083 真珠のなみだ
「生きた心地がしませんわ……」
鼻筋に力を入れるようにして、シアゼリタは顔をしかめた。いかにも苦しそうな息はか細く長く、彼女の口からゆっくりと漏れ出る。
「でも、綺麗だよ」
心からそう感じて、アシュケナシシムは微笑む。
シアゼリタは真っ青な空と海を背中に、日傘をさして立っていた。白のドレスはふわりと足下に広がり、時おり吹く潮のまじった風にゆれている。
うす青の糸で複雑な刺繍を施され、見方によっては水色にも見えるそのドレスは、イグルコ・ダイアヒンが彼女に贈ったというメルトロー式のつくり。ぎゅうぎゅうに腰と胸を引き締めて、体型を補正するつくりだ。
着たことはないけれど、その締め付けは女性にとっては拷問らしい。〝骨が折れたこともある〟と言ったのは前にいた教師だったか。いや、侍女が言ったのかもしれない。
「また、アシュさまったらそんなこと」
あどけない顔で微笑んで、シアゼリタは〝とんでもない〟というように首を左右に振っている。
アシュケナシシムは目を開いて、顔を斜めに傾けた。
「心外だね。僕が嘘を?」
シアゼリタは間違いなく綺麗だ。
柔らかな色の蜜の肌はそばかすひとつなく、サテンの生地のように滑らか。栗色の瞳はエトワルトには似ず大きな木の実の形をしていて、笑うと印象的に細められる。
イグルコと知り合ってからは女らしくもなって、動作一つとっても繊細で優しく動く。口から出た褒め言葉に、偽りはなかった。
「誉められるのは嬉しく思いますわ。けれど……、」
「わかるよ。コルセットの締め付けには、メルトローのご婦人でも気絶するくらいだからね」
苦笑しながら肩をすくめ、アシュケナシシムは続ける。
「気絶しそうになったらイグルコの側に行くといいよ。よろこんで抱きかかえてくれると思う」
「まあ、アシュ」
一瞬にして顔をしかめて、シアゼリタは片方の眉をわざとらしく引き上げた。
彼女の後ろには、小柄な帆船が停泊している。甲板を行きかう乗員達の顔はみな、メルトローの者たちだ。これに乗ってシアゼリタはメルトローに嫁ぎ、イグルコは故郷へと帰っていく。
極秘のために船は小さく、また護衛も最小限。この婚姻は、本土に対しての反逆になりかねないためだった。
見送りにはせめて国王もと話が出ていたが、終いにはそれもなくなってしまった。彼女を港まで見送るのは、数人の侍女たちと、アシュケナシシム、そして兄であるエトワルトだけだ。
「……どうしたんだろうね。君の兄上、姿が見えないけれど」
ただでさえ少ない見送りだというのに、一緒に来るはずのエトワルトの姿が先ほどから見当たらない。あれほど可愛がっていた妹が旅立つというのに、どこで油を売っているのか。
アシュケナシシムは目を細めて遠くを見るように、城の方角を顧みる。
「エトワルト兄さまは、ちょっと抜けたところがあるお方だから。あ、本人に言っては駄目よ。きっと何でもないお顔をして、ひょっこり現れますわ」
シアゼリタが冗談めかして言うその先から、エトワルトが駆け足にアーチのようになった城の水路を抜けてくる。妹の予測どおり、いつもと変わらない顔をしてにっこりと笑った。
「遅いよ。シアゼリタ姫が行っちゃったら、どうするつもりだったんだい?」
低い声で言いながらエトワルトの顔を見やると、彼は困ったように肩をすくめた。
「すまない。捜し物してたんだ」
懐に入れていた布のようなものを手に持ち直すと、エトワルトは「これ」と微笑んだ。シアゼリタは差し出された布を両手で受け取って、兄の顔をそっと見上げている。
「開けて」
どうやら布を渡したのではなく、その中のものを見て欲しいらしい。
メルトローの男なら、女性への贈り物はその手で目の前で開けてあげるものだけれど、彼は根っからのイクパル民族だ。シアゼリタもイグルコと接していて忘れていたのか、彼の言葉にようやく気づいて、その指を布にかけはじめる。
「これ……パスケルタリの……」
驚いたように口を開ける彼女のわきで、アシュケナシシムは身を乗り出した。
光沢のある藍色の布に包まれていたのは、真っ赤で小さな珠だった。小指の先ほどの粒で、絹のような艶がある。
