084 海に沈む血汐
渡り鳥のメジーが、越冬を終えて空へと昇っていく。真っ白な幾羽もの翼があがる光景は、何度見ても美しい。
紺碧の海に点々と浮かんでいた白い影は、春の訪れを待たずして、これからますます減っていくことだろう。
「メジーって大変だねぇ。これからまた、北へのぼっていくんだろう?」
片手に茶器を持ったまま、アシュケナシシムが歩いてくる。その足音を後ろ背に聴きながら、コンツェは小さく微笑んだ。
「たぶんな」
冬は短い。これからまたささやかな春が過ぎて、長くて暑い夏が来る。
本土よりも緑に恵まれたテナンでは、オリーブや柑橘類を収穫し、ほんの少しだけ潤う季節だ。
メジーは冬の渡り鳥。彼らの訪れを待って、テナンの鉄の生産は最盛期となる。鉄を溶かし形づくるには、冬の冷たく強い風が必要なのだ。
鉄はテナンの唯一の財源。しかし、イクパル相手では、それらのもたらす利益も微々たるものでしかない。国の民が不自由なく食べていくには、春と夏にも何かをしなくてはならない。本土と比べて、雨が降るという土地柄が幸いしての生業だった。
「北ねえ……、なんかこっちの気温に慣れたら向こうには居たくないものだね」
「そんなに寒いのか」
「極寒だよ。雪は積もるし吹雪も起きる。どうして山をひとつ隔てただけで、こんなにも気候が変わるんだろうな。シアゼリタ姫は、寒いのは平気だった?」
「さあ……あいつも城に居れば本ばかりだからな」
年頃になる以前なら、よく外に出たがって後をついてきたものだが、最近はそういうことも全くなくなってしまった。
未だに外をぶらつくコンツェに「あんまり危険な出歩きはしないようにね」と言うまでになっている。
「案外平気だったりね」
海辺に出るのをまだ許されていた幼いとき、はしゃいで走り回るシアゼリタの真っ白なドレスと、結い上げぬままの濃茶の髪が、潮風にやさしく振り回される光景が、未だに頭に残っている。
あまりに出たがりで、恐れを知らない女の子だった。
だんだん歳を重ねて、侍女たちに外に出ることを止められ始めるようになって――大泣きしているシアゼリタを、こっそりと王の部屋へ連れて行った。
バルコニーから眺める風景を見せ〝これがぼくたちの領土だ〟そう自分達が負っている責任を説いたのだった。
それ以来だろうか。シアゼリタは大人しく城の中で勉学に励むようになった。
今になって考えれば、もう少し、子供らしい幼少を過ごさせてやってもよかったのかもしれない。気づけば彼女の周りには、学者やご夫人ばかりが集まり、楽しげに会話しているようになった。同年代の子供と、仲良くしている姿をついぞ見たことはない。
「よかったよ」
ふと思って、口を開く。え? と隣のアシュケナシシムが聞き返したので、コンツェは困ったように笑って、彼の顔を見やった。
「シアゼリタに歳の近い友達ができて。あいつ、側近といったら婚姻済みのご婦人方ばかりだったろう。お前といると、楽しいって話していた」
アシュケナシシムは驚いたように目を瞬かせて、こくりと頷いた。その動作が、いつもの彼らしくはないのでついつい笑ってしまう。まるで褒められた五歳かそこらの子供のようだ。
おそらくは彼も、シアゼリタと同じような環境にいて育ったのだろう。そう思えるような反応だった。
「忘れそうになるよ。僕は君を王太子につけるためにメルトローから来たっていうのに。……もう気づいているんだよね?」
「あ?」
抜けたような顔で返すコンツェに、アシュケナシシムの呆れたような目線が向かう。
「気づいてないなんて、鈍すぎる。僕は君と仲良くなって、君を懐柔しろと言われて来たんだよ。でも、今になって君とシアゼリタ姫と……ふたりも友達ができて、ちょっとどうでもよくなってたところだったのに」
辛らつな口調を続けるアシュケナシシムの顔が、少しだけ赤い。おそらくは恥ずかしさを隠すために、口を荒げているのだ。
「もう、好きにすれば。君が王太子になってくれれば、僕としては助かるけど、君が無理をしてまで不本意な道に進むのは、あまり見ていたくないしね。シアゼリタも、きっともっと幸福な道があったのだろうけど」
