085 ディファンエルギエータ
どこをどう走ったものだろう。
気がつけば、フェイリットは空を見上げていた。バスクス帝とともに雨空を見たあの屋上で、たったひとり。
「……寒い」
冷え冷えとした空気を固めたような、真っ白な月が浮かんでいる。しん、とした音のない世界は、妙に現実味がなかった。
――日は暮れてしまった。それどころか、きっと時刻は夜明けにも近い頃合いだった。たとえこれから向かっても、水脈の地図を完成させることは明け方までには叶わないだろう。
両の手を身体の前に擦り合わせる。少しは寒さが紛れるだろうと思ったのに、その乾いた微かな音は、よけいに気持ちを沈めただけだった。フェイリットは小さく肩を震わせて、自らの身体を支えるようにかき抱く。
「見栄っ張り」
自分を小声でののしって、顔をしかめた。
覚悟なんて、できていないではないか。あげく〝一日のうちに完成させる〟と言い張った水脈の地図さえ、約束を果たすことはできなかった。
バスクス帝は、夜が明けたら出発する。新しい妾妃――ヒーハヴァティ・ウィエンラを伴って、帝都サグエに帰るのだ。
地図を完成しなければ帰らないと言った手前、それについて帰れないのは、なんだか寂しいことだった。
フェイリットは深い吐息をはきだして、目の前に浮かぶ白いかすみをぼんやりと見つめた。
このままここで日の出を見るのも、悪くはないかもしれない。そんなことさえ考えはじめた矢先――、
「こんな所に居たのか」
突然、砂を踏む音が背中に響いて、心臓がびくりと跳ね上がる。
「え、」
驚きのままに、フェイリットはゆっくりと振り返った。その先で、目に飛び込んだ人の顔をじっと見上げて、力なく微笑む。
「陛下……」
夜空にも似た群青のローブを首元まで着込み、腰に湾刀をはいて、しっかりとターバンまで巻いている。今にも砂漠に出てゆけそうな彼の姿に、フェイリットは思わず笑ってしまった。
なんだかこんな光景を、ずいぶん昔に見たような気がする。
ひとりぼっちで空を眺めて、ふと背中にかかる静かな声に――……振り返る。
あれは、いつのことだっただろう。振り返ったその先で、今と同じく、心から安堵したのを覚えている。
フェイリットはいぶかしむように首を傾げて、いったい自分は何を思い出そうとしているのか考えようとした。けれど、
「そんな薄着で突っ立っていたら、風邪をひくぞ」
彼の次の言葉を聞いたとき、それが何であったのか……誰であったのか、わかってしまった。
フェイリットはその瞳を大きく開いて、溜め息のような息をもらした。――言い知れぬ既視感。サミュン、と小さく呟いたけれど、彼に聞こえることはなかっただろう。
「見ろ、もう夜明けだ」
自らのローブでフェイリットを包み込むと、バスクス帝は静かに言った。
空の色はやわらかな紫色をたたえていて、今にも顔をだしそうな太陽と、すこしだけ逃げ遅れてしまった霞んだ細い月とが、並びたとうとしている。
つられて上を眺めてから、フェイリットは溜め息の混じる声で「きれいですね」と返した。
「こんな風な伽話があったな。神が太陽と月を愛でる……大陸創世譚だったか」
フェイリットは目を丸くして、バスクス帝を見つめた。
「ご存知なんですか」
バスクス帝はフェイリットに目を移し、苦笑する。
「多少はな」
「あ、あの。私……知らないんです。よろしかったらお話してもらえませんか」
知らないはずはなかった。あれほど好み、せがんで聞いたお伽噺なのだ。それがよもや彼の口から聞こえ出ることになろうとは、思ってもみなかっただけで。
「そんなものを語る柄ではないんだが」
フェイリットの願いに、バスクス帝は苦い顔を返す。すがるような目でバスクス帝を見つめて、フェイリットはお願いします、と目を伏せた。
「……昔、空には沈まない太陽があった」
ひと息の呼吸ののちに、バスクス帝は話しはじめる。
彼の声を子どもに聴かせたなら、きっとその眠りを妨げることはないはず。それほどに深く静かな、夜のやわらかな闇を思わせる音色だった。
「太陽は片時も休むことを知らず、まばゆく気高い光を地上へと降らせていた。神はそんな太陽を愛し、側から離さず、明るく美しい彼女を慈しんでいた。
だが、ほどなくして月が生まれた。弱く儚い、その白肌は触れることも躊躇うほどに淡く輝く娘。
神は、一目で月を愛してしまう。
……太陽は嘆き悲しんだ。だがいくら太陽が嘆き、叫んでも、神の目はすでに彼女の元には向かなかった。月に嫉妬し、羨んだ太陽は、ならば月を燃やしてしまおうと考える。……自らを炎に包ませたそのさまは、もはや美しい彼女の姿さえ紅く燃やして隠してしまった。
神は平等な愛を与えてやれなかったことに後悔した。万物を照らす昼と、生き物にやすらぎを与える夜をつくり、太陽と月を交互に愛でると彼女たちに約束した。
しかし元々ひとりだけ愛を得ていた太陽にとって、納得がいかぬ話だ。それでもこの嫉妬を打ち明ければ、そのときに本当に神に嫌われてしまうかもしれないと考えた。彼女は悔しさのあまり、月が昇るたびに涙を流した。
