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千年の竜血の契りを、あなたに捧げます  作者: 凛子
第二幕:皇帝の妾妃
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086 灰になった星屑を

  空は、海との境がわからないほどに青々としていた。

 シアゼリタを送り出した灰色の空は、もうどこにも見当たらない。雲さえも淡く染まり、それをじっと見上げるようなエトワルトの背中が、ぽつんと寂しく港に佇む。


 〝彼女〟が再びこのテナンに戻ることがあるなら、それはもう人の形ではないだろう。

 炎に焼かれ灰色の砂になり、ほんの小さな箱になる。つい何日か前まで、楽しげに笑い菓子を焼いてくれた少女なのに。


 蜜色のきれいな肌も、栗色のやわらかな髪も、笑顔にゆっくりと細まる大きな瞳も……もう見ることはできないのだ。

「……エトワ」

 アシュケナシシムは声をかけようとして、口をつぐむ。


 握り締めた右手に、小さな紙片(しへん)が入っていた。鳩が運んだ――イグルコが真実を書き記した手紙だ。


 エトワルトの……優しい復讐の矛先が、この紙切れひとつで大きく変わる。

 見せるべきか、見せぬべきか。

 けれど真実を知って尚、彼が彼でいてくれる理由を、アシュケナシシムは探し出すことができなかった。


「ああ、アシュか」

 ことのほか温和な顔で振り返った彼を見ながら、アシュケナシシムは微笑んだ。「手紙」をそっと風にのせ、海のむこうへ捨てやって。

「僕も行くよ。イクパルなんだろ、行き先」


 ―――いや、見せることはできない。

 自分たちが〝ただの敵〟となる現実など……見せたくはなかった。




* * *


 「ハレムが……縮小されるとは…」

 そわそわと椅子から立ち上がり、男はその背もたれの縁をたたいた。

「し……しかし、証拠はあるのかね」


 落ち着かないそぶりが、なんとも噂通りの男だ。そんなことを思いながらも、カランヌは朗らかな顔で微笑んで見せる。

 テナン公国の瑪瑙宮とよばれる、客をもてなすための離塔の一室。自らは椅子に腰を落ち着けたまま、カランヌは目前の男を静かに見やった。


「証拠など、必要ないものと思いましたよ。イクパル皇帝がハレム縮小を提言するまで、もう猶予は無いでしょう。はっきり申し上げますが……トゥールンガ〝元〟元老院議長どの。いいえ、元帥閣下とお呼び致したほうが宜しいでしょうか? あなたのその〝地位〟は、いったい何に裏づけされているものなのか。まさかお気づきでないわけでは?」


 椅子の横で、わずかに男――イクパル帝国元帥の位にある男は顔をしかめた。

 これといって特技は無く、議席をあたためるだけの人生に半分をそそいだ男。彼の提げる胸の勲章には、小さくは無い自尊心がしっかりと植えつけられている。自らの保身のため、自領の皇帝直轄領(サグエ)から、シマニ公爵領(テナン)まで海を渡ってしまうほどの。


「……皆、儂を世襲の七光りだなんだと言い合っている。たしかに、戦争などこの目で見たことはないが、それでも儂は元帥だ……生まれながらの元帥なのだ。ハレムの縮小ごときで、……この地位は変わらん」


 ただ元老院という囲いの中にいて、出る議題に反論ばかり述べていればよかった――この男の「元帥」という階級は、禄を増やすための飾りでしかない。


 今や帝国に暮らす貴族達のほとんどが、ハレムに愛妾(ジャーリヤ)――すなわち血縁の娘を置くことで、禄を受け生活している。

 ハレムが縮小されたなら、恩情として受ける禄が減らされることは必至。


 禄を受けられぬ下級の貴族は、今や市民と変わらぬ暮らしぶりだと聞く。未だ帝都に邸宅を構え、優雅に暮らしていられるトゥールンガは稀な部類に入るだろう。

 ハレムに居る五人のジャーリヤ(むすめ)たちが居るからこその生活だ。


「ハレムが縮小されれば、姫君が最下級の貴族に下賜されることにもなりかねません。そうなれば、逆に貴方がその嫁ぎ先の援助をしなければならなくなる。五人のジャーリヤを皇帝の閨に上げていたという切り札もなくなり、元帥位……果ては公爵位さえ危ういものになるでしょうね」


