072 オアシスに咲く夜の花
砂漠の夕陽は、大地をも朱く染め上げた。
連なるアルマの山脈が、ゆっくりと太陽を飲み込んでいくのだ。太陽を奪われると、大地はとたんに暗くなる。
朱く照らされていたはずの砂の地面がほんの一瞬で黒く変わっていくのを、フェイリットは佇んだまま眺めていた。
「ジルヤンタータ……」
後ろで駱駝に蔵をつけているだろうジルヤンタータに、振り返ることなく言葉をかける。返事はないが、彼女のことだからこちらを見てくれたはずだった。
フェイリットは夕陽を見ながら、
「あれ、怖いと思う?」
ふと、そんなことを口にする。
「夕陽? 綺麗だと思いますが」
「うん、綺麗。そうよね…」
逆光のせいで、暗闇に染まった砂の大地。そして、赤い赤い空。じきにそれが桃色になり、紫になり、夜の色になっていく。
あれを恐ろしいと感じた日々が、なんだか不思議でならなかった。山で見る夕陽とこの地上で見る夕陽に、違いなどあるのだろうか。
いつかはあそこへ還る――そう思い見続けてきたメルトロー王国は、今や広大に横へ伸びるアルマ山脈の彼方だ。
「ずっと恐かったの、夕陽。なぜかわからないけど、焼かれてしまいそうで。まだ空も飛んだことが無くて、お前は竜だって言われても実感わかなかったせいもあるけど……それでもね、夕陽の中を飛んだら熱くて熱くてたまらないだろうなって、考えてた」
まるで業火のような。緑の葉が生い茂る、梢のすき間から見上げるはじまりと終わりの空は、いつでも恐ろしい色をしていた。雲も、山も、緑も鳥も、自分たちも。すべてが業火に飲み込まれ、焼き尽くされてしまう……そう感じていたのだ。
「空を飛ぶ貴女を、わたくしは見ましたよ」
フェイリットは夕陽に向けていた顔を、ゆっくりと地面に落とした。そしてそのまま振り返り、ジルヤンタータの漆黒の瞳を見つめなおす。
「あれは貴女が最初に竜へと変化した日だったのでしょう。あの時は朝でしたが、空は朝焼けで綺麗な橙色をしていたのを覚えております。アルマ山脈の一手からまるで空へ吸い込まれるように跳び出した竜は、その朝焼けの日差しを浴びて、黄金の色に輝いていたのでございますよ。本当に――見たことがないほど、竜とはうつくしいものだと感じました」
微笑むようにして、彼女の目はゆっくりと細まった。アバヤとヴェールをしっかりと着けていて目元だけしか見えないが、今ならジルヤンタータの表情が柔らかいものだとわかる。
フェイリットはつられるようにして微笑みながら、肩を竦めた。
「でも体中に毛が生えるって、あんまり嬉しくないわ」
「そうでございますか? 無いよりはいいかと思いますが」
「つるつるの竜……それはそれで日の光も反射しそうだね」
山の小川に棲む山椒魚が頭に浮かんで、フェイリットは顔をしかめる。つるつるだが、いくらなんでもあんなのが空を飛んでいたら恐ろしいはずだ。見る間に顔を顰めていくフェイリットを見かねてか、ジルヤンタータは声を立てて笑いはじめた。
「同じようなことを、リエダ様が仰っていたのを思い出しました」
「え、お母さまが?」
「ええ。彼女は結局、一度も竜に変化することなく生涯を閉じましたが。いつだったか竜の話をしていて〝蜥蜴みたいだったら気が沈むなあ〟と」
フェイリットは眉を潜めて、ジルヤンタータを見つめた。
「あながち嘘じゃないかも。毛が生えた蜥蜴……っていうか蛇っていうか」
自分で言っていて、これはどう考えてもジルヤンタータの言う通りの「うつくしい」ものではないような気がしてくる。畏怖や尊敬や、恐怖の目で見られることはあるにせよ、竜が美しいだなんて聞いたことがなかった。