少しだけ寂しそうに言うと、アシュケナシシムは目の前の窓に額を押し付けた。
海がひろがり、空が開けて、白い羽を持つメジーたちがふわふわと舞っている。
その光景を見るとも、宙を見るともつかぬ目で、ぼんやりと窓の向こうを見渡してアシュケナシシムは息をついた。
「驚くほどの鈍感だね、君も」
息をつきはしたが、そこに残念そうな気配はなかった。まるで近しい人を呆れるような、親しみが込められていた。
「あのメジーは、テナンで子育てをするんだそうだ」
窓のむこうへ向くアシュケナシシムの空色の瞳を見やって、コンツェは呟く。
「子育て?」
へえ、と感心したように声をもらすと、アシュケナシシムは窓枠に両肘をついて、じっと海を眺めた。
「ただ、寒さを逃れるために下るわけではないんだね。……あの厳しさから、子を守るためだったのか」
メジーは子育てを終えて、再び北の大地へと上ってゆく。生まれたての灰色の雛鳥たちも、そろそろと空へ飛び立つことだろう。
「もう着いた頃かな。メルトローの雪に驚いているよ、きっと」
今日は、海も空も、彼の瞳よりずっと濃い色をしている。
〝もう着いた頃かな〟というのが、はたして話のつながりのままメジーを指したものなのか、それとも同じく北へ渡ったシアゼリタのことを言っているのか、コンツェには図りかねた。
確かにシアゼリタが出航して一日と少し。北への海流は、東へ行くほど早くはないが、それでもテナンとメルトローの近さを思えばそろそろだ。雪に埋もれた真っ白なアルマ山脈が、目についている頃。
「……あれ」
ふと何かに気づいたように声を上げて、突然にアシュケナシシムが身じろぐ。意識を他に向けていたコンツェは、その声にようやく目線を窓へと戻して、目を開けた。
真っ白な鳩だった。
――がん、と窓にぶつかって一羽、その窓べりの向こう側に降り立つ。
「なんだ、こいつ」
足場を求めるようなカサカサと掻く音がすんで、コンツェは漸く口を開いた。
しかし、不審げに眉をひそめるコンツェを脇目に、アシュケナシシムは慌てたように窓を開いた。吹き入れた空気は思いのほか冷たく、潮風の独特な匂いが含まれている。
アシュケナシシムは寒さに顔さえ歪めなかった。その手に鳩を掴んで、脚から紙のようなものを引きとると、それを開いて読みはじめる。
「どうかしたのか?」
ちらりと見えた小さな紙にはメルトロー語と思われる小さな文字が、短い文面でつながっていた。アシュケナシシムの顔が、見る間に青く冷めていく。
手紙に目を走らせながら、かたかたと震え出す彼の手を見つめ、コンツェはわずかに眉をひそめた。
「一体――、」
何があったんだ? そう問おうとした刹那。
ばん! ――これもまた突然に、部屋の扉が開かれる。
伺いもなく現れた訪室者に、コンツェは思わず眉をひそめた。
その姿は鎧に覆われ兜こそかぶってはいないが、あきらかに近衛の兵だとわかる者だった。
「何かあったのか」
姿を見るなり口を開いたコンツェの顔を見やり、兵は王族に対する礼をとった。しかしそれは、緊急時に行うような、簡略されたもの。いよいよ事態が尋常ではないことを、その兜に覆われぬ顔が物語っている。
「伝令として参りました」
さっと頭を下げて目線を下ろす兵に頷いて、コンツェは「話せ」と返す。
胸騒ぎがとめられない。訪ねてきた兵はひとりだけであるのに、今にも何十という兵が雪崩れ込むような気さえ錯覚する。
「申し上げます。昨日出航した、メルトロー王国への帆船が、何者かの襲撃を受け撃沈いたしました」
にわかには信じられぬ言葉が、男の口から滑り出る。
嘘だろう、と言おうとして、コンツェは自らを押し留めた。
「……状況は」
「船はイクパル海域で炎上。現在は、シアゼリタ公女の遺体のみがあがっております。他は行方不明ですが……おそらく生存者はいないものと」
そう結んだ男の後ろから、遅れるようにしてアロヴァイネン伯爵の姿が現れる。
「カランヌ……――どうして!!」
彼の姿が見えるや否や。取り乱したように叫ぶと、アシュケナシシムはアロヴァイネンの胸倉に掴みかかっていった。
「どうしてこんなこと! 姫が死んだなんて……!」
――シアゼリタが、死んだ……?
