007 月夜のくちづけ
けれど、押しつけられた唇は、思いもよらず温かく――優しかった。
「黙れ」と言った冷たい声を思い出し、フェイリットは自らを抱き上げ歩き続ける男から、困惑のまま目を逸らす。
唇をふさいだ柔らかな感触……キス? いいや、あれは違う。ふさぐように、押し付けるように、そして男の眼差しは冷酷そのものだった。
挙げ句「黙れ」とはなんだ。一瞬でも唇を合わせた者が、言う台詞ではない。
あんなのが自分にとって初めての――。そこまで考えると、怒りまでこみ上げてくる。
相手の承諾もなしにあんなことをするなんて。踏みしだかれた初めてのキスへの憧れが、音をたてて崩れてゆく。
お花の咲き乱れるお庭で、手と手を取り合って……、
「なんだ、物足りないか」
「はっ?」
じっと睨まれていることにようやく気づいたのか、男が視線をこちらに寄越す。
文句のひとつでも言ってやろうと口を開けたものの、つと合わせられる背筋を射抜くような鋭い眼に固まってしまう。
どうやってこの腕から逃れよう。そんなことを考える余裕もなくなってしまった。
そも、歩いている方向は全く定まらない。少なくともワルターやアンがいるであろう、松明で囲まれたひと際明るい最前地には向かっていなかった。
誰かの名を口にしたあたり、自分と間違われたその人物はそのどちらかの従者のはずだ。ならば当然どちらかを捜しに足を進めているのかと思っていたが……。
そんなフェイリットの考えもよそに、男は準備に追われる近衛兵たちの間を、つかつかとすり抜けるように進んでいく。
「侍女でないなら何者だ、松明も持たずに。遊牧民か? いや、遊牧民が紛れ込んだにしては、お前の衣装は上等だ」
フェイリットは俯いた。こういう場合どう返答すればいいのだろう。再び震えはじめる自分の身体が気になって、頭がうまく働かない。
……怖い。目つきや猛禽のような印象だけではない、もっと腹の底からじわじわときて、背筋へと流れる、狂おしい違和感。
「た、松明ならあなただって持ってない」
とっさに口を突いて言葉がこぼれる。男は目を細めて笑ったかに見えた。
「――たしかに。では、名でも聞こう」
フェイリットは泣きそうになりながら、首だけを横に振った。
「……はなして」
かすれた声でようやく言い切ったのは、解放の懇願。
男は沈黙したが、しばらくしてゆっくりと地に下ろされた。
まわりには兵たちの姿は見えず、気がつけば随分とはずれまで来ていたようだ。アルマ山を前方に、ぽつぽつと灯る松明の明るさが遥か向こうに見える。
地に足を着けて、フェイリットはほっと息をついた。いやな汗がひいていくのがわかる。――が、漆黒の瞳は、未だこちらを見下ろしたまま。ふと視線をやると、またもその眼に絡めとられる。
「不思議だ」
「――え?」
「明かりも無いのに、お前の瞳の色がわかる」
フェイリットは慌てたように、顔を俯けた。
暗闇で自分の顔を見たことはない。けれど夜目が利くことを思えば、この男にとってフェイリットの瞳は、闇にぼんやりと光る猫の眼のように見えているのかもしれなかった。
「……月明かりの、せいです」
言い訳のようにぼそぼそと呟いて、自分身体に「お前は人間、人間」と繰り返し言い聞かせる。
山小屋でカランヌに見せたような肉体の変貌は、ぜったいに許されない。
「そんなに固くならずともいい」
男の大きな手が伸びてきて、顎のあたりにつと触れる。
「夜空を見ながらというのも粋だろう」
その手はするりと頬を撫で、頭の後ろに来たかと思えば、そっとうなじを撫でた。気づくと導かれるように、男の胸元に鼻先をうめていた。
乳香の香りが、ゆっくりと気持ちを落ち着けていく。
「フェイリット!」
突如かけられた声に、フェイリットの肩が跳ねる。男の手は、今まさに着衣を解こうというところだった。
かけられた声はやや遠く、目の前にいる男のものではない。
「い、いや!」
ようやく自分を取り戻し、かろうじて動く右手で男の身体を押し戻す。
相手も驚いていたのか、頭と上背に回された手は、はらりと容易にほどけた。押し戻した力の反動で、フェイリットのほうがよろめいてしまったが。
「フェイリット! 大丈夫か!」
再び呼ばれる声に視線を巡らせば、そこに、見慣れた赤毛の女性の姿があった。