「どうなるのかな…私」
ぼんやりとフェイリットが言うと、ジルヤンタータはゆっくりと首を傾げた。そして口元を覆っていた布を外して、にっこりと笑う。
「どう選択しようと、貴女の人生なのですから。わたくしはそれに、最後までついて参りますよ」
母のように人間として死ぬことを選ぶか、竜として伝説のエレシンスのように、だれかの側で生きつづけるのか。けれどジルヤンタータの言葉を一瞬だけ考えてから、フェイリットは驚いたような顔で笑って彼女を見つめた。
「なんだかプロポーズみたいね」
リエダ……母に、恩があるとジルヤンタータは言っていた。彼女と出会って救われたから、その子どもであるフェイリットに、こうして娘のように接してくれているのだ。けれどそれに、甘えてはいけないのだと思う。
「プロポーズ、でございますか」
「うん。ありがとう、ジル」
微笑んで、フェイリットは手に持っていた地図をさっと広げた。
みんなに幸せになって欲しいだなんて、偉そうなことは言えない。けれど自分のせいで戦争が起きて、誰かが不幸になるのだけは絶対に駄目だ。
地図は片腕の長さほどもある動物の皮に、このイクパル全土を描き記したものだ。フェイリットは地図に向かう目線を、遥か先でオフデ侯爵と話すバスクス帝にそっと移す。
「それにしても……あんなに自分で動く人だったのね、陛下って」
地下水をくみ上げて、城下の町へどのようにして巡らせるか。そんな話を延々と話しているようだ。
バスクス帝といえば、宰相の下で小姓をしていても滅多に姿を見かけず、小姓仲間からも無能だと罵られ、事実皇帝らしいことは何もしていなかった人のはずなのに。
砂漠に取り囲まれたバッソスが自力で水を確保できるようにと、自ら地質を調べに砂漠に出る皇帝の背中を、フェイリットは複雑な目で見つめていた。
……本来は、ああいう人なのだろう。
イクパル皇族の帝位争いには、フェイリットは詳しくは無い。けれどいつだったか聞いたことがあった。バスクス二世は、末の第四皇子だったのだと。帝位にはほど遠いはずの彼が皇帝となり、ウズルダンとともに悪帝を演じ切っている。
解きようも無く複雑に絡み合った、過去の何かを自分ごと葬ろうとしているなら。……それはなんだか哀しい。
「あの方も、色々と背負い込んでいる様子。いいように丸めこまれないよう、存分にお気をつけくださいませ」
彼を見ていることに気づいたジルヤンタータが、釘を刺すように強い口調で言った。フェイリットは困ったように笑いながら、地図へと目線を戻す。
自分の役目はどこに水脈が走り、どこから汲み出すべきなのかを示すだけだから、もうほとんどすることが無い。けれどなぜだか、フェイリットにはバスクス帝の背を見続けることができなかった。
「大丈夫だよ。わたしだって〝数いる中の〟の愛妾だもの」
それも寝屋に侍る愛妾ではなく、政治的に利用するための形式的な愛妾だ。
フェイリットはほんの少し、地図から顔を上げてジルヤンタータに笑顔を向けた。
利用されたくないからとアルマ山を飛び出し、メルトローから逃げたけれど。今は違う。自分を利用することで誰かが救われるなら、それでいいと思えた。
いつの間にかすっかり夜の色になった山あいを眺めながら、囁くようにフェイリットは続けた。
「夕陽は恐くなくなった。けど、ときどき思い出すの。サミュンの真っ赤な部屋を」
ともに過ごし、笑いあったり、ときどき怒られて泣きながら囲んだ食卓の下。そこに力なく横たわる、血まみれのサミュエルが。腹を裂き、腕を切り、それでも死ねずに喉を掻いた―――彼の無残な死が、ずっと離れない。
