082 王の公妾
「どういうことだ……」
呟いて、バッソス公王ホスフォネトは、腕の中に力尽きた少女を眺め見た。
薄い色の金の髪は癖がつよく、くるくると踊り、まるで少年かと見紛うほど短い。まぶたに隠された薄青の目はどんな光をも透き通し、人をじっと見つめさせる不思議さを持っていた。
出自を聞かずとも、これはタントルアスの――メルトロー王家の血を引き、遠い祖先の色を忠実に示している風貌だ。噂にも漏れ聞き、ひと目でも目通りしたいと願ってきた。メルトロー王国の第十三王女、その方。
「王、タブラ=ラサを」
オフデ侯爵ルクゾールが、気遣うように声を上げる。
ぐったりと気をなくす少女が、未だ腕の中に居る。ホスフォネトははっとして、その白みを帯びた頰に耳を寄せた。規則正しい呼吸が、彼女の口元から聞こえくる。大丈夫……まだ、生きている。
安堵に大きく肩を落として、ホスフォネトは目を閉じた。
「ルクゾール。このことは、内々に置くぞ」
そっと言った言葉に、ルクゾールが頷くのを確かめる。
〝陛下はご存知か〟――そう問うた声に、はっきりと彼女は首を振った。まったくどういうわけなのか、メルトローの王女はイクパル皇帝のもとに降り、あげく本物の素性を隠して生活していたらしい。
バスクス帝は率直に、大国の王女を手に入れたと信じているのだろうが。まさかそれが世界をも揺るがす火種とは、夢にも思わぬはずだった。
「しかし、タブラ=ラサはバスクス帝を……」
「言うな、ルクゾール。メルトローに誓われたはずの忠誠が、なくなったとは思えぬ。この娘は、いずれメルトローの血の者を〝主君〟として選ぶだろう」
エレシンスの誓った忠誠は、強大だ。それは彼女の産み落とした子どもにさえ受け継がれる。すなわち、この娘もまたメルトローへの忠誠から逃れられぬということ。たとえバスクス帝を好いていても。
この腕の中の可憐な娘が、かのエレシンスを打ち破るほどの運命をもって生まれ出でたとは、ホスフォネトにはどうしても思うことができなかった。
「儂は、再びこの世に竜が現れ王に誓いを立てたとき、その手足となるよう生かされてきた尖兵。さきほどはタントルアスの子孫と思い忠義を誓ったが、……これは本当に、この方に尽くさねばならぬ事態になるやもしれぬ」
* * *
「バッソスに来て、寝込むことが多くなったわ」
目覚めるや否や、げんなりするフェイリットを、ジルヤンタータの笑い声が宥める。
「同じくらい駆け回っているのですから、ちょうどよいくらいかと存じますよ」
側に来ると彼女は、フェイリットが身を横たえる寝台の端に、そっと音も立てず座った。
「特に最近は、ろくにお眠りでなかったのでは」
幾分顔をしかめて言うジルヤンタータから、フェイリットはそっと目線をはずした。
見上げた先の天蓋は、この公国ではじめて見たものと同じだ。砂漠でタァインに噛まれ、重体に陥った〝皇帝の愛妾〟に宛がわれた最初の部屋。
「あなたが地図を描いている最中に眠り込んでしまったと、侯爵閣下自らお運びくださったのですよ」
そう結んだジルヤンタータを、フェイリットはまじまじと見やった。
どうりで、彼女の態度が柔らかいはずだ。彼らはフェイリットが吐血した事実を、隠したのだろう。
以前は卒倒するほどに騒ぎ立てていたジルのこと、フェイリットがまたも血を吐いたとなれば、今のように穏やかでいられるはずがなかった。
身じろぐと、首元でころりと何かが動く。
フェイリットは目線を落として、小さく声を上げた。
「これ、」
琥珀――いや、透き通る黄金色の珠が、皮ひもで巻かれて首にかかっていた。
珠の根元の皮ひもをつまみ、そっと目前までそれを掲げれば、室内の灯りを吸い込むように輝きを放つ。
「侯爵閣下は〝あなたが持つのに相応しい〟と仰っておいででしたが。なんの宝石です? 琥珀でも、瑪瑙でもございませんね」
じっと見つめていると、首筋のあたりがちりちりと熱くなるような気がして、フェイリットは落とすようにして珠を手放した。
血を吐いたのは、この珠のせいではないか――そんな考えさえ起こしてしまう。
「公王が、エレシンスの眼だって言ってた」
「エレシンスの……な、なんですって」
驚いて立ち上がるジルヤンタータを見やって、フェイリットは小さく頷く。
「バッソス公王の祖先が、タントルアス王の臣下だったって」
同意か否定か、そのどちらかを欲していたフェイリットの気持ちを、ジルヤンタータはわかってしまったようだった。強面の彼女がしおれたように肩を落として、身じろぐように首を振る。
「わたくしの知ることといったら、リエダ様を近くで見ていたことくらいなのです。リエダ様の身に起こったことならば、主観的にお話できますが。それ以前ともなると……。お役に立てず、面目もございません」
深々と頭を下げて、ジルヤンタータは言った。彼女は竜に関することを、何も知らされていないと言っていたのだ。わかっていながら、追い立てるようなことを聞いてしまった。