コンツェは額の辺りが、冷たく凍っていくのを感じていた。アシュケナシシムのはっきりとした言葉が、うわすべりしていた現実を、急に形づくってゆく。
……シアゼリタが死んだ。
緊張とも、恐怖ともつかぬ震えが、指先を支配していく。
「シアゼリタは……、シアゼリタはどこだ?」
「ご遺体は、メルトローへ。しかる検分を終えたら、火葬ののち遺骨はお返し致します」
静かな声で答えたのは、さきほどの近衛の兵ではなかった。アシュケナシシムと似通う面差しを持つ、メルトロー国王の参謀の声だ。
「エトワルト」
アロヴァイネンの胸倉から手を離して、アシュケナシシムが振り返る。その顔が涙に濡れてくしゃくしゃに歪められているのを見つけた瞬間、コンツェは自分の膝から力が抜けていくのを感じた。
「……誰の……仕業だったんだ」
声が、震える。静かに問うたコンツェに、カランヌはいかにも物悲しい目を向ける。
護衛は最小限だった。一国の王女が嫁ぐというのに、援護の船は一隻もなく。
ただ何十かの鎧兵を乗船させて、北へと向かわせたのがそもそもの間違いだったのだ。
その〝襲撃〟した者たちが、どこの手のものであるのか――……。考えたくは無いのに、何故だかはっきりと見当がついてしまう。悲壮な顔をした彼が、ついでその名を告げるのを待って、コンツェはゆっくりと瞳を閉じる。
「イクパルです」
予想とまったく同じ返答を口にしたカランヌに向けて、コンツェはそれ以上の問いかけをすることができなくなった。
「ですが未だ、確認はとれておりません。詳細は我々の――……エトワルト公子、どちらへ」
「エトワルト!?」
背後で呼ぶ声が聞こえるのを、振り切ってコンツェは走っていた。
父は、重鎮達は、一体何をしている? 遺体をメルトローにやってまで、彼らは何をのんびりしているのだ!
「父上!!」
父の部屋を開け放ち、悲痛な声で叫んだ息子を、テナン王は静かな目で振り返った。
「コンツか」
たたらを踏んで飛び込んだ部屋に、国の重鎮たちが一斉に介しているのを確認して、コンツェは足を押しとどめた。
あがっていた息を、落ち着けるように吐き出すが、抑えようもない鼓動の速さはどうにもならない。
「エトワルト王子、落ち着きなされ。ここで喚き散らしても、シアゼリタ王女が戻られるわけでもない」
一番の老齢である元老の長が言うと、その曲がった腰のままこちらに歩み寄ってくる。コンツェは肩で息をしながら、皺に埋もれた元老の長を見つめた。
「死んだのですか……本当に、死んだのですか?」
「わかりませぬ。確認はとっているところです」
しわがれた声は、コンツェの耳にはぼんやりとしか届かなかった。聞きたくない事実が、もやもやと宙を漂っていく。
「護衛の帆船を、もっとつけるべきであった。それは間違いなく、本土を恐れた我々の落ち度だ」
テナン王の声が、加えるように続けられた。
何故、そんなにも平気な顔をしていられるのだろう。
たったひとりの娘を失くしたというのに、その顔には、涙の流れたすじさえ見つけることはできなかった。
「俺が、……俺が行きます」
「エトワルト」
「本土に戻ります。鷹を送ってください。本当にシアゼリタを殺したのが、本土――……イクパル皇帝なら、確認次第かならず戻って来ます」
コンツェの言葉は音のない部屋に静かにこだまし、テナン王はほんの一瞬、顔を歪めて見せた。その顔にようやく哀しみの色を見つけて、コンツェは目を伏せる。
「王太子にして下さい、俺を。ここへ戻って来たら、……もう我侭は言わない」
深い深い息のあと、テナン王がゆっくりと頷く。
それを澄んだ目で見届け、コンツェは一同のそろう玉座の間から駆け出した。