彼を想って泣きたいのに、ぽっかり空いた穴からは涙も何もこぼれなかった。寂しいのに、泣くことができない。彼の死を認めることができないのだ。
もう決して逢うことはできないと、わかっているのに。
「フェイリット」
「でもね、もしかしたら陛下は…わたしよりも辛いものを見てる」
椅子でばかり眠る彼を思い出し、フェイリットは表情を曇らせて言った。
夢見が悪いのだと言って、苦い顔で哂っていた。真っ青な顔をして天蓋から出てきたのは、倒れたバスクス帝を寝台に寝かせていたからだろう。
深い眠りのあとに見る悪夢を、彼はずっと恐れていたのだ。目覚めた後、胃の中のものをすべて吐き出してしまうほどの。
「――ギスエルダン牢獄」
「え……?」
「バスクス二世陛下はそこで、五年を生きのびたと聞いております。強靭な意志を持った兵でさえ、ひと月で狂い、自ら死を選んでしまうような地獄の牢です」
ジルヤンタータの静かな言葉に、フェイリットはその目をバスクス帝へと戻した。話し合いが終わったのか、歩いてこちらへ向かってくる二つの影が見える。
「おや、まさかとは思いましたが、妾妃でしたか?」
「あ、はいっ!」
近づいたオフデ侯爵が、驚いたように口を開く。無理も無かった。
フェイリットの姿は、バッソス公王に謁見したときと全く違うものだ。肌は黒く塗り、髪も黒く、おまけに衣装は小姓衣を着ている。さきほどまでは太陽の眩しさを避けるために、すっぽりとローブを頭まで被っていたのだから、気づかずとも不思議ではなかった。この格好で気づかれたほうが、驚きだ。
「今日は驚かせていただいた。まさか貴女のような少女に、このような知識があるとは」
地図を受け取り眺めながら、オフデ侯爵はしみじみと言った。フェイリットは照れるように笑って「ありがとうございます」と応える。
「……しかし、なぜ小姓の格好など?」
「それは面ど……ぶげ!」
面倒くさいから、と答えようとしたフェイリットを遮るように、バスクス帝の手がローブを被せてくる。いつの間にか中に入り込んでいた砂埃を一気にかぶって、フェイリットは大きくむせた。
「正体を隠すためだ。帝都の連中に、メルトローの王女をギョズデに据えたと報せていないのでな。本人は気に入ってやっているようだが」
言い終わるやバスクス帝は、自らのターバンを顔に巻きはじめる。日が暮れたとはいえ、未だ時おり吹く砂まじりの風は止んでいない。フェイリットは頭にかぶせられたローブの端を掴みながら、彼を見上げていた。
「どうした。駱駝に乗らないのか」
「あ、はい。えっとその前に、灌漑なんですが。話しておきたいことがあって」
「なんでしょうな?」
すでに駱駝の上に乗っていたオフデ侯爵は、首を傾げてフェイリットに目を移す。フェイリットはその視線を受けて、ゆっくりと話し始めた。
「問題が一つ。干ばつ地では地下水を汲み上げて地表に流せば、そこに僅かな塩が混じりやすいんです。雨量が豊富な土地では、その塩は雨で薄められるんですが、ここは雨が降らない。水を汲み上げて町に流すまでは容易……いえ、長い時間がかかるので容易だとは言えませんが、可能なことではあると思います。ただそれが、先を見越せるものなのかが心配です。百年、二百年を考えて、イクパルが塩だらけの不毛の土地になってしまっては、元も子もないですから」
オフデ侯爵がはあ、と関心したような声をもらした。
「では、水に含まれる塩の量を調べますかな。そこから塩を濾過し、地表の土壌や作物に刺激の少ない水になる方法を探し出すことに」
「はい、そうしてからのほうがいいと思います。ですが濾過の方法を見つけても、それを都市に流すとなると大きな設備が必要になる。そういう財源は今……」