 話を全部聞いたあとで、トゥールンガは焦りの見える眼差しをこちらに向ける。カランヌはそれを静かに受け止めて、ほんの少し、首を斜めに傾けて見せた。


「では、ここからが本題です。貴方を唯一助けることができるご相談を致しましょうか」

「それで本当に、…わが一族は守られるのだな?」

 不安げに問うトゥールンガの口元で、黒々とした立派な口髭が震えていた。威厳をあらわすはずのそれが、どう譲っても滑稽にしか見えない。


 カランヌはゆっくりと頷いて見せて、そっと囁くような声で告げた。

「シアゼリタ公女をご存知ですね」

「シアゼリタ……テナン公の一人娘ではなかったか」


 カランヌは肘掛に肘をついて、その指先で顎元を掴んだ。目線を下に落として、考え込む風をつくると、ゆっくりとまた瞳をトゥールンガへと戻していく。


「そう。そのご存知のシアゼリタ公女の嫁ぎ先は、メルトロー王国なのですよ」

「な……! う、裏切りではないか!!」


 椅子の背もたれを鷲掴むように両手で握り締めたトゥールンガは、悲鳴に近い震えた声を上げた。

 メルトローとイクパルは、積極的な交戦さえしていないものの互いを敵国と定めている。そんな両国にとってみれば、婚姻など考えにも及ばぬ法に触れる行為。トゥールンガの驚きと恐れは、正常な反応といえた。


「いや、だが、それではおかしい。貴殿はメルトローの侯爵だと名乗ったな? アロ、アロ……」

「アロヴァイネン」

「ああ、すまぬな……アロヴァイネン侯。メルトロー民族のはずの貴殿が、なぜテナン公国に……」


 カランヌは小さく笑うと、肘掛にあった腕を下ろし立ち上がった。

「できればその質問を、この室に通されたときに聞いていたかったものです」

「あ……ああ、そう、だが、テナンがメルトローと〝組む〟だろうというのは、前々から噂されていたことであったし……」


「ええ。それが現実のものとなりました。ですが我々にも事情というものがある。友好国と認めるのは容易いことですが、さすがに異国の血を王家に連なる家柄に入れるわけにはいかないのですよ」


 トゥールンガは話を聞きながら、呆けたような顔になる。何を言っているのか理解できない、そんな顔だ。


「ですから、貴方に大義名分をさしあげます。シアゼリタ公女を殺害し、首をイクパル皇帝の御許に持ち帰っておあげなさい。貴方はその栄誉をとりたてられ、おそらくは皇帝に……いいえ、ここではトスカルナ宰相と言うべきでしょうね。あの氷の頭脳を持つ男に、きっと一目置かれることになる。――一族を一気に盛り返すことができますよ」


「……それは本当かね?」

 嬉しそうに顔を歪めた男を見やって、カランヌは深々と頷き、自信に満ちた面差しを見せた。

「ええ。必ずや」


 嘘ではなかった。必ずや彼は〝一目置かれる〟ことになる。


 ……シアゼリタを暗殺し、両国に「戦争」という名の裂け目を作った者として。そしてそれはそのまま、イクパル皇帝の大きな罪へと変わるのだ。





 トゥールンガが去ったあと、その方向とは逆の扉が叩かれ、返事を待たずに男が出でる。氷の頭脳と仇名される、イクパルの宰相に負けず劣らずの無愛想な顔をさらに歪めて、彼――イグルコは息を吐いた。


