079 砂漠の城に夜が散る
悲鳴を上げたあとで、寝台の縁に座るバスクス帝と目が合う。
ヒーハヴァティーがハレムにいると言った彼が、何故こんなところにいるのだろう? フェイリットは仕切りの幕に手をかけたまま、立ちすくむ。
「陛下、」
フェイリットは呟くようにして、言葉を唇からこぼした。目を開き口を開けて、端から見ればどうとっても驚いているとわかる顔で。
「どうして……」
思わず絞り出た声色に、自分自身が驚く。
どちらかと言えば、最も会いたくない人物が目の前にいるというのに。なぜだか今、もの凄く嬉しそうな声を出してしまった気がする。
フェイリットは眉根を寄せて、バスクス帝の顔をじっと見やった。
「どうして? そう思うようなことが何かあったか」
ハレムに行くから来なくていい――そういった内容の伝令を毎日送って寄越したくせに。その本人が明け方も近い今、ここにいることは可笑しいはず。それに加えて、ヒーハヴァティの言葉はなんだったのか。
フェイリットは息をついて、動転する思考を宥めるために、首を左右に振った。
「お、お久しぶりです」
「ああ、昼間会った気がするが。幻だったかな」
面白そうに目を細めて、バスクス帝は返した。
「いえ、あの……これを。ありがとうございました」
持っていたローブを、フェイリットは少しだけ上に上げて見せる。バスクス帝はわずかだけ首を傾げて、片眉を動かした。
「ああ」
それで? と問うような目で見られて、フェイリットはたじろぐ。無人だと思っていた室に、その持ち主がいるなんて覚悟してはいなかった。
慌てて取り繕うように考えると、フェイリットは口を開いた。
「ええと……それと、セルトを貸していただけませんか。練習したいんですが、盤を持っていなくて」
バスクス帝はわずかに頷いたあと、寝台の横の卓に乗る、四角い箱を指差した。四角い箱は、セルトの盤だ。
フェイリットは歩いていって、セルトを見下ろす。盤の上には何もなく、駒はすべて小さな別の箱に片付けられていた。しばらく触れていなかった箱の蓋を、そっと持ち上げる。
「相手は」
じっとセルトを見ていたら、静かな声が聞こえてくる。フェイリットはわずかに首を振って応えた。
沈黙が降りる。
相手がいないのは本当のこと。ジルヤンタータを誘ったら、「吐きそうです」と断られた。どうも彼女は、イクパルのものを毛嫌いしているらしい。
ここでの知り合いでセルトの相手を頼めるとしたら、バスクス帝以外ではジルヤンタータしかいない。まさかシャルベーシャに頼んでも、快く引き受けてはくれないだろう。
「てっきり、お前が飽きたのだと思っていた。しばらく来なかったろう」
「え……」
セルトを持ち上げようとした手を止めて、フェイリットは目を瞬かせる。〝しばらく来なかった〟原因を作ったのは彼だ。ハレムに行くから来るなと、伝言までしたくせに。「飽きたと思っていた」だなんて。
「直接聞こうにも、このところ見かけなかったのでな」
「……屋上で会いました」
直接聞こうというなら、昼間にできたはずだ。この室に入ったとき、彼の口から出た言葉を真似てみる。バスクス帝が小さく笑ったのがわかった。
「そうだった。では、幻ではなかったのだな」
フェイリットはようやく振り返って、寝台に座るバスクス帝を見やった。
彼は笑うでも冗談めかすでもなく、落ち着いた顔をしている。嘘をついているようにも、見えなかった。
どう受け取ればいいのか。フェイリットが考えていると、「ああ」と思い出したように彼が繋げる。
「砂漠に毎日出ていたのは見ていた。よく頑張っているな」
「……あ、はい」
気づいていたのか……。フェイリットは、唖然としてバスクス帝を見つめた。
バルコニーの三階で、楽しげに笑いあう二人の影が脳裏をよぎる。
手に手を取り合い歩く、バスクス帝とヒーハヴァティ・ウィエンラ公女。
長身であるバスクス帝が、わずかに顔を傾けるだけで、彼女の話を聴いていたのを覚えている。ああいうのを普通は、「お似合いだ」と言うのだろう。