そっと、バスクス帝を見上げると、彼も彼で眉間に皺を寄せ、何かを考えるように砂地を見やっている。
「――ハレムを縮小しても、すぐに金の回りが良くなることはないだろう。使える財源は兵力の備蓄や、当面の民の生活へ回してもらう方が得策だ。貴殿らの傭兵の力を借りたいこちらとしてはな」
バスクス帝が低い声で言い、オフデ侯爵がそれに渋々といったふうに頷く。
「……確かにそうでしょうな。今この国に上水道を築こうと声を上げても、狂気とみなされる方が強い。〝工夫を加えて今よりももっといい暮らしを〟と考える民は〝何もせず今のまま平穏な暮らしを〟と考える民より少ないものです。バスクス二世陛下に忠誠を誓いはしたが、傭兵の助力について、我々はまだ渋るところがあるのは言い逃れできません。兵を出したいのは山々だが、後ろのイリアス公国がどう出るかわからぬ以上、むやみに動けば……」
確かに、もしイリアス公国が賛同してくれなければ、バッソスは後ろ背を無防備に敵に晒すことにもなりかねない。フェイリットは小さな息を吐いて、アルマ山脈へ目を向けた。
「オフデ侯爵閣下。今日歩いてみて、アルマ山の地下を流れる水脈のありかは、ほとんど掴むことができました。時間と試行錯誤を加えれば、これは必ずやバッソスの……いえ、イクパル全土の利水に繋がるはずです。手前勝手だとはわかってますし、わたしがこんなことを言っては、ご不快に感じられるかもしれませんが……」
そこで一度言葉を区切り、フェイリットはバスクス帝を見やる。この先を言うことは、バスクス帝にも不快を与えるかもしれないと。けれどまるで促すように、ふっと彼は小さな笑みを浮かべて見せた。
「――然るべき時が来たら必ずや、わたしが全力でお力添えします。ですからどうか、今は兵力を潤すことを第一に考えてはいかがですか」
――私と死にたいか。
冗談のように問うバスクス帝の表情が、脳裏に浮かんだ。
然るべき時とは、……きっと彼が死んだあとになる。なぜだかそんな考えが、頭に張り付いてはなれなかった。返事をしたわけではないのに。それに彼が死のうとしていることに、納得したわけでもない。……なのにまるで、〝さようなら〟と告げてしまったような気持ちになって、フェイリットはそっと俯いた。彼は今、どんな顔をしているだろう。
「頼んだぞ」
けれど次の瞬間、頭上に降りた囁くような言葉を聞いて、とうとうフェイリットは顔を上げることが出来なくなった。
彼が操る駱駝の背に乗ってからも、何だか言葉が出てこない。フェイリットは広い背中に掴まりながら、そっと額を、その彼の背中につけて目を閉じる。
「陛下……あの、」
「何だ」
「おまじない、眠れましたか…」
夢見が悪いと言ったとき、彼の背中に施したおまじない。おまじないというよりも、その背に残る傷跡が痛むのを和らげる薬のようなものだった。
「ああ、久しぶりに眠らせてもらった」
ひと呼吸ほど間を置いて、〝ありがとう〟と驚くほどに優しい声が返ってくる。
「もし良ければまた……あ、でもあれ、わたしの血を使うものだし、気持ち悪かったらその、」
彼の背中が、小さく上下する。おかしげに笑う声を聞いて、フェイリットはようやく顔を顰めた。
「わたしは真剣です!」
「わかっている。ならば、私の寝所に来れるか? 寝ずに待っていよう」
「あ……はいっ、行きます!」
それで彼がゆっくりと眠れるならば、毎日でも血を流そう。
フェイリットは額を離してその背を見上げながら、はにかむようにして笑った。
駱駝から眺める夜空には、いつのまにか真っ白な月が浮かんでいる。