068 美酒
連なる民家から、煮炊きの煙がゆっくりと空にのぼってゆく。
優しい紫色の空に、煙の色が溶けて消える。それは遥か遠い郷愁を、せつなく思い起こさせる光景だった。
オフデ侯爵ルクゾールは目を細めて、自らの背中に意識を向ける。
「客人?」
背後に立った小姓は、無言のまま頷いた。返事は返さず、ルクゾールはただ深い溜め息をこぼす。
「……お通ししなさい」
バッソス城の窓は、帝都アデプより厚く小さい。民家を見下ろすように建てられた高台の城からは、先々に広がる砂漠すら遥かに眺めることができた。
人が二人、ちょうど顔を並べて外の風景を見晴らせる大きさの窓。覗きこめば、美しい色合いの空が広がっている。
うす紫の空と、それに染まった土壁の民家、黄砂の大地がひく一直線の地平線。切り取られた空には、夜の色が戻りつつあった。
朱い太陽が、地平へと融けていく様を毎日眺める。終わりのない時間の流れに、置き残される今日がまた過ぎてゆく。
「オフデ侯爵閣下」
ゆっくりと息を吐いて、オフデ侯爵ルクゾールは振り返る。
若々しい声には聞き覚えがあった。棘がいくつも刺さるような、誰ぞ切りたくてそわそわしている声だ。
振り返ったその先に、思ったとおりの人物を見つけてルクゾールは片眉を引き上げた。
「どうも」
焦茶の織り糸で編み込まれた絨毯の上に膝をつき、一人の青年が礼をとる。軍人のみに許される、片手を膝に、もう一方の手を床について頭を下げる座礼だ。
ごく一般的な軍衣とターバンを纏う、下級兵士。だがその纏っている軍衣の色が、ただの兵士ではないことを窺わせていた。
「黒と紫……奴隷騎兵。やはりな」
マムルーク・シャルベーシャ=ザラナバル……バスクス帝が引き連れてきた少数の供の中に、この顔を見たのは気のせいではなかった。
呼ばれて顔を上げた青年は、三角形に区切られた白目の中の、琥珀色の瞳をゆっくりと細める。彼でない者がやったなら、笑顔にも見える目の動きであっただろう。しかしその鋭すぎる目では、睨まれているような印象しか相手に与えない。
「俺は有名人ですか?」
あざ笑うような口元で、シャルベーシャは言った。
「奴隷騎兵連隊の中隊長・シャルベーシャ殿です。どうしても侯爵閣下にお会いしたいと……お止めしたのですが」
シャルベーシャが言い切る言葉につなげて、ヒラが弁明するように続けた。
改めてシャルベーシャを見やり、ルクゾールはただ頷く。
ターバンに隠れて見えないが、その中には白髪に近い銀髪が押し込められているのだろう。――かれが砂漠の魔物と呼ばれる、戦闘部族であるならば。
実力において頂点に立つ、サプリズ大佐をも凌駕するといわれる青年。
奴隷ゆえにマムルークという枠から抜け出せず、その実力さえ帝国内には認識されていない。
五年前の地方衝突を、少数部隊を指揮したった数日で鎮圧したマムルークがいることは、誰しもの記憶に残っている。
その詳細が決して語られることがないのが、マムルークという団体の性。常にひとつの固体として見られる。それが奴隷というものだ。
マムルークも、ハレムに囲われるジャーリヤも然り。
「私は君を、皇帝陛下の遣いと考えればいいかね。それとも、」
「いえ、妾妃タブラ=ラサよりの礼を伝えに」
「そうか」
皇帝の暗殺に使おうとした野性の白虎は、死んでしまった。砂漠で捕らえ手懐けるのは、難儀したというのに。まさか、皇帝側にもタァインが居たとは。
砂漠の街道沿いに配してあったタァインは、拘束を解いて逃げ出した。それが皇帝の一行を襲った。
よもや、王がいることを察し、自ら向かっていったのだろう。
暗殺部隊の怠慢だ。ただ「逃げた」と思い込み、その先に本物の皇帝がいると気づかなかった。
「……閣下、俺は何も言いませんよ。バッソス公国がまさかタァインを飼って、皇帝を狙ってるなんて陛下も思ってないでしょうしねえ」
飄々と言いのけるが、言葉どおりでないことはわかっている。要するに、彼が今言ったことは、すべてバスクス帝が承知なのだ。そして妾妃の遣いで来たと告げたなら、その彼女も承知ということになる。
「何が望みなのだ」
自分を喰うかもしれぬ化け物を、側に置くバスクス帝の気がしれない。ルクゾールは渋面を堪えて、深い溜め息をついた。
「そうそう、妾妃からの感謝をお伝えに来たんでした。わざわざ御殿医を派遣して頂いたそうで。有難うございました」
立ち上がり、今度は正式な軍礼をとる。いかにもやる気がなさそうに見えるのは、仕方が無いこととした。
「……当然の配慮をしたまでと思っております、とお伝え願おうか」
「はい。そのように」
「謁見の準備が整い次第、玉座の間にお越し頂けるようホスフォネト公より言伝てされている。私から報せようと思っていたが」
「陛下は今妾妃とご寝所に。俺がお伝えしときましょう」
ルクゾールはしばらく沈黙した後、「お願いする」と首を縦に振った。
……次から次へと女を変えると聞いていたが。バスクス帝はそのタブラ=ラサとかいうジャーリヤに、案外熱を上げているのだろうか。城へ着いたとき、負傷した彼女を見向きもしなかったはずでは。
「では要件が済みましたので」
再びやる気のなさそうな、しかし確りと規則に則った礼を残して、シャルベーシャは去っていった。
それをじっと見つめながら、ルクゾールは髭の生えはじめた顎に手元をやる。
「……ヒラ、陛下にお聞きしろ」
「はい」
「美酒を用意する必要はあるかと」
小姓のヒラはふと命令を考えるように首を傾げるが、わかったのだろう。ゆっくりと頷いて室を出て行った。
――毒を盛る必要はあるか? 即効性のない、じわじわと彼の命を蝕む毒の用意を。
帝城に戻りその玉座に身を戻したときが、皇帝の死に時になるだろう。