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千年の竜血の契りを、あなたに捧げます  作者: 凛子
第二幕:皇帝の妾妃
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090 餞別の指輪

 船へとのびるもやい綱をするすると木柱に括りつけながら、漁師は近づいた人の影に目線を上げた。久しぶりのシケのせいで、仲間の船は一艘もない。


 漁師はとあるつてから頼まれて、仕事をひとつ終えたところだ。テナン公国の北端ティク港からグロムダ海峡を通り、メルトローの南端にあるキューザ港に人を渡してきた。

 荒波の中にようやく済ませて、仲間のいる西の酒場に戻ろうとした矢先だった。


「……何だね」

 昼間に近い時間だが、吹きすさぶ雨のせいで夕暮れのように暗い。漁師が見上げた先にいたのは、やはり仲間うちの顔ではなかった。

「こんなシケに、このあたりを歩くのは危ねえ。早くどこか屋根のあるところへ入った方がいいぞ」


 漁師は括りつけたばかりの綱を引っ張って、外れないことを念入りに確かめる。そばに立った人物に真正面から向き合うと、相手はまだ年若い青年だった。

 雨除けの外套を羽織って、頭は丸出しの姿。激しい雨が頬を打つのも、さほど気にした様子がない。怪しいものではないと、顔を明かすことで示しているつもりだろうか。

 青年は挨拶程度に頭を軽く下げると、焦茶の瞳をわずかに細めて言った。


「ギザサさんですね」

「……そうだが。儂はあんたを知らない」

 漁師は明らかに顔をしかめて、青年を見上げる。

 見たところ、どうも町の人間ではない。着ているものや先ほどの品のいい礼を見るとどこかの貴族にも思えるが、今時うろついているなら、あらかた物騒な人間には違いなかった。


「名前は名乗れないのですが……あなたの噂を聞いてここに来ました」

「儂の噂か。そんなに名の知れた老いぼれに見えるか」

「老いぼれだなどと」

 そこで一呼吸おいて、青年は何かを考えたようだった。その態度の断片に小さな焦りを見つけて、漁師は口元を引き結ぶ。へたな駆け引きは時間の無駄だと気づいたのか、


「――元テナン海軍総督、ギッシュ・サルビトル・ラザ殿と伝え聞いております。現在は漁師がてら、密輸や海賊の稼業までなさっているそうですね」


 続いた言葉のあまりの率直さに、漁師は驚いて目を開いた。

 青年の言うとおり、確かに彼は裏では名の通る人物だ。だがそれは〝海賊船〟や〝密輸船〟としての、頭領の話。まさか何十年も前に、鎖国により滅びた海軍の名を聞くことになるとは。


 元テナン海軍総督は、その折に処刑されて(、、、、、)すでにこの世にはいない。……ということになっている。

 妻も子も、親族縁者すべてを失して別人として生きる今、ギザサと過去を繋ぐものはなにもない。


「あんたは……何故それを知ってる」

 場合によっては、ただでは済まされない。ようやく掴んだ平穏を、この期に及んでまた突き崩される気はなかった。情報の流れ先を辿って、必要ならばその全てを消し去らねばならない。


 ギザサの思いを汲んだのか、青年はわずかに眉を引き上げて暫くの間沈黙すると、わかりました、と頷いた。

「名乗ります。俺はコンツ・エトワルト、テナン公国の第五公子です。貴殿の堅い口と経験を見込んで、お願いに上がりました」


「公子……だと?」

 ギザサは日に焼けて真っ黒になった顔を、大きく歪めた。王族が今更、目の前に現れるなど……。憎しみとも、敬意ともつかぬ光った目を青年――第五公子へ向けて、ギザサは鼻息を噴く。

「信じられん。証明でもあるならまだしも」


「あなたを知っていることが、証拠になりませんか。あなたほどの方なら、聞き及んでいるはずです。俺が帝都で、ワルダヤ大佐の下にいたこと」

「……やつが、お前に教えたのか」

 静かに頷いて、第五公子は懐から何かを取り出した。小刀かと思い身構えるが、差し出された手のひらに乗る銀色の指輪を見つめて、するすると力が抜けていく。


 ……装飾も何もない、幅の太い指輪。それは紛れもなく、昔ギザサがつけていて、人生を捨てた時ワルダヤに託したもの。ワルダヤが未だ持っていたとは驚きだったが、少なくとも繋がりがあるということか。

 ギザサは指輪をつまみ上げると、目前にかざすようにして眺めてから、また公子の手へと戻した。


「あなたを頼るのはぎりぎりになってから……そう考えていました。これを譲り受けた時も、大佐はあなたについては詳しく語りませんでした。ただ〝持ち主を捜して頼れ〟と言われたのみで。大佐もこれを、どうしようもなくなった時に使うようにと、渡したのだと思います。ですが、そうもいかなくなってしまって」


