076 追い慕う
真っ青な高い空は、日照りのきつさで顔を上げるのが辛いほどだった。窓が小さく、やんわりとした光しか入らないバッソス城に居た後では、外の日差しはただでさえ眩しい。
ジルヤンタータは頭を覆うアバヤを、額を深く隠すようにして引き寄せ、強面と呼ばれるその顔を少しだけ緩める。
視線の先のフェイリットは、オフデ侯爵と二人、いつものように地図と睨み合っていた。さんさんと降るきつい日差しをものともせず、よく半日近くも砂漠を歩いていられるものだ。
――元気そうに見えるけれど、……あの娘は泣かない子だから。
昨夜に血を吐いたというのに、彼女はまったく普段通りだ。今朝はジルヤンタータよりも早く起きて、日の出を窓から眺めていたほど。食欲もあったし、苦しげな顔ひとつ見ていない。
「あ、ジルヤンタータ」
彼女らの近くに駱駝をとめたのは、もう随分と前のことだ。よほど集中していたのか、フェイリットはさっと振り返ると、まるで今気づいたといわんばかりの驚きを笑顔にのせる。
「おや、もう昼時ですかな。まったく、あなたと居ると時間を忘れてしまいますな」
オフデ侯爵が太陽の位置を確認するように空に目を向けて、しみじみと呟いている。フェイリットは照れたように笑って、その手に持っていた地図を丸め始めたところだ。
「お忙しいのに、こんなにたくさん時間を頂いてしまって。いつもありがとうございます」
さっと綺麗に頭を下げるフェイリットの姿は、颯爽としていて、どちらかと言えばどこかの貴族の子息のようにさえ見えた。
「いやいや。城に居るよりも楽しめますからな。羽延ばしにつき合っていると思って下され。――と、ジルヤンタータ殿。タブラ=ラサをお返ししますよ」
オフデ侯爵の言葉を受けて、ジルヤンタータはイクパル式の礼を返す。
駱駝をまだ操れないフェイリットのために、昼時になるとジルヤンタータが迎えに出ていた。オフデ侯爵の駱駝に乗せてもらうからとフェイリットは言い張るが、曲がりなりにも皇帝の〝妾妃〟が、他の公国で他の男と近しいと思われては厄介だ。本来ならイクパルは、こうした女性の一人歩きさえ歓迎されない国柄なのに。
「ではタブラ=ラサ、また明日に」
「はい」
ジルヤンタータの礼を見届けてからフェイリットに挨拶すると、オフデ侯爵は自らの駱駝に跨った。あっという間に、走り去っていく背中を見つめながら、ジルヤンタータはフェイリットにそっと言う。
「お加減はいかがですか」
「……え? ああ、そうか。大丈夫だよ、心配性だねジルも」
「〝も〟?」
その言葉尻に気づいて首を傾げる。見上げればもう、彼女は駱駝に飛び乗っているところだ。
「行こう」
少しだけ痛そうに笑った彼女を見て、聞き返さなければよかったかと思う。彼女が想う「心配性な人」――考えずとも、それがサミュエル・ハンスであることはわかる。
ジルヤンタータは頷いて、フェイリットの後ろの鞍へと飛び乗った。
「ね、わたしがたずな引いてもいい?」
「宜しいですが、危ないと思ったらすぐに、」
「だいじょうぶ」
楽しそうに笑いながら、フェイリットは駱駝を進めた。特に教えてもいないのに、感覚が鋭いのだろうか。意外と苦もなく駱駝の脚が動いている。
城はここより北にあるから、ちょうどこちら側へ南に位置する建物が顔を向けていることになる。つまりここから目に映る城は、ハレムだ。
小さなオアシスのような人口の泉と、棗の木が囲いのようになっているのが見える。その向こうに円柱の柱が並んでいて、ハレムはその奥だ。バッソス城の本宮と同じく三階建てで、そのそれぞれの面に半円の床のバルコニーが突き出しているのだった。隔絶された生活を送る女たちが息をつけるように、人工のオアシスを造っているのだろう。
ふと気づくと、フェイリットも同じ方角を見ていた。遠くを見据えるような位置に、頭が傾いている。
「……笑った」
小さな声が聞こえてくる。何を観ているのだろう……。確かめようと伺って、ジルヤンタータはようやく小さな人影を二つ見つけた。
ハレムに突き出す露台だ。小指の先ほどしかなく、顔を見分けることはできそうもない。しかしフェイリットの目は、間違いなく何かを捉えている。
駱駝はどんどん城へと近づいた。とうとう人影が見えた三階のバルコニーの真下へ来て、ジルヤンタータはやっと気づく。
「あれは……バスクス二世陛下とヒーハヴァティ・ウィエンラ公女ですか?」
こちらには気づいていない。バルコニーを歩きながら、二人は何かを話しているようだった。ヒーハヴァティは合間なく楽しげに笑い、バスクス帝にぴったりと寄り添っている。
バスクス帝はというと、いつもの彼とは想像もつかないほど大らかな雰囲気で、公女の話に耳を傾けていた。妾妃になるというヒーハヴァティの話は、着々と進んでいるように見える。