身長差が少なく、並んでも見劣りしない。何よりもヒーハヴァティは、女であるフェイリットが見惚れてしまったほど、美しい姿をしている。彼女がバスクス帝に好意を持っていることも、すぐにわかった。彼が彼女をどう考えているかは分からなかったが、ハレムに通っているくらいだ。〝そういう〟関係にあることは、まず間違いない。……けれど。
――〝今夜は用事があるので、来なくていい〟と、言い遣って参りました。
――陛下は今も、ハレムのわたくしの寝台にいらっしゃるから。
フェイリットはぼんやりと考えて、気づく。
まさか。あの言伝は〝彼女〟が送ったものなのだろうか。
「あの……ハレムにいらしたんですよね。もうお休みだと思ってました」
バスクス帝はフェイリットを見やり、何故かふと笑った。
「泊まったことは一度もない。すぐに戻る」
〝公女を抱いたら〟すぐに。省略されたはずの言葉を思って、フェイリットは口を噤む。
すっと細まったバスクス帝の目から、ゆるゆると視線をはずした。砂の色に似た絨毯に乗る、彼の足あたりに目先を変えて、彷徨わせる。
なんだか、変な気分だった。ここから逃げ出したいのに、それができない。泊まったことが無いだなんて、嘘にしか聞こえないのに。
黙ってしまったフェイリットを見たせいか、バスクス帝が息をついて笑うのが聴こえる。
「寂しかったのか?」
冗談のようだった。
フェイリットが顔を上げると、バスクス帝はその腕をさっと広げて見せる。まるで〝おいで〟とでも言うように。
その広げられた腕の中を見ながら、フェイリットは時が止まったように固まる。
――……これは、いつもの冗談だ。
いやです、とフェイリットが応えて、バスクス帝は肩を竦めて笑う。それで終わりの冗談なのだ。
そうやってセルトを借りて、おやすみなさいを言って……、その後はジルヤンタータの部屋に戻り練習する。……ひとりで。
それが一番、いい行動だった。考えればこんなに簡単なことはない。
……なのに。なぜだろう、そうすることができない。
身体が真逆に引っ張られて――、
気づいた時にはもう、飛び出していた。
バスクス帝は驚いた顔で、けれどしっかりとフェイリットを抱き止めた。飛びかかるような勢いで彼の首元にしがみついて、フェイリットは彼の肩すじに鼻の先を押し付ける。
自分の匂いではない、甘い香りがした。
「……ひとつ、教えよう」
抱きあったまま、バスクス帝が低い声で言う。
「私は他の者のいる隣で、眠ることができない」
――彼の話す振動が、肩すじを伝わり…背骨に落ちていった。
「それ、は」
人の隣で眠れないなんて。それは明らかな嘘だ。
なにより何度も、フェイリット自身が彼の寝顔をとなりで見ているのだから。けれどそこまで考えて、フェイリットは気づく。
〝おまえの隣では眠ることができる〟という、その言葉の本当の意味に。
「陛下……」
抱きついたのは、はっきり言って衝動だった。深い理由など考えずに、体が動いたのに従っただけ。
フェイリットは身じろぎするようにして、バスクス帝から身体を離す。
見つめ合うような姿勢でほんの一瞬、沈黙が降りた。身体が動いたそのわけを、考えるのは億劫だ。
フェイリットはゆっくりと微笑んで、バスクス帝の頬に両手をやさしく添えた。
「…にぶい奴だと思っていたのだが」
笑いを噛み殺したような顔で、バスクス帝は息をついた。
鋭い顔。眉間に皺の跡が乗り、目は深淵のように底が見えない。まるで夜の空を飛ぶ鷹のような目だ。
怖い、と思ったのはいつのことだったか。怖くないと感じたのは、いつからだっただろう。フェイリットはその暗い色の瞳から目を反らさずじっと見つめ――瞼を閉じてくちづけた。
身体が持ち上げられて、いつもより高い視界から、彼の手が深紺の垂れ幕を掻き分けるのを見つける。
背中に柔らかい寝台の感触を感じてそっと目を上げると、もう、バスクス帝の顔は笑ってはいなかった。
目がまわる。窒息する。破裂しそう。
――後から思い出せたのは、そんなことばかりだった。
合わせられる手が、唇が、身体が……こんなにも熱く鋭利だなんて、誰が教えてくれただろう。深く切りつけ痕を残し――乳香の匂いが、身体に満たされてゆく。
「―――フェイリット」
耳元で聴こえる柔らかな呼び声が、夜の底へと沈んでいった。