紅く地上に降り注いだ炎の涙。それはやがて大地を乾かし、われわれの砂の世界を、つくりたらしめた」
深く深く響く、包み込むような声音と、幼い頃から毎日のようにせがみ聴いたお伽噺。聞きながら、フェイリットはそっと地面を見つめていた。
「どうした」
彼の声がかかり瞼を開けると、目のふちから何かがこぼれる。
「……あれ。わたし、」
こぼれたものが何だったかを、考えてみる。
けれど立て続けにぼろぼろと落ちるそれを、もはや考えるべくもなかった。
思えば随分、泣いていない。サミュンの死を目にしてからというもの、まるで渇いた砂漠のように一滴も雫を落とすことがなかったのに。
「どうしたんだろう」
両手の甲を交互に出して、涙を拭って顔を上げる。紫にきらめく空が、そこに優しく広がっていた。
いまだ残る星のまたたきの狭間から、するりと一筋の光がこぼれ落ちる。
今までどこか、サミュンが本当は生きているのではないかと都合よく思っていた。心臓の鼓動が聞こえなくなっても、何かの奇跡が起きて…彼が突然姿を現すと。不死の血を持つ自分の、血縁である彼もまた不死であるかもしれないと、どこかで思っていたのだ。
けれどそんなことは起きるはずがない。彼はもう、戻らないのだ。
彼は人間なのだから。
「泣いているのか……タブラ=ラサ」
流れる星の軌跡を見つめて、なんだかようやく、サミュンが死んだのだという実感が胸に染みた。
バスクス帝の語る、夜の空にも似た深く静かな声が、まるで彼への弔いであるかのように耳に残る。
「珍しいものが見られたな。死ぬほどの怪我でさえ泣かないやつが」
ありがとうと礼を言っても、彼にはわからないだろう。自分はイクパルの皆に、……こんなにも近くにいる彼にさえ、何一つ本当のことを話せていないのだから。
「……フェイリット、」
名前を呼ばれて、噛みしめるように目を瞑る。母から唯一貰った――……父から呼ばれて育った名前。涙がぼたぼたとこぼれて、頬を滑って落ちていく。
頬を伝う涙を、まるごと覆い隠すように彼の手が添えられて、フェイリットはその手の甲に、自分の両手をそっと重ねた。
今ならばわかる。自分はこの人が、心から好きなのだと。
サミュンへ向けていた愛情とは、別のものであるのだと。
「わたし、その名前で呼ばれるの、好きです」
照れたように笑って、フェイリットはバスクス帝に目を戻す。
「……抜けた顔で笑う」
呆れたように言いながら、バスクス帝は息を吐き出した。
笑っているとさらに涙がこぼれたけれど、それもすぐにわからなくなった。乳香の香りが鼻先をくすぐり、視界が闇に押し包まれる。
「私のことも呼ぶか、」
抱き寄せられたと気づくまで、しばらくの時間がかかった。包まれる安心感が、とても心地よい。しがみついて目を閉じて、じっと耳を澄ませた。胸の半ばにしか届かないが、ゆっくりとした彼の鼓動が聞こえてくる。
「……え?」
「ああ、そうだった。水脈の地図を見たぞ。よい出来だった」
抱かれたまま、ぽん、と頭の後ろを撫でられて、フェイリットはしがみつく腕を離す。
「うそだ、わたし途中で……」
「ホスフォネト公とオフデ侯が、仕上げたようだ。お前に会ったら伝えて欲しいと頼まれた。安心するように、と」
よくやったな、そう言って微笑んだ目前の人を、フェイリットは泣き顔のまま笑って見上げた。
「戻ろう、出発までまだ時間がある。私の室がいいか、それともまたハマムにするかは、お前に任せよう。どちらがいい?」
「え!」
悪戯げに笑う彼の顔を見やって、なんとなく言われていることの意味を察したフェイリットは、誤魔化すように別の方角に目をやった。
「――そ、そんなことより。戻ったらもう一回……聴かせてくれませんか」
「大陸創世譚? なんだ、気に入ったのか」
バスクス帝が意外そうに目を細めて言う。
「はい、とても」
「こういうのは普通、逆だと思うが」
夜半の褥で女が男に語り聞かせる――もしくは母親が、ねむりにつく子どもに語って聞かせるのが、確かに彼の言う「普通」だ。
渋るような顔で首を傾けるバスクス帝を見て、フェイリットは笑む。
「わたし男親に育てられたんですよ。だから、男の人のお伽噺は大好きなんです」
にっこり笑いながら言うと、不意にバスクス帝が無表情になる。何を言おうとしたのか口を少しだけ開けて、仕方ないような顔で溜め息をついた。
「自覚のないお前に、あれこれ言っても無駄だな。さあ、帰ろうフェイリット――帝城に」
「はい! 戻ったら、アンに一番に会いにいかなくちゃ。何も言わずに来てしまったんです」
鼻歌もかろやかに走りだしたフェイリットを眺めると、バスクス帝は複雑な面持ちで肩をすくめる。
けれど終いには、そっと柔らかく微笑んでいた。
◇◇◇
おまえが好きだと言った伽噺を、一体何百と集め、覚えたことだろう。
もうその耳には届けることができなくなって、
私は堪らなく、寂しい――。
◇◇◇