〝笑った〟と言ったフェイリットの呟きを、そこで思い出す。
彼女は今、バスクス帝を見ていたのではないのか。
バルコニーの二人をしばらく見ていると、奥に戻るのか、階段のような段差を上りはじめた。
一階よりも低い場所のこちら側では、それが本当に階段なのか確かめることは出来ない。だがバスクス帝はその手を公女に差し出し、転ばないように支えているように見えた。
あんな紳士的なことも出来るのか。そう関心しながらフェイリットの背に目線を戻すと、彼女の目はすでに前を見ている。手はたずなをさっと引いて、駱駝を横に向けたところだった。
――分からない。フェイリットは、バスクス帝を好いているのか否か。
ジルヤンタータは苦い表情で、フェイリットの背中のあたりを見つめていた。
砂漠でバスクス帝を助けるため、飛び出した彼女を見たときは「まさか」と思った。
竜の忠誠心は、恋愛感情にとても近い。そして一概に、雌の竜は男の王を、雄の竜は女の王を選ぶのだと云われている。〝サディアナが恋をしたら、相手諸とも殺せ〟という命令を、ジルヤンタータがノルティス王から受けていたことも裏付けとなる。
フェイリットが恋をしたら、それはそのまま「主に気づいた」ことになる。ジルヤンタータは少なからずそう思っていた。
どういう過程で竜が覚醒し、主を選ぶのか。そういった詳細は、一切伝え聞いていない。それはメルトローを裏切ってしまった自分には、もはや手に入ることのない情報だ。
「フェイリット」
静かな声で呼んだつもりが、ついいつもの堅い声になってしまう。自分の声にうんざりしながら、そっと振り返り視線をくれるフェイリットに、ジルヤンタータは微笑んで見せた。
「バスクス帝は、お優しい方ですか?」
「え?」
あからさまに驚いた顔をして、フェイリットは口を開ける。もちろん探りを入れるための質問だったが、唐突過ぎたのだろう。彼女は前を向いてしばらく黙り、不意に駱駝を止めてしまった。
「どうかな……。どうしたの?」
「選べと、言われていたでしょう。彼がもし本当に死ぬ気だとしたなら……あなたはどうするおつもりなのかと」
死ぬ準備をしている。そう言ったバスクス帝の言葉を、彼女も忘れてはいないはず。彼と、古き無能の皇帝の妃として共に滅びるか、次の皇帝の助けとなるか。
こうして水脈を調査し、灌漑をつくるための計画に加担しているところを見れば、バスクス帝の言う〝次の皇帝〟を選んだように思えてしまう。地下水を汲み上げて地上に流す工事は、どんなに技術があっても一年や二年では不可能。バスクス帝が玉座にいる間に、日の目をみることはないはずだ。
「目の前で死なれるのは、あまり良い気分じゃないから」
ゆっくりと、呼吸するようにフェイリットは答えた。
「それは、」
と呟いて、一人の男を思い出す。彼女を育て、そして死んでいったサミュエル・ハンス。さきほどといい、今といい……彼女は明らかに引きずっている。彼の、死の結末を。
それは凄惨なものだったと聞く。普通なら吐いてしまっても可笑しくはないほど、酷い自害だったと。腕を切り、腹わたを裂き、それでも死ねずに首を切り――部屋の中は、まさに血の海だっただろう。
他人が見ても逃げ出したくなるような場面を、肉親として見る心境は、計り知れない。
そんな光景を目にしていながら、同じことをしようとする人間を見過ごせるほど、彼女の心は強くない。
「けどイクパルに水が流れたら、きっとすごく豊かになれる」
ジルヤンタータが言葉を探している間に、駱駝はまた歩きはじめる。
南側から城沿いに周り、西に面した方に城下の街と大門が現れた。フェイリットはそのまま駱駝を進めて、石造りのアーチをくぐっていった。
「イクパルとメルトローは、生活の質に百年の差があるんでしょ? ずっと山暮らしだったし、メルトローの都をこの目で見たことはないけど。そんなに違うものなのかな」
思わず頷いてから、ジルヤンタータはやんわりと息を吐き出した。
「それは、……そうですね。確かに、メルトローは豊かです。メルトローの視点から見れば、イクパルが文化的に遅れをとっていると思えても、仕方の無いことかもしれませんが」
決して豊かではないが、餓死者が出るほど飢えてもいない。
イクパルに滞在してわかったのは、そのあたりの調節がうまくされているということ。メルトローに居た頃は、イクパルは酷く貧困に苦しんでおり、その日を暮らすにも精一杯だという認識が強かった。
餓死者は道端に溢れるほどだ、という噂まで聴いたことがある。しかし、実はそうではなかった。他の国に遅れをみているのは確か。それでもこの国は本当にぎりぎりのところで、民を餓死にまで追いやってはいない。これは間違いなく、上に立ち、政務を執っている者の手腕だ。