「なんだい? これ」
たまらなくなって質問すると、シアゼリタが微笑んでこちらを向いた。
「パスケルタリのたまご。真珠の一種だけれど、テナンでしか採れない種なのですわ。とても稀少で……というのも、この赤い真珠は雄しか産むことができないからなの。その条件も、とても稀なのです」
なるほど、真珠のような大きさで色だけが真っ赤だ。光沢も艶も真珠そのまま。桃色や黒は見たことがあったが、ここまで赤い珠は初めて見る。パスケルタリというのが貝の名前なのだろうが、どういう姿をしているものなのか、まったく想像がつかなかった。
まして雄が卵を産むなんて、考えもおよばない。
「お前にやろうと思って。もし向こうの慣習に許されるなら、何かの装飾にでも変えて結婚式で使って欲しい」
黙ったまま俯いて、シアゼリタは小さく首を縦に動かした。ぽたりと落ちた雫が、彼女の両手に開かれた布に染みる。
泣いているのか……。アシュケナシシムは半ば驚いたように目を開けて、シアゼリタの横顔をじっと眺める。
「兄さま、」
ぱっと上げたその顔に、苦痛のような色が乗る。
望んではいなかった婚姻だったはずだ。けれど、彼女とイグルコの気持ちは傍目に観ても近づいた。喜ばしいことではあっても、涙を流す理由がアシュケナシシムにはわからない。それほどこの故郷が、家族が、名残惜しいとでもいうのだろうか。
「うん」
優しい顔で笑ったエトワルトに、しがみつくようにしてシアゼリタが抱きついた。
「ありがとう、エトワルト兄さま。大切にします」
震える声でそう言って、ゆっくりと彼から身体を離す。真っ白な手袋でエトワルトの手を握って、しっかりと見定めるように、シアゼリタは兄の顔を見上げていた。
「わたくし、わかりましたの。――兄さま。本当に大切な方が見つかったとき、人は誰でも、わが身を惜しまぬものですわ」
ゆっくりと語るように、透明な声で彼女は言った。
「シアゼリタ」
エトワルトは掴みかねたような顔で、離れていくシアゼリタの手を放した。
「アシュ」
兄から離れたシアゼリタが、そっと近づいてくる。柔らかく抱きしめられて、アシュケナシシムは驚きのまま、その手を宙に浮かせた。
「あなたを親友と思っていいかしら?」
「おっと。そう思っていたのは、僕だけだったなんて」
冗談めかすように返すと、シアゼリタが嬉しそうに笑う。その瞳が潤んでいることに、少しだけ違和感を覚えたけれど――挨拶のキスを受け入れて、アシュケナシシムはメルトロー式の礼をとった。
「僕もじきに帰るよ。そしたら向こうで会おう。お菓子の焼き方を習おうかな」
「親友」――その言葉が、くすぐったい。自分に友達がいるのだと感じただけなのに、目頭が熱くなった。
「もちろんですわ」
笑いながら涙を流す彼女を、アシュケナシシムはなんとか泣かず見送った。船が遠ざかるのを見つめながら、たまっている雫が落ちてこないように、こっそりと空を眺める。
「いっちゃったねえ……」
しみじみと呟くと、溜めていた涙がひとすじ流れていった。また逢えるはずなのに、なんだか寂しい。
「ああ」
そっとエトワルトを見やると、彼は城から現れたときと変わらず、なんでもないような顔をしている。
黙っていれば鋭いその横顔をじっと観ながら、アシュケナシシムは抜けたような息をひっそりと吐き出した。
君も友達だよ、そう口に出せたらいいのに。
「じき逢えるよ」
喉まで出かかった言葉を飲み込み、アシュケナシシムは微笑んだ。
シアゼリタにはじきに逢える。彼が王太子になって、メルトローに行くと言ってくれたなら。
僕たちは、ずっと一緒にいられる。
◇◇◇
Cher Etoile.
――兄さま。わたくし、わかりましたの。
本当に大切な方が見つかったとき、人は誰でも、わが身を惜しまぬものなのだと。
どうしてそんなことをと、お怒りになるのは承知のうち。
けれどわたくしは、
この幸福のためならば、すべてを捨て去ることだって、怖くはなくなってしまったのです。
De Chiarzetritta.
◇◇◇