「ううん、何も知らされていないのはわたしも同じだわ。実の母親のことさえ、よくわからない」
サミュンは母リエダのことを、ほとんど語ろうとはしなかった。メルトローの話をするときは、いつもその口には祖国のすばらしさを、豊かさを乗せたものだった。誰かの名を聞くのもまた、国王をおいて他に無い。
「母さんは、どうして忠誠を誓おうとしなかったんだろう」
自分が竜だということをよく知っていたはずのリエダが、ノルティス王を愛してなお、忠誠を誓わずに死んだなど。何度考えても腑に落ちない。
ジルヤンタータは暫くの間、考え込むように目を伏せていた。フェイリットは寝台から起き上がった格好のまま、静かになった彼女の目を見続ける。
「それならば、わたくしにも答えは出せましょう。ですがその答えは……わたくしには判断も及ばぬことを、お話しなければなりません」
そう前置きしたのち、まるで諭すようにジルヤンタータは言った。
「今のあなたに、この真実を受け止める覚悟はおありですか?」
真実――なぜ母はノルティス王に忠誠を誓わず、産み落としたその血を継ぐフェイリットまでも、隠そうとしたのか。
単純に考えたなら、わが子をいらぬ争いから守るためだったのだと頷ける。けれどそれならば、彼女自身が生きる決意をし、自ら子を守るべきだったのではないのか。フェイリットはそう考えて、小さく眉をひそめた。
覚悟はあるかと問われたなら当然「ある」。
ずっと答えを欲してきた疑問。母が誓わなかったことで、役目がそのまま自分に負わされることにもなった。その理由を知る資格が、自分にはある。
「教えて、ジルヤンタータ。母は、どうして人間であることを願ったのか。どうしてノルティス王を、選ばなかったのか……」
フェイリットの返答に、ジルヤンタータはゆっくりと頷いた。思案気に伏せていた瞳をすっと上げると、その低さのある声色で話し始める。
「リエダ様が国王陛下の公妾であったのは、ご存知のことですね? ですが真実……彼女は国王陛下にご寵愛をうけていたわけではございませんでした」
フェイリットが驚きに口を開いたのに、ジルヤンタータは目をくれようとはしなかった。
まるでこちらの反応を、どうあっても見まいとしている様子だ。話そうとするその決意が、見えない刃物でもあるかのように。その刃の切っ先を、目を瞑ってこちらに向けている――彼女の態度は、そういう風に感じられた。
「身の美しさで一度は目通りなさったと聞きます。しかし他の高貴な姫君たちを押し退いてまで、ご寵愛を獲得するような激しさを、リエダ様はお持ちではございませんでした。ですから……国王の目が届かなくなったのは、あっという間のことだったのです。リエダ様の肩身は、そのことでうんと狭くなり、またお味方もいらっしゃらぬ辛い日々が続いたそうにございます。ついには城の塔から、身を投げてしまおうとすら、お考えになりました。
ある日本当に、その塔の高みから下の景色を眺めていたとき……そこにおいでになったのが、国王陛下の王弟――サミュエル・ハンス殿下だったのでございます」
「サミュン……?」
「〝鳥は羨ましいものだな〟と、殿下は仰ったそうです。この地に降りたと思ったら、あっという間に飛び立ってゆく。地上につながるしがらみが、何も無いからだと。
それを聞いたリエダ様は、初めて怒ったそうでございます。殿下は鳥の話をしているようで実は違う。飛び降りようとなさっていたリエダ様は、〝無責任だ〟と非難されたことに気づいたのでございます。
〝誰にでも、しがらみはある。鳥にも自分にも、貴方にもあるでしょう〟と。顔を真っ赤にして言い切ったリエダ様を、殿下は声をたててお笑いになった。
あまりに楽しげに笑うその姿に、リエダ様は自分のしようとしていた行いが、急にちっぽけで馬鹿げたことだったのだと感じたのです」
サミュンが大声をたてて笑う光景を、いつの間にか思い出していた。いつだって優しくて、いつだって大きな人だった。その強さに、きっと母も励まされたのだ。
「お二人の間は、それから徐々に近づいて参りました。許されぬ仲だということには、お互いに目も向けなかったのでございます」
「許されぬ……?」
フェイリットは、はたと目を瞬かせて、ジルヤンタータを見つめた。
ずっと顔を伏せていた彼女が、ふいにこちらに目線をくれる。
「そうです。母上は、あなたを一番よい形でお守りになりたかった。自分で人生を決める自由を、お与えになりたかったのでございますよ。フェイリット。リエダ様の愛した方の……あなたの〝お父上〟、その人のもとで――」
見開いた目からは、涙さえもこぼれなかった。
――愛している、リエダ……そして貴女の遺した、愛するわが娘よ。
最期まで、祖国への忠義に抗えぬ俺を、どうか赦して欲しい。
噴き出した記憶の奔流。
あの日、血にまみれて死んでいったサミュエルの手にあったもの。
それは愛した女性とわが子への、謝罪の言葉だったのだ…。
フェイリットは飛び上がるように寝台を抜けて、仕切りの幕を跳ね除けた。