 やはり、噂は本当になるだろう。ギザサは確信して、目を細めた。

 テナン公国は、およそ三月もたたぬうちに宣戦を布告するはず。着実に集まりつつある情報と、近々入り来る予定のメルトローの大艦隊。それが何よりの決め手となって、ギザサの頭を痺れさせた。


 だが、どうにも腑におちない。独立を願うのは、王族すべての心ではないのだろうか。なぜなら明らかに、この目前にいる公子は、それとは逆の――テナン公国の不利益になるようなことを、しでかそうとしているようにしか見えないからだ。


「なんでまた、公子が動こうとしてる。本当なら、あんたはとっくに王城で、幾数万の挙兵の算段に捲かれているはずだろうに」

 冷や冷やと、訳の分からぬ冷たい感覚が背を伝っていくのを感じながら、ギザサは小さく息をついた。


 この公子が、早くからテナン公国を離れて、まるで人質のように帝国の軍に吸い込まれていったのを知らないわけではない。だからこそ、祖国にあまり心を置かぬのだということも。


 そうであるなら、わざわざこの地へ姿を現す必要はないのだ。本当にテナンを見捨てる気でいたのなら、帝都にとどまりながら、皇帝に向けて早々に祖国を捨て去る忠誠を誓ってしまえばよかったこと。

 そうして皇帝軍で適当に昇進して、核となり戦うだけでいい。


「……確かめなくてはならないんです。今までずっと、避け続けてきたものを」

 ふとして見せた公子の顔は、随分と疲れてみえた。よほど長い間、帝国と祖国の狭間で苛まれたのではなかろうか。そう思えるほどの深い疲労が、この若い青年の肩に降り積もっている。


「場所を、移すか。いい加減寒かろう。ずぶ濡れだぞ」

 どこかで温かいものでも飲ませてやりたい――そんな気まぐれが、ギザサの口をついて出た。

 しかし公子は、それまで見せていた柔らかな表情をすっと消し去り、首を横に振る。


「ここでお許しいただけませんか。何より、誰かに見られているかもしれない。ここでなら、雨風が私たちの会話を打ち消してくれます。見たところ声の届く範囲に潜んでいる密偵はありませんし、もし姿を見られていたとしても何を話しているかは分からないでしょう。目測では読唇も利かぬ距離です。酒場へ移って体を温めるよりいい」


 ギザサは公子の言葉に、納得して頷いた。港は市場(バザール)が並ばぬ限り、帯状に広がる広場でしかない。この開けた視界から身を隠すには、船底にいるか、随分離れた酒場や舟工場(ふなこうば)の建物の影に潜んでいるしか方法がなかった。


 声高に話しているわけではないから、すぐそばの船に隠れていたとしても心配はいらない。風に煽られギイギイ軋んでいる船と荒い波のせいで、声など聞こえたものではないだろう。

 ――そんなことを考えて、この状況を選んだとしたなら、この公子の頭も隅にはおけない。

 帝都で、それも根っからの軍人であるワルダヤに育てられたにも関わらず、よくもまあこれだけの機転を身につけたもの。


「わかった。面白い、要件を聞こうじゃねえか。儂もテナンなんざ、どうだっていい人間の一人だ」

 どうだっていいわけではないのですが……、そう言って困ったように肩を竦めると、公子は続けた。

「俺を帝都に送り届けて下さい。――できれば、今日中に出港したいのですが」


 最近、メルトローならまだしも、帝都へいく海路の監視は殊の外厳しくなっていた。

 密輸を請け負う仲間の何人かが、訝しんで酒の話題に乗せていたのも、今ならばわかる。戦線を切り開く準備をしている最中、余計な情報や人が行き来することのないよう目を光らせているのだ。通れるのは厳しい捜査を受けた漁船のみ。


「帝都へ行くのに漁船に扮するなんざ、容易くねぇぞ。しかもよりによってこのシケだ。その品のいい服やら仕草やらをどうにかせんと」

「大丈夫です。……それと、あいつもいいですか」

 ギザサはやれやれと肩を竦める。いつの間にやらもう一人、女のような顔立ちをした青年が筋向いの建物に立っているではないか。


「実を言うとあなたを探し当てたのは、俺ではないんですよ」

 そうして振り返る彼の背中越しに、連れの青年を見やる。視力にはまだまだ自信があるが、ここから見えるその姿は、どう見ても肌が雪のように白かった。


「ああ、もう好きにしろ。まずは船室に入れ。そのずぶ濡れの体を拭いて着替えるんだ。儂は酒場に行って、飯の調達をしてくるからな」


 メルトローとテナンが、手を組んだ? 象徴的な二人連れが、ギザサの心中をざわめきで埋め尽くしていった。




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