「俺はやはり反対だ」

 カランヌは彼が歩いてくる床の硬い音に耳を澄ませ、ふっと笑う。

「おやおや、情が移りましたか。しかしまだ、(ねや)さえ共にお過ごしでないのでしょう」

 若くして取り立てられ、海軍の総督になるはずの道を陸に揚げた男は、それ以来浮いた話を流していない。


 かれこれ十年、女にさえ興味がないのだと囁かれていたほど。そんな男だからこそ、メルトロー国王もテナン公女との婚姻を許諾したのだろうに。


「抱く気になればいつだって抱ける」

 こともあろうに、不機嫌そうな表情をつくりイグルコは口先を曲げた。あくまで〝ふり〟の予定だった婚姻。だが今の彼の顔を見るなら、それさえ疑わしく感じてしまう。


 テナン公国に訪れ最初にシアゼリタ公女を見たとき、確かに彼女はまだほんの子供であった。

 栗色の髪は結い上げることなく、やわらかそうなドレスの腰元に垂らして、首を傾げてあどけなく笑う少女。御歳十四の、婚姻には早からぬ年齢ではあったが、それでも三十を越えた男の隣に並ぶのは不自然だった。


 それが、ほんの数ヶ月、一気に大人の空気をまとい始めたのを気づかぬふりはできない。触れ合うほどの近さはなくとも、両者の間には明らかな気持ちが存在したのは確かだった。


「でも、本気ではないのでしょう?」

 牽制をこめて、カランヌは厳しい声色を出す。ちらりと見やったイグルコの顔は、もはやいつも通りの無表情だ。


「ああ。――イクパル帝国を我が領土とするには、テナンが大きな瘤になる。どうあってもテナンをイクパルから切り離し、互いを潰し合わせねば」


 母方の血筋にかのサミュエル・ハンスの流れを汲むイグルコは、治世においても頭の回る男だ。けれども海を愛し、海に身を沈めようと青空の下に過ごしきた彼は、その実の才能が陸の王宮にあったことを、いまだ自ら認めてはいない。


「そう、貴方も一枚咬んだ策です。共倒れになってくれれば、我々メルトローは何もする必要はない。均衡のとれるよう、裏から物資を援助するだけでいいのですからね」

「……わかっている」


 苛立たしげに呟くと、イグルコは先ほどまでトゥールンガの横にあった椅子に腰を落とした。聞こえないほどの溜め息を口から洩らして、足を組み椅子の背に身体を押し付ける。


 メルトローがイクパルを制圧するために、一番の壁となるアルマ山脈。その未踏の高山に無駄な人員は裂かず、自国の被害は最低に抑えてすべてを手中に収める。

 大陸を制覇していくはずだった「道具」(サディアナ)はこの手にはなく、加えて寿命が近づいている。


 アシュケナシシムの体調は、見かけほど芳しくないのをカランヌは悟っていた。辛い顔ひとつ見せないが、彼の従者によれば喀血しない日は最早なくなったという。その彼と〝双子〟であるサディアナにも、死の兆候は顕われているはず。


「メルトロー国王は、未だ不老長寿をあきらめてはいない。機を見てサディアナ王女を奪還するよう言い遣っている。次は失敗は許されないとのお命じだ」

 また自分にその役目が回ってくるのか。内心で息をつきながらも、カランヌは柔らかく微笑んだ。


「まあ……テナンが独立を宣言した状況下、それに手を貸すと言い張るメルトロー王国が〝サディアナ王女を返したら中立に立とう〟と提言したなら、乗らぬ船ではないでしょうね。なにせメルトローとイクパルでは、軍事の力にさえ百年の差が開くのですから」


 イグルコはカランヌの自信げな言葉を無言のまま聞いて、首を落として頷いた。

「護衛の船は一隻もつけない。出航し、イクパル帝国本土の海域に差し掛かったら、シアゼリタを殺しトゥールンガに首を持ち帰らせる。……それで、いいのだな」


「ええ、もちろんです」

 カランヌは笑みを残したまま、椅子からそっと立ち上がる。


 それでいいのだな――まるで自分に言い聞かせ、問いただすかのような言葉。

 けれどカランヌは、その震えた彼の最後の言葉を、聞かなかったことにした。




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