073 タントルアス王の足跡
◇◇◇
遊びだと思っていた。
何度も駒を動かして、こういう陣形ではこう、こう来たらこう考える、深追いはしない。そういった一々の戦略を教えてもらいながら。
楽しくて、どうでもいい話をして笑った。久しぶりに遊んでいるのだと、喜びさえ感じていたのに。
これが、まさか彼の戦い方だとは――彼が軍を動かす特性や癖やその対処を、彼自身が遊戯の盤に解説していただなんて。
どうして気づけただろう?
この頃は考えることもできなかった。彼が〝選べ〟と言った、その幅の広さを。
彼を討ち負かす為の伏線を、この頭に叩き込まれたことを。
◇◇◇
「せっかくですのでご一緒のお部屋をお使いになってはいかがですか」
オフデ侯爵のひと言に、フェイリットは目を丸くして口を開けた。
「…えっ?」
砂漠から帰り、ひとまずジルヤンタータの元へと歩き始めたその背中を、彼に呼び止められたのだった。バスクス帝は他に用事があるようで、バッソス城に着いてすぐ、どこかへ行ってしまっている。
「あの、」
「こういう水入らずの機会は、今後なかなか無いかと思いますがな」
オフデ侯爵が微笑んで言うのを、唖然とした顔のままフェイリットは見上げていた。
部屋までは遠いし、当分この話題を続けることになりそうだ。妾妃として披露目されたとはいえ、これはただの「偽装」にすぎない。
「……わたしは」
「ご遠慮なさいますな。ハレムの概念は、メルトロー人である貴女には理解しがたいものでございましょう」
歩きながら、問いかけるようにオフデ侯爵が呟いた。
「……その、わたしのこと、ご存知なのですか?」
「知っているつもりでおります。メルトロー王の十三番目の嫡出子であり、タントルアス王の生き写しと讃えられたサディアナ・シフィーシュ様。我々は過去、タントルアス王の指揮下におったのです。もう随分と昔の……御伽噺よりも遠い過去になりますが。本当に、そっくりだ。あと五年も経てば、最盛期のタントルアス王に瓜二つとなることでしょう」
静かな声で言ってから、オフデ侯爵は優しげに微笑んだ。その口ぶりは、まるでタントルアス本人を見知っているかのようだ。千年も前に王に就き、六百年を生きた彼の時代が終わって、もう何百年も経つ。そんな昔の人のことを、その目で見たように「瓜二つだ」だと言うなんて。
「性別が違います。あと五年もすればわたしは……。今はその、ちょっと女っぽくないかもしれないですけど」
タントルアスは男。そしてメルトロー国王は、男性君主と定められている。
五年経てば、フェイリットは二十一歳だ。寿命を迎えずにそこまで生きていられたとすれば、もう少し、出るところは出て引っ込むところは引っ込んで、女らしくなれているはず。
確かに、タントルアスはどちらにも見える中性的な顔をしていて、綺麗だけれど。自分とはまったく違う。そもそも自分は、単にこの瞳や肌や髪の色合いが認められて十三番目の号をもらったのだ。
「そうですな」
頷いて、オフデ侯爵は苦笑した。どうしてそんなに残念そうな顔で微笑むのか。フェイリットは首を傾げて彼を見やる。
「似てるって、よく言われます。けれどわたしは、その人を実際見たわけではないですし、見たとしても、そこまで双子のようには……」
そこまで言ってから、ふとバスクス帝の部屋でタントルアスの肖像画を見たことを思い出す。鏡を見ているようだと感じた気がするのは、目をつむることにした。なにより性別が違うのだから。
「ええ、承知しております。貴女は貴女だ。まったく混同して、貴女という存在を否定しているわけではないので、どうか気を悪くしないでいただきたいのですが」
「いえあの、怒っているとか、そういうのでは……。ごめんなさい」
さっと頭を下げて、フェイリットは自らの足元を見つめた。裸足ではないが、足先が見える簡素な靴を履いている。メルトローのような、足を包み込む靴ではない。
イクパルに来て着るものから食べるものまで、生活ががらりと一変した。なにより、イクパル語が中心になった。この文化に戸惑わなかったといえば嘘になるが、けれどオフデ侯爵が問うほどの、反発はなかったように感じる。
「ここで言う愛妾って、公的なものなんですよね。メルトローにもこそこそと愛人をつくっている方は多いですし。きっとどの国でも変わらないのかなとは…思います」
笑って、フェイリットは付け加えた。オフデ侯爵は困ったように、肩を竦めて見せる。
「嫉妬を感じることは?」
「嫉妬……?」
「バスクス二世陛下が、他の愛妾と過ごしていても、気にはならないのですかな?」
「他の?」
驚いたように、フェイリットは目を瞬かせる。
「はっはっは。答えに窮するようでは、貴女の気持ちはまだまだなのでしょうな。……ひとつ、教えてあげましょう。タントルアス王は、幼い頃よりおてんばで、馬をあちこち乗り回し、怪我をしては御殿医に叱られているような方でしたよ。ジャーリヤに納まろうとせず、小姓衣を着て外に飛び出すどなたかと、そっくりではございませんかな?」
にっこりと笑ってオフデ侯爵は足を止めた。横を歩いていたフェイリットもつられて止まるが、彼が笑顔のまま目線で示した先を見て、固まってしまった。
「どうぞ。こちらがバスクス二世陛下のお部屋ですぞ」
バスクス帝の室を目の前にして、フェイリットはオフデ侯爵を見上げる。まさか本当にここまで連れてこられるとは、思っていなかったのだ。
「似ているということは、一見して悪いことではありません。自分と同じような考え方をする人を知ることで、その人を参考にもできるし、またその人の踏んだ誤りを、わが身の枷にできる。少なくとも私はそう思っております。貴女はとても複雑な事情をお持ちのようですからな。よければいつでも、お話しくだされ」
確かに、似ていると言われ続けて、そこに本当の自分が置き去りになっている錯覚が、ずっと嫌だった。
フェイリットという中身があることを、人はわかってはくれない。サディアナ王女という分厚い殻の外側だけを、タントルアスの化身という誉れだけを、人々が見ている寂しさ。
けれどそれはオフデ侯爵の言うとおり、受け止め方ひとつで違うのかもしれない。何より過去の人なのだから、その人を学ぶことは少しも悪いことには感じられない。
微笑むオフデ侯爵に向けて、フェイリットはようやく笑顔を返すことができた。
「バスクス陛下にはお伝えしてありますのでな。それと貴女の侍女には、この近くの部屋に移ってもらうよう言っておきました」
「ありがとうございます。お手間をかけてしまいました」
結局は、この場で断ることはできないのだろう。
フェイリットは思い直して、素直に頭を下げた。もともと、まじないをするという約束はしてあるのだから、それが済んだら彼に直接伝えればいいだけの話だ。自分は他の部屋で寝る、と。
微笑んだままのオフデ侯爵にもう一度礼をして、フェイリットはバスクス帝の部屋の仕切り幕を静かにくぐった。