069 薔薇の香りの毒薬
目前に座した皇帝を見て、ホスフォネトは息を呑んだ。
木偶の坊、女狂い、無能……人々は彼に対し、様々の噂をかき立てる。
事実、女の噂は少年時代より絶えることがなかったし、当時まみえた彼は、どちらかといえば女が好みそうな優しげな面立ちをしていた記憶もある。
第一皇子と婚約の決まる宰相家の姫君を、奪い取ったほど情熱的な一面も。
しかし牢獄ギスエルダンより釈放されて以後、ホスフォネトは皇帝を見ていなかった。元老院は事実上、バスクス二世の即位以前に凍結されていたためだ。
盛大とは言えぬ即位式にも、一度だけ行われた生誕の儀にも、ホスフォネトが出席することはなかった。
それを差し置いても尚、この目の前にいる男の変貌ぶりに驚きを隠せない。八年ほども前の面影は一体どこへ消えてしまったのか。
厳しげな眉の間には皺が刻まれ、吊り上るように鋭い漆黒の双眸は、こちらをじっと観察して隙がない。対峙した者を、まるで狙われた獲物のような気分にさせる目。〝優しげ〟という言葉は、お世辞にもあてはまらない。
なんと深く、暗く変わってしまったことだろう。
「八年ぶり……ですかな」
玉座にはバスクス帝、そしてその隣に黒のヴェールですっぽりと覆われたジャーリヤが控えている。両者の顔を見上げるように、ホスフォネトは目を動かした。
「変わったか」
ふっと皮肉げに口元を緩めて、皇帝は笑った。ホスフォネトは息をついて首を振り、目線を床へともってくる。
「世辞はいい、わかっているつもりだ」
肘掛から手を伸ばして、顎を乗せる。その仕草を見やりながら、ホスフォネトは口を開いた。
「まずはこちらの不備でお出迎えに失礼がありましたこと、お詫び申し上げたく。陛下、宵の宴がわりに、用意致したものがございます。どうぞお召しあがりくださいますよう」
厳かに頭を下げて、ホスフォネトは言った。ふと上げた顔を、ゆっくりとルクゾールのほうへ向ける。合図を受けて、ルクゾールは酒と料理を運ばせるよう動いていった。
「宴か……久しぶりだな」
目を細めて、目前に並べられていく料理に皇帝は口を返す。
料理だけではない。彼の気をいくらでも反らせるようにと、踊り子の女たちも手配していた。
ゆったりと流れ始めた音楽に合わせて、踊り子たちが動きだす。足輪につけた鈴の音が、調べに合わせてしゃらしゃら響く。
「どうぞお楽しみ下さい。ギョズデ・ジャーリヤ披露目の誉れを、我がバッソスに頂けたこと。感謝致しております」
踊り子のひとりが進み出て、皇帝とジャーリヤの酒椀に酌をしていく。確実に、そしてゆっくりと死へいざなう毒入りの酒だった。蒸留酒に花の香りをつけたもので、味が濃い。毒の味など、その濃さに打ち消されて感じることはないだろう。
「薔薇の蒸留酒でございます」
踊り子が酌を終えて立ち上がったとき、ジャーリヤがその酒をひと口、口に含んだ。
わかるはずがない――そう思いながら見ていると、ジャーリヤはもう一度杯に口をつけ、それをすっと膝元に置いた。
透明な硝子でできている杯は、中身の減りがひと目でわかる。ジャーリヤの膝元に置かれた彼女の杯から、酒の量は変わらなかった。すなわち、口に含んだ酒を、戻したということになる。
気づかれたか。……なんと敏感な舌を持っていることだろう。
額を汗が流れていくが、平静を装うために拭うことはしなかった。ホスフォネトはじっと、自らの酒に口をつけて待つ。
……杯を置いたジャーリヤの手が、そっと皇帝の膝に触れた。
「ほう、なかなか美味なようだな」
膝に触れたジャーリヤの手の警告に、気づかなかったのか。皇帝は一気に杯の中の酒を飲み干すと、踊り子を手招きで呼び寄せる。再び酌をさせて杯を満たし、今度は味わうようにゆっくりと飲み始めた。
「美味しゅうございますか」
「ああ、身体の隅まで行き渡るようだ」
願っても無い感想ではないか。ホスフォネトは満足げに微笑みながら、頷いた。
じきに本当に身体の隅まで毒がまわり、徐々にその命を蝕んでいくだろう。踊り子の一人や二人、寝所に送り込むことができれば、酒の量をもっと多く含ませることができる。
踊り子に目を向ける皇帝を、横のジャーリヤがちらりと見やる。
毒を飲み続ける彼を心配しているのか、はたまた踊り子だけに向けられたその目に嫉妬しているのか。そのどちらでも、ホスフォネトには関係のないことだった。
あられもない衣装を纏う奴隷女たちは、皇帝の寵を願う者ばかりだ。一夜かぎりとて、喜んで相手をしようというもの。この男に抱かれれば、女たちは奴隷の人生から抜け出せる。下賜で爵つきの夫人にさえ、納まることが可能なのだ。
酌をさせながら談笑する皇帝の姿を見やって、ホスフォネトはルクゾールに視線を向けた。ルクゾールが目だけで頷く。
――うまくいった。
あとは滞りなく、皇帝を帝都へ送り返すのみ。これで、テナンにも周辺諸国にも睨まれることなく、この謁見を終わらせることができる。
そう思った矢先だった。
ドン、と踊り子から取り上げた酒瓶を床に置き、
「下がれ」
――皇帝がひと言口にする。その厳しい形相に、女たちは潮が引けるようにそろそろと去っていった。
何事が起こったのか理解できぬまま、ホスフォネトは唖然と皇帝を見上げる。
「さて、そろそろ本題に入るが。いいか」
「……は、はあ……本題?」
わけのわからぬまま答えると、皇帝は嘲笑で頬を歪ませる。
「もう毒酒も飲み飽きた。まだ飲ませたくば酌をせよ」
ゆっくりと聴かせるような静かな声で、皇帝は告げた。
……まさか……わかっていて、飲んだというのか――? 毒だと。
ホスフォネトは壁際に控えているはずのルクゾールへと目を配らせる。彼もまた、自分と同じように呆けた顔をしていた。ルクゾールと視線が合わさったそのとき、皇帝が声を立てて笑うのが聞こえる。
「予に忠誠を誓うならば、今をおいて他に無いぞ」
「……そ、それはどういう」
「有能なウズルダン・トスカルナは、冷たくなった予の身体から血を抜き、その死因が毒であろうことに必ず気づくはずだ。なればお前たちの失うものは、今よりも大きかろう」
自分の腕が細かく震え始めたことに、ホスフォネトは気づいていた。毒だとわかった上で、バスクス帝は酒を飲み干した。忠誠を誓うなら、解毒剤を、今すぐに飲ませなくてはならない。即効性のない毒ではあるが、確実に死をもたらす強い薬だ。解毒できる時間も、限られている。
「陛下……」
言葉を口から出そうともがくが、一体自分が、なんと言うはずだったのかを思い出すことができなかった。
開けた口を一度閉めて、床に目を落としたところで、隣のジャーリヤがほっと肩で息をするのが視界に入った。
これ以上のあがきは、きっと自らの首を絞めるだけになるだろう。ホスフォネトはゆっくりと床に両手をつけると、
「――わかりました」
伏礼をとりながら、皇帝に向けて言った。
「バッソス公国ホスフォネト、バスクス二世帝に今生の忠誠を誓います。……ルクゾール、皇帝陛下に解毒薬を」
生かすか殺すか。自らの命を国という天秤の器に乗せて、臣下に量らせるとは……なんということをするのだろう。命を軽んじているようなのに、そこに絶対の自信が見える気がするのは、錯覚か否か。
「感謝する」
バスクス帝は謝辞の言葉を、自らの口ではっきりと告げた。
「感謝ついでにひとつ提案なのだが。現時点でのジャーリヤはすべて下賜することを考えている。ハレムを縮小し、変わりに妾妃を新たに幾人か設ける予定だ。空いた国費で貴国の兵力・水脈の確保に助力してもいいと思うが。いかがか? もちろん、バッソスからも妾妃を召そう」
「国費の助力に加えて、ギョズデ・ジャーリヤまで……わが国から?」
唖然として、ホスフォネトは肩の力を落とした。今まで、あれほど願っても叶わなかった妾妃位が、ぽんと預けられたことに驚いてしまう。
「そうだ。ただ妾妃として送り込んでも、腹が膨らむことはないだろう。保障するのは貴国との繋がりのみだ」
ルクゾールの手から解毒の薬を受け取りながら、バスクス帝は肘掛に手をついた。
「ああ、まずは〝これ〟を披露目せねばならんな。タブラ=ラサ、ヴェールを脱いでバッソス公の前へ」
かすかに頷いたかのような仕草をすると、タブラ=ラサと呼ばれたジャーリヤが、すらりと立ち上がる。玉座からの階段を、ひとつひとつ確かめるように降りてくる、その足の色に息が止まった。
……抜けるような白。それはイクパル民族の血が、ひとつも混じってはいないことを悟らせる色だった。
すらりと伸びた足が黒のローブから覗くのを見やり、それからその顔へと目を移し、ホスフォネトはゆっくりと口を開ける。
「……あ、あなたは、まさか……」
白い手がヴェールを撥ね退け、夢にまで見たかつての主人が現れた。
薄い金の髪は、記憶にあるまま癖のある巻き毛。湖水の色をした瞳は、透明な静けさを湛えている。
「タントルアスさま……」
口を開けたまま、ホスフォネトはぼんやりと呟いた。