかかるような者ではない。莫大なコストがかかるので、文字通り殺してしまったほうが手っ取り早いからだ。
カルロも一度だけその被害者と会ったことがある。その者の放つ言葉らしき物は支離滅裂で、元々は共通語だったのだという事は何となく伝わってきたが、それはまさに言葉の残骸と言うべきものだった。
もちろん、彼にカルロの言葉は届かない。エルの姿は、その被害者を彷彿とさせていた。
しかし、呪いをかけられた者の身体に刻まれるはずの呪紋が、エルには無い。……らしい。カルロとガウルは直接見たわけではないが、エミリィが散々調べた結果、無いとわかっている。
『言縛りの呪』ほどの大掛かりな物になると、その呪紋は身体の大部分を覆ってしまうほどに巨大になる。
それが見られないということは、呪いではないか、もしくは――それを隠蔽する、未知の高度な技術が使われているか、だ。
『言縛りの呪』だけでも大事だと言うのに、それを隠蔽する手段を開発している者となると――もはや、大事というレベルでは済まされない。王族か、由緒も歴史もある有力者の大家か……はたまた、この世界の裏を束ねる危険な存在の何れか、か。
いずれにせよ、ただの竜殺しと一介の剣聖の手には余る事件だ。
「ま、私の方でも継続的に調査はしておこう。ガウル、君も十分に注意したまえ」
「悪いな。お前も無理すんじゃねえぞ」
「するはずもないだろう。もう歳なんだ、切った張ったは懲り懲りだよ」
ふっ、と笑いながら言うカルロ。それを合図にしたかのように、二人の間にだけ漂っていた張り詰めたような空気は弛緩した物へと変わる。
「そういえば、だ」
話を切り替えるかのように、酒を片手にしたカルロはおどけたような口調で言う。
「例の――被害にあった男なんだがね。結局言葉を取り戻すことはできなかったのだが、一つだけ、覚えた言葉があったのだ」
「へぇ。そいつは興味深いな」
思わずガウルは身を乗り出す。もし、エルがその被害者と同じ状況であるのならば、気の毒ではあるが、先人の話はきっと何かの役に立つことがあるはずだ。
真面目な顔で聞き返したガウルに、カルロは悪戯をする子供のような顔で先を続けた。
「『マーマ』、だそうだ」
「……なんだそりゃ」
「正確には言葉、とは言えないのだがね。言葉らしき物を喋り始める赤ん坊と同じだよ」
発音などの正確性が皆無でも、受け取り側が最大限配慮する事によって『言葉』として成り立つもの……それが、赤ちゃん言葉だ。
毎日、「ママだよ〜、ママ。ま・ま。ママですよ〜」と言い聞かせていた赤ちゃんが、ある日「あぅあ……」と、何か喋ったような声を出したとしよう。
それを、「今この子、ママって言わなかった!?」と騒いでしまうのは、それはもう仕方のないことだ。
そこに発音などの正確性などは関係ない。それに恐らくではあるが、赤ちゃんもきっと、ずっと聞かされていた「ママ」という単語を使ってみたかったのだろう。であればこれはもう、言葉であると言ってもいいのではないだろうか。
……そんな事を力説してきた、子供が産まれてからというもの、子供にベタ甘になってしまった友人の姿を思い出すガウル。多分あいつは、我が子が自分をママと呼んだのだと主張したかっただけなのだとは思うが。
「……確かに、エルもそんな感じだ。俺の名前やエミリィの名前を教えようとした時も、ただただ真似てたんだろうな。それっぽくはあるんだが……上手く言えてねえ感じだった」
「そうだろうそうだろう。そこで、だ」
キラリ、とカルロの眼が輝く。
「――まずは、自分のことを『パパ』と呼ばせる所から始めてみたらどうかね?」
「頭イカれてんのかお前?」
急に頭のおかしい事を言いだしたカルロを、ガウルは睨みつける。
「いやいや、至って真面目だよ。パパ、ママは赤ん坊が初めて話す言葉と言って連想されるものの筆頭だろう。”例の物”を受けていると仮定すれば、エルちゃんの言語能力はいまや赤ん坊かそれ以下にまで落ち込んでいるかもしれないのだよ。ここまで低いハードルを用意してやるのがのが、逆に正しい事だとは思わないのかね?」
「また訳のわからんことを言いやがって……」
カルロがこういう言い方で自身の正当性を主張している時は、大体がガウルをからかっている時だ。
どうあしらったものか悩んでいるガウルに、カルロの追撃が飛んでいく。
「それに、見てみたくはないかね? エルちゃんが、君を『パパ』と呼ぶ姿を」
「……うるせぇ」
一瞬、考えてしまってからガウルは自分の不覚を恥じた。
カルロを改めて睨みつけると、今の反応で十分だったのだろう、ニヤニヤした顔が見える。
「君もそう思うだろう?」
「……■?」
ぶん殴ってやろうかコイツ、とガウルが思っている間に、いつの間にかエルが席に戻ってきていた。
まだ睨んでいるガウルを無視して、カルロはエルに話しかける。
「エルちゃん。彼が君のパパだよ。分かるかな? パパだ、パパ。パ・パ・さあ、言ってごらん。パパ、だ」
ガウルを指差して「パパ」と連呼するカルロ。
指さされたガウルの眉間には、だんだんと深いシワが刻まれていく。
「ぱ・ぱ。リピートアフターミー。ぱ・ぱ。はいどうぞ」
「おい、てめぇ……いい加減に……」
ガウルが拳骨を落とそうと腕を振り上げかけたその時だ。
「■ーぁ……? ■■ぅ…ぱ■ーあ? ……■ぁー?」
エルが、反応した。
ガウルを見つめながら繰り返しているその発音はあやふやで、韻についてはあるのか無いのかすらよく分からない。
それでも、何となく……雰囲気的にではあるが、カルロの言っていることを真似ているような様子だった。
そして、奇跡は起こる。
「……ぱぱー?」
こてん、と首を傾げながら喋るエルの、舌っ足らずな、自信のないあやふやな発音。聞き取れない韻。
それは、決して『お父さん』という言葉ではなかった。
けれど、そのあまりにも単純な発音のそれは、ガウル達が「エルが喋った」と認識するには十分なもので――
「どもッス! いやー、相変わらず美味そうな匂いッスねえ〜! エルちゃんもこんばんわッス! 今日のおすすめって何になってるッスか? 今日は珍しく魚の気分なんスよ! なので何か良さげなのがあれば……あれ? ガウルさんどうしたんッスか? ガウルさん? ……ちょ、ちょっと、ガウルさん!? げっ、息してなくないッスか!? マジッスか!? や、やばいッスよ!! カルロ先生も笑ってる場合じゃなくないッスかこれ!?」
――店主急病につき早仕舞い。
滅多に見ることのないその札が宵闇亭の扉に掛けられたのは、その直後の事だった。
本来、ガウル達の言語では発音のみで意味が通る事はないのですが、赤ん坊が「まぁあ!」と言った時に、「ママ」と言ったのだと思う人は居ても「マヤ(文明)」とか「まぁな!」とか言ったと思う人は少ないのと同じで、受け取り側のハードルが限界まで下がった状態で聞いた結果だと思ってください。
次話の更新ですが、数日間お休みを頂きたいと思います。最長で5日程になるかと……。早ければ明後日くらいには更新しているかもしれませんが。
お待たせして申し訳ありませんが、宜しくお願い致します。