「イクパルの執政は、ウズルダン・トスカルナ宰相によるものなのですか?」
「え、どうして?」
「いえ、単なる好奇心でしかないのですが」
ジルヤンタータの質問に、フェイリットは何故か困ったように首を傾げる。
「ううん、どうなんだろう……」
今度首を傾げたのは、ジルヤンタータの方だった。
話に寄れば、彼女はずっとウズルダン・トスカルナの執務室で寝起きし働いていたはずだ。そうして宰相の執務を補佐して過ごしていたのだから、どちらが本当に政治を取り仕切っていたのかなど、分かっていて不思議はないだろうに。
フェイリットはゆっくりと俯くと、
「……一度だけなんだけどね、夜中に目を覚ましたことがあって。いつもはウズさまが座ってるはずの執務机に、陛下が座ってたんだ。座ってたっていうより、眠ってたんだけど」
そう零してジルヤンタータに目線をうつす。
「それは本当に〝眠ってた〟だけなのでは?」
「そう思うよね。それから徐々に気づいたんだけど、ウズさまは陛下の筆跡を真似るのがすごく巧いの。そういうの気になっちゃって、すごいなあっていつも眺めてたんだけど……気のせいなのかな、陛下の筆跡もウズさまの筆跡も、だんだん半々くらいに思えてきて」
〝困った〟というのがいかにも分かる声色で、フェイリットは小さく唸った。
まさかそんな話があるのだろうか。政治も軍事も省みず、ハレムにばかり通っていた〝暗愚〟と呼ばれる皇帝が、実は有能だなどと。
メルトローにいた頃から、バスクス帝の噂は良いものを聞いたことがなかった。皇子時代は女と見ては誑かし、遊んでいるという噂。そして即位してからは、ハレム以外に興味がないような愚鈍な男として話されている。
そんなことでは他国の頭が揃いも揃って、侵略を考えそうなもの。しかしこれまでこの国が無事だったのは、さしたる物流や魅力的な資源が、ほとんど無かったからだ。
他国の目が決して向かわないこと。それを分かっていて無能な皇帝を演じ続けていたとしたなら、……あの男は本物だ。
「どっちを選ぶのかって、ジルは訊いたけど……わたしが今できることは、こうやって砂漠を歩き回って、どこに水脈があって、どれを引けば安全に灌漑ができるのか。それを調べて残しておくことだと思ってるの。陛下にもね、選べとは言われたけど。あの言い方は〝新しい皇帝に付け〟って言ってるようなものだった」
彼女とバスクス帝が過ごした五日間を、知らないわけではない。セルトをしながら、信じられないほど楽しそうにしていたのを覚えている。その時間の中で、彼女がバスクス帝に持っていた印象をがらりと変えたであろうことも、わかっていた。
「イクパルには、平和な暮らしが必要。わたしのせいで、攻められるようなことがあったら駄目だ」
「……フェイリット」
「それに、バッソスから地下水脈を引くのは、やってみたいの。帝都の井戸の数、知ってる? すごく少ないの。暮らしている人口に対して、ぜんぜん足りない。バッソスのを成功させたら、帝都の井戸だって改善できるかも。そしたら、イクパルはメルトローに負けないくらい、水に満ちた国になるわ」
「それは、素敵ですね」
「でしょう?」
気のせいだと思って、いいのだろうか。嬉しそうに見えるのは外見だけで、小さく震える肩筋が、真実かと感じてしまう。
「次の皇帝」とは、おそらくバスクス帝の死後の皇帝のことを指している。彼女が側にいたいと思う人が、バスクス帝でないならいいが――。
ジルヤンタータは小さく首を振って、息をつく。
彼女の頭の中を占めるのは、もしかすると「国を想うこと」ばかりなのかもしれない。いつだって、その興味が向かうさきは〝国〟だ。
「ヒーハヴァティー・ウィエンラ公女は、とても教養に恵まれた方だそうです。賢く、周囲を見定めることに長けていると。あの方も、よい国を夢見てくださるといいですね」
いつの間にか、城の厩舎に着いていた。駱駝から身を降ろして、地面を見ながらフェイリットが肩を竦めるのを見つける。
「…そうだといいね。でも……本当言うと、ちょっと羨ましかったなあ」
ぽつりと言ったあとで、フェイリットは仕方ないような顔で笑った。
羨ましかった……? それはヒーハヴァティ公女が、……なのだろうか。その他に彼女が省いた〝主語を、見つけられない。バスクス帝と仲むつまじく、手を取り合う公女の姿が目に浮かんだ。
「フェイリット」
彼女は吐き出すように息をついて、顔を上に引きあげた。
「うん。わすれていいよ、今の」
その顔は空を見上げたようで、実は違う場所を見上げている。ジルヤンタータはフェイリットを見つめて、開きかけた口